【現代詩】が趣味の女性が「大人の事情」を描きまくる”KIRINJI(キリンジ)”の歌詞を100%の想像力で好きに解釈してみた。
今回の記事は語りっち系になります。
残念なことに、わたしはKIRINJI(キリンジ)の古参のファンではありません。
より正確には、出会うのが遅かったのをくやしい!と思えるくらい、大好きな音楽アーティストではあるのですが、
どうやら元々兄と弟のユニットだったのが兄だけになって、だとか、弟は弟でソロ活動をしていて…とか、あなたは兄派?弟派?などなど…
ファンならば当然のごとく理解し、整理されていて然るべきディスコグラフィー上の特徴の違いなども、
存分に理解しているとはいえず、なんなら自分がファンなどと口にするのはおこがましいんじゃないか、どこかソワソワと後ろめたいような気すらしてしまう、言ってみれば「にわか知識」状態で書いている記事であることを、まずは寛大な心でお許しいただけたらうれしいです。
多分コレ、例えるなら
「ねえねえ、”東京事変”って”椎名林檎”のことだよね?」ぐらいの感じなんだろう。
「いや、そうだけど…そうじゃないんだよ」
(一応は頷いて微笑んでくれる)みたいな。
それでも書かせてください笑
うん、書きたいんですわたしは!
というわけで、記事内の楽曲情報等については、一応ひと通り調べてから投稿しているつもりではありますが、もし間違いであったり、思い違いなどがあれば、
その時はぜひ愛をもってコメントで教えていただけると嬉しいです。
この記事のお品書き
出会い
最近は何でもかんでもYoutubeがスタートになりました。
私がKIRINJI(キリンジ)を知ったのは割と最近の事で、音楽解説、”音楽博士”として有名なかのYoutuber「Dr. Capital」のチャンネルで、カバーを聴いたのが最初の遭遇。
その曲は、「エイリアンズ」でした。
*Dr.Capitalの動画は記事の下部にリンク
(原曲のリリースは2000年10月12日)
そのため、そのDr. Capitalの動画内で、まずは「エイリアンズ」という曲がコード進行からかなり緻密に作り込まれ、かつ洗練されていることを先に知った上で、動画の終盤で曲を聴くことになり、
その瞬間、稲妻が走りました。
この世の中に、こんな曲あったんだ。
…いちいち言い方が大げさですね!
いやいや、それぐらいは本当に、
そう思うくらいの衝撃がわたしの中に降りてきたのです。
これ、ほんとうに好きでたまらないやつだ。
大好きの、…ど真ん中。
何がそんなに好きだったか?
音楽は勿論のことですが、
KIRINJI(キリンジ)の大好きは、
歌詞。
もう、「歌詞」が最高なんです。
何これ。なに、この情感?
言葉は少ないです。
そして婉曲的、比喩的なフレーズも多く、その語彙に対するもともとのイメージだったり、知識がないと頭の上をスルッと素通りして流れていってしまうようなスムーズさがあります。
だけど、似たような経験を過去にした事がある、
とか、この「空気感」味わった事ある、という
大人たちは通過できない。
思わず足を止めてしまうし、それらの言葉が、
思い出したいような、思い出したくないような
各々の過去を掘り起こしてくる。
そして、ありありとその場面をイメージしてしまうんです。
切り取られた場面設定そのものも最高で、
映画だったらもっともクライマックスの部分であったり、とにかく劇的。
音楽なのに、小説や詩、文芸に近い消費の仕方をしたくなるユーモアと引用の数々。
表現はファンシーなのに、
世界感は全然ゆるふわなんかじゃありません。
超リアルです。
文芸イスト、特に現代詩界隈のみなさんの中にKIRINJI(キリンジ)をまだ知らないという方がいたらぜひ原曲に触れていただきたいと思います。
とはいえ、あなた的には何がオススメ?
というのがあるでしょうから、
ここから先は、
現代詩を書くのが趣味なわたしがKIRINJI(キリンジ)で好きな曲の中でも、個人的「ずきゅん」を突かれてしまったフレーズ(語彙)を抜粋し、
勝手ながら、その良さについて好き勝手書き連ねていきたいと思います。
題して、「キリンジずきゅん語録」。
読んで共感していただける部分がもしあれば、
あなたとは気が合いそうなので、ぜひわたしと仲良くしてください。
「大人の事情」にまみれたキリンジずきゅん語録
5つ、抜粋してみました。
(すごくすごく迷った上で。)
では、いざ!
