にがい米(Il riso amaro) ジュゼッペ・ディ・サンティス
最近なぜか戦後のイタリア映画がDVD BOXになって安価で売られている。これを機にイタリア映画が広く知られることになるといいなと思う。
にがい米(1949)は、ジュゼッペ・ディ・サンティスの映画。トリノへ米の収穫のために出稼ぎに行く女性たちを描いた映画。イタリアでは、米つくりは断然北部のもの。米が主食なのは北部地方だけである。(逆に北部はあまりパスタやPizzaは食べない)駅前の更地の様子は、現代のあの都市整備がよくなされたトリノからは想像もつかない。
映画としてはアカデミー賞ノミネートやカンヌ映画祭のコンペティション出品などもされている。これもネオレアリズモ映画としてよく取り上げられるが、私個人としてはネオレアリズモ映画としては、結構異質な部類だと思っている。
異質さのまず1つとして、物語の終始、あまりにエロティックなシーンが目につくところである。それも芸術的エロティズムというよりかは、いかにