知っている理解している共感しているは全て別
口癖のように、わかる〜と言う人に困惑する。
多くの場合、その言葉は浅い共感を意味しており、単なるポジション取りに過ぎず、喜びに繋がらないと感じることが多いからだ。もし二人で話していてわかる〜を連発されたら、「お前、もはや俺じゃん」となってしまう。
知るという大きな円の中に、理解できるという円があり、さらに小さな共感という円があると思う。その先に点のような同化があるのかもしれない。
例えば
ディズニーランドの存在を知っている、のと(名詞)
ディズニーランドの意味を理解してる、のと(遊園地)
ディズニーランドの意義に共感できる、のと(夢の国)
ディズニーランドの理念に同化したい、のと(スタッフなど)ではレベルが違う。下に降りれば降りるほど個人的で濃密な領域になり、入り組んでいる。その複雑な組成の中で、もし類似した部分があれば、そこにこそ喜びが感じられるだろう。
わからない(共感できない)けど詳しく聞かせてよ、と言いたい。
もっと細部まで話した上で判断したい。わかりあえなくてもいいじゃないか。
その問答の果てにたどり着いた「わかる」には、きっと価値がある。