キリンジずきゅん語録
“僕の短所をジョークにしても眉をひそめないで“
—「エイリアンズ」シングル、アルバム『3』(2000年10月12日)より
“慣れっこなはずの行為が同じ路地を飾るよ“
—「雨は毛布のように」シングル、アルバム『Fine』他(2001年6月13日)より
“熱い汗をまとい凍える魂“
—「悪玉」アルバム『3』(2000年10月12日)より
“ムーン•リヴァーを渡るようなステップで“
—「Drifter」シングル、アルバム『Fine』他(2001年7月25日)より
“歪むシンメトリーはにかむ闇“
—「乳房の勾配」シングル(2017年11月3日)より
エイリアンズ
はい、言わずと知れた「エイリアンズ」。
この曲から入ったので勿論リストからは外せません。
先に原曲をぜひどうぞ。
わたしが特に好きなのが、
最初に引用した上の一節で、
メロディ的にはサビにつながる直前の盛り上がりの部分です。
(このフレーズの後に、有名な「き〜み〜が、すきーだよエイリアンズ」という言葉が繋がっていきます。)
なんて情景がありありと思い浮かぶフレーズなんでしょうか…
あります。わかります。ありますよね。
こんなやりとり。
言った側なり、言われた側なり。
大人の男女ならば、何かしらこれに近い経験がありそうなものです。
詩、というか文字の世界の全体にいえる良さとして、
「描写しつくされない」から「余白を好きに想像できる」ということがあると思いますが、
上の2行に、わたしなりに設定解釈をつけてみるとしたら
どんな男女の場面になっていくでしょうか?
「短所をジョーク」
わざわざ自分を「貶す」ことを言うのは、
笑わせたいか、後ろめたいかのどちらか
である場合が多いでしょうか?
話の中でうまく自分を落とせれば、相手は笑ってくれますが、
面白いどころか、状況やタイミング次第では、ただただしょっぱく終わってしまうことも往々にしてあります。
今は君に何か、笑って欲しくて、
つい、そんな事ぐらいしか思い付かなかったんだよ
だから、神妙に受け止めず笑って流して欲しいんだよ。
この2行の集約から、そんな男性側の、ちょっと不器用な、それでいて相手の女性に対する愛しい想いに溢れたニュアンスを感じてしまいます。
…どうですか?
グサグサっと刺さりますか?
刺さるならあなたは絶対にキリンジが好き。
では、
わたしが想像する「エイリアンズ」。
きれいに整頓された「余白」をあえて、無粋に埋め尽くすとしたら、こんな感じっていうのを書いてみましょうか。
真夜中、月の浮かぶ暗い夜空の下で。
公営団地が小さく整然とならぶ、静かな環状道路沿い。
周囲は完全に寝静まり、ほかに人気らしい人気もないが、その景色の上を、チカチカと、着陸灯が点灯しながら斜めに横切っていくのが見える。
それだけで、かろうじて旅客機だと分かるが、
エンジン音までは聞こえてこない。
つい、行く末を最後まで目で追ってしまう。
慣れ親しんだこの街では、
都市部での混沌は一切なかったかのように感じられる。
人に怒鳴られたり、日中にどれだけ嫌な事があろうと、この時間には全てを切り離す事ができる。
あまりに静かすぎて、まるで世界にただふたりきりだけになってしまったんじゃないかと錯覚するくらい。
そんな、しんとした穏やかな夜にも関わらず、
君は何がかなしくてか、隣を歩きながら泣いている。
泣かないで。
何となく、気持ちは分かりながらも
君に伝えてあげるいい言葉を見つけられなくて、
頭上にある月を君に見せようとしたりして
同じ柔らかい明かりを額に浴びながら、
寝付けない夜を共有している。
君はただ、世界に自分が一人ぼっちだと
感じているかもしれないが、
それは僕も同じだ。
「ここ」ではない「月の裏側」を
夢見てしまう僕たちは、
ここには馴染めない
似たもの同士なんだ。
そんな君が好きなんだよ。
バイパスのどこかごく遠くの方で、
ランボルギーニか、あのあたりの外車が吹かす
大きくて主張の強いエンジン音が、
2、3度静寂に響いて流れ去っていった。
どうしたら君は笑ってくれるかと思って、
僕の短所をジョークにもしてみたけれど、
神妙な顔で受け止められてしまった。
歩き続ければ幾つも街灯が通りすぎていく。
何でもない夜の景色も、
ふたり一緒なら、全く違って見えないかい。
もういいじゃないか。
ふたりで生きよう。
「何かが足りない」と思ってしまう気持ちは
お互いのキスできっと埋めあっていけるよ。
そうやって数時間後には、
世界は今までと同じ朝を迎えるし、
見たくもない暗いニュースで1日が始まるけれど、
乗り越えていこう。
僕が「この場所」を「ここじゃないどこか」に
してみせるって言っているんだよ。
それは、愛してるってこと。
雨は毛布のように
こちらもわたしが大好きな曲です!
「雨は毛布のように」からは上のフレーズを抜粋してみました。
「慣れっこなはずの行為」って。
キス、なのかな
あなたにはなんだと思えますか?
それはふたりで「路地を歩く事」なのかもしれないし、「笑い合う事」なのかもしれないし、最初に言ったように「口付けする事」なのかもしれないです。
その行為を表す言葉そのものを書いてしまわずに、
「慣れっこなはずの行為」って書くから、
受け手に想像の余地が生まれます。
それ以前に、この曲は「雨は毛布のように」というタイトルが最高です。
「雨」が「毛布」って!
ちょっとおかしくて愛おしい、男女のかけひきが浮かんでくるようです。
喧嘩して長い事、何がきっかけかはわからないし、
数時間から、それこそ、1ヶ月とか2ヶ月単位でずっと口きいてなかったのかもしれない。
それなのに、長く続きすぎた喧嘩に
痺れを切らすような何かがあって
思い切って雨がざんざんぶりの中飛び出していく
もう大人としてあり得ないほど、
頭から雨を被り、ふたりともども、
ずぶ濡れになってしまったら、
途中から何もかも馬鹿らしくなって
ついには、互いにいい大人であるということすら忘れて
雨の人気のない往来で水掛け合ったりしてるうちに
いつのまにか笑いあっている。
毛布は頭からかぶったら、重たいです。
髪から全身の衣服が水を吸って纏わりついて、
どうしようもなくなっちゃってる感じが
「雨は毛布」というだけですごくよく分かります。
毛布を被っているのはひとりでしょうか?
いや、ふたり。っていう点も、
なんだかちょっと大人の関係。
ずきゅんときてたまりません。
ただの何でもないキス。(慣れっこなはずの行為)が、
喧嘩のあとの、ふたりずぶ濡れの路地で、
キラキラとドラマチックに演出されている表現をこのフレーズからは感じてやみません。
悪玉
最近、プロレスという興行ビジネスを実際に目にする機会がありまして。
それは女子プロレスだったのですが、選手が互いの信頼関係の上で技の応酬を繰り広げる緊張感、肉体や技の美しさ、その独特の世界観と会場の熱気に、大興奮、すっかり魅せられてしまいました。
そもそも「プロレス」って何なのか、
「魅せる」格闘技などと称されることもありますが、
見ている方は純粋に競技として観戦したら良いのか、作られたショーとして鑑賞したら良いのか。
元々プロレスに親しんでいるプロレスファンからすれば、そんなのは野暮ってところでしょうが、
とにかく他の格闘技やスポーツと異なるのは、
「主役(善玉:ベビーフェイス)」がいて「悪役(悪玉:ヒール)」がいる。
勝負なのに役回りがある。というところ。
キリンジの「悪玉」はプロレスの曲ですよね。
しかも、ヒール(悪玉)側の視点。
この曲に登場する男性は、
プロレスの「悪玉」を生業にしているけど
同時に誰かの「お父ちゃん」でもあって、
そこには、自分の試合を見に来る息子の存在があるわけです。
「反則負けこそが最高の名誉」
興行としてはベビーフェイス(善玉)を勝たせないといけないのでしょう。
しかもどうやらデビュー時から「そっち側」に割り当てされてしまって、この先も勝ち上がるシナリオ筋には載せてもらえる見込みがない。
「”破壊の神シヴァよ、血の雨を降らせ給うれ!”」
観客がどっちに感情移入するも自由ですが、善玉側に声援を送るお客様は、悪玉には罵倒を浴びせて会場を彩っていきます。
負ける時には、同情を集めるような負け方なんてしません(ベビーフェイスが逆に悪玉を痛ぶっている「悪者」に見えてしまうから)、
できるだけ憎まれ役を買って、さげすまされ、きれいに技を身体に受けて、罵倒されれば、仕事としては優秀と評価されるような、そんな役回り事情があるのかもしれません。
「引き際を鮮やかにする哀しい知恵」
パイプ椅子に座る自分の息子も、当然この勝負を見守っています。
どんな表情で父を観ているんでしょうか。
父ちゃん今日こそは、
それとも、
今日も…どうせ、でしょうか。
カッコイイとこ魅せたいのに。
プロレスを大人は「そういうもの」だと思っているからこそ、愉しむことが出来るんですよね。
プロレスを楽しめるのは、わたしたちが「大人」になったからに他なりません。
もうこの人物設定だけで、
