秋の和歌11・寂蓮法師
さびしさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮
「寂しさは特に何という色というわけでもない」
何ともいえないどことなく覚える感情をこんなに上手に詠めるものなんですね。
いつも定家様定家様騒いでますが、寂蓮好きなんですよ。
定家様の従兄ですね。明月記なんか見ると仲良さそうですよね。
仔細な観察力に裏打ちされた繊細な表現がとてもよいです。猛々しさやとがったところ、理屈っぽいようなところがまるでなく、非常にしとやかで優美な歌を詠みます。
革新的なところや挑戦的なところ、激しい情念などはないですが、しみじみとした「もののあはれ」を感じさせる歌です。
そのせいか、秋の歌によいものが多いんですよ。
ひとめ見し野辺のけしきはうら枯れて露のよすがにやどる月かな
むら雨の露もまだひぬ槙の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮
野辺はみな思ひしよりもうら枯れて雲間にほそき有明の月
ミクロからマクロへの視点の移動が素晴らしく、どれも非常に美しい絵ですが、
新古今らしい幻想的な歌もあります。
鵲の雲のかけはし秋暮れて夜半には霜や冴えわたるらん
鵲の雲のかけはしは七夕伝説に出てくる、天の川に鵲がかけてくれる橋なんで、それだけで悲恋のイメージの層が広がります。
らん、なので見ているのではないです。秋の終わり、夜は冷えるなあ、こんな冷える夜は天の川の橋にも霜が降りてるだろうなと思い浮かべてるんです。
こんなロマンティックな想像したことありますか?
なんか古い歌人の批評(忘れた)で寂蓮が女性的って評されてるんですが、こういうところですかね。
当然「鵲の渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞふけにける」の本歌取りですが、
「鵲の橋の霜が白い→夜が更けたなあ」という本歌から「秋の夜も更けた→鵲の橋の霜が白いだろうなあ」とまったく逆の動きになっているところが面白いですね。
さて、暦の上ではもう晩秋なんで、秋の歌も残りわずか。