「悪玉」という曲はすごくドラマがあります。
引用したのは、主人公がもつ葛藤を
パッと切り取ったかのような11文字
「熱い汗をまとい凍える魂」
善玉の、重い技をきれいにその身に受け、
フラフラの朦朧としたリングの上で
ワァーっと会場が沸く瞬間、
身体中もう灼熱のように熱さで汗だくなのに、
分厚い胸の皮膚の下で、心だけがひやっとしているんです。
いつのまにか「大人の事情」に組み込まれて、
がんじがらめになっていった主人公が、
『ラストスタンド』で全てをかなぐりすてるようかのように自分を突き通す曲展開。
そこにはものすごいカタルシスがあります。
Drifter
ここまで続けて読んでくれてる方に感謝します!笑
四つめの紹介、「Drifter」を皮切りに、
KIRINJI(キリンジ)の曲によく登場する(?)と思われる人物像の類型に想いを馳せたいと思います。
この曲、「I♡歌舞伎町」、
「『あの娘は誰?』とか言わせたい」、
ひょっとしたら「あの世で罰を受けるほど」も、
同じカテゴリーの男女像設定かもしれません。
描かれているのは、
いわゆる、〈「愛」を買う男〉と、
〈「愛」を提供する女〉か、
それに近い共依存の関係性であるように感じられます。
この場合の「愛」っていうのは、
寂しさや虚しさを埋め合わせるものであったり、自己承認欲求を満たしてくれるものだったり、もっと単純に性的な欲望を満たすことであったり、
まあつまり、純粋に相手を愛する気持ちではなかったりするわけですが、
(「純粋に相手を愛する気持ち」なるものだけがこの世でただひとつの「愛」だと認める理想論については別の機会でむちゃくちゃ議論したい)
「Drifter」とは、日本語で「漂流者」なので
定住できない、ひとところの居場所に留まれない
「家なき子」を想起させる言葉となります。
そして、この一節を読んではじめて
気がつく仕掛けがあります。
”Drifter”は単に「漂流者」という意味合いだけじゃなく、かの有名な映画の曲からの引用になっているということ。
その曲は、「Moon River」。
作家トルーマン•カポーティ原作、
映画ではオードリー•ヘップバーンが主演女優の
「ティファニーで朝食を」の劇中歌です。
あ!
宣伝になりますが、別で洋楽翻訳した記事を書いているので、興味があれば、ぜひそちらも読んでいただけたらうれしいです。
映画「ティファニーで朝食を」の
劇中歌「Moon River」で歌われる
「ふたりの漂流者」とは、おそらく、
ホリーとポールのことです。
おそらく、というのは、
主人公のホリーがそのワンシーンの中で、
誰にあてるでもなく、ニューヨークのアパートメントの窓辺でギターを抱えながら、ひとりごちるように口ずさんだ曲という設定だから。
彼女の歌声が薄い窓ガラス越しに聞こえてきて、
ポールが窓を開けて下を見ると、
そこにホリーがいる。
そしてポールを見つけて微笑んで
「こんばんは、何してるの?」と言います。
「ホリー」は、
令和の時代風に言うなら「港区女子」です。
(すごい味気ない言い方だけど)
どこそれ?っていう田舎町から、
ある時急にぽっと出てきて、
都会の中で着飾り、過去の自分を上書きリセットして
今そこにある若さと美しさだけが
正しさと信じて、いつ現れるとも限らない
「夢の王子様(おじさま)」がわたしを見つけ、囲い、養って何不自由ない生活をさせてくれることを心の奥底で願い(目論み)、
終わらない舞踏会を延々渡り歩くことで日々を凌ぎます。
計画通り「身受け人」が現れて
めでたしめでたしとなればいいのですが、
無情な時間の経過とともに、いつしか、
絶対的武器であり価値のあった
「若さと美しさ」の方が先に去っていき
人知れずひっそりと田舎に帰っていくことだってあります。
「ティファニーで朝食を」の原作者であるトルーマン•カポーティは、
自分の母がこの類型の女性であったことを何かの機会に告白しているようです。
幼い自分を置いて、他の男を求めて家を飛び出し、頻繁に留守にしてしまう美しい母。
母の居ない期間、トルーマンは寂しくてたまらなくなり薄情な母を憎むのですが、母の方はというと、たまに帰ってきたかと思えば捨てられた男との関係でボロボロに傷ついており、後悔の言葉を紡ぎながらトルーマンをぎゅっと優しくハグしたりするので、混乱をきたします。
地獄のような寂しさと、母に対する複雑な慕情で真っ二つに裂かれたトルーマンは、ある時、母の目を盗んでドレッサーから香水の瓶を掴み、蓋を開けてひといきにその中身を飲み干してしまったそうです。
それから大人になり、ニューヨークのあらゆるクラブ、社交界でさまざまな女性(「白鳥たち」と呼んでいた。)との関係をもつようになったトルーマンは、作家として「ホリー」を生み出したと言われています。
母、白鳥たち、かわい子ちゃんたち。
様々な女性像からエッセンスだけを抽出した実在しない香水、それが「ホリー」ということのようです。
話を戻しますと、「Drifter」は
その歌詞から引用すると、
「人形」と、人形の家には「棲めない」「人間」の歌ということで、
何の生産性もない不毛なことだと分かりながらも、
「ホリー」を心の支えに、
日常を生き抜く男性像、そして
おそらくは女性側は女性側で、
同じく不毛な世界に生きている設定ですが、
そこにすごいリアリズムを感じて、
ずきゅんなフレーズでした。
…社会って、理不尽で厳しくてつらいものだよね。
みんな強く生きていこうね。
人に優しく。自分に優しく。
乳房の勾配
最後に、KIRINJI(キリンジ)というよりかは冨田恵一さんfeat.キリンジの曲です。
この曲の歌詞は、………
聞いたでしょうか?
驚きを通り越して…
まず、とにかく、原曲を知らない人は
曲を聴いてみて欲しいと強く思います。
引用したフレーズ2行って、
何のこと??
きっと、いや、絶対この一節の
抜粋じゃ、
ぜんぜん分かるはずもありませんが、
不思議なもので、
全体を読み通したらどうでしょうか。
実際にはものすごくあけすけとして
インパクトのある語彙だってことがわかります。
めっちゃエロいです。
「乳房の勾配」のすごいところ。
例えばあなたが何も考えずに、
料理や皿洗いなど日常の家事をしながら
音楽のサブスクリプションサービスを流し聞きしていて、たまたまこの曲が載ってきたとしたら、
おそらくなにもひっかからず、
単に爽やかな曲という印象で聞き終わってしまいます。
(それでも、サビでは「乳房」っていう
決定的ワードが出てくるので、
その時にはじめて一瞬「…ん?」て引っかかるかもしれないけど。)
この曲の歌詞のもつ官能表現は驚きを通り越して
恥ずかしいとかそういうレベルも素通りして
まじまじと鑑賞したくなってしまう
不思議な魅力があります。
“歪むシンメトリー”
それ、さ…
“俺の手でもみしだかれて左右の形がバラバラになる乳房”
て、ことじゃん
それでいいじゃん!
いや、ちっとも良くない。
それだとちっとも「余白」も「風情」もあったもんじゃないし「言い訳」もできないじゃないか。
文芸とはかくありなむですよね。
詩人も小説家も絵描きも写真家も、
作家とは、俗とされて、とても身近な、
たくさんのひとの共感を得られるかもしれない
「ありふれたこと」
だけどそのまま出すのには憚られることを、
こうしてきれいに調理して整えて
外に出してあげる人々のことかもしれない。
でもそんなことって、
社会的な視点もちゃんと持ちあわせて、バランスを見ながらの表現力があってのことなので、
やー。すごいな。「ずきゅん」です。
「大人」でよかった。
まとめ
振り返ると、全体的にアルバム『3』にある曲が多めの抜粋になってしまいました。
エイリアンズから入った私なので、
KIRINJI(キリンジ)の好みがどちらかというと「エイリアンズ」寄りなのかと思います。
紹介した曲の他にも、
「双子座グラフィティ」、「イカロスの末裔」、「非ゼロ和ゲーム」などなど…
まだまだ深掘りしたい「ずきゅん語」をたたえた曲はいっぱいあるのですが、
わたしの記事を読んで関心を持って頂けた方は是非是非KIRINJI(キリンジ)を聴いていただけたらと思います。
そして語りたいです。笑
最後までお読みくださりありがとうございました。
またね!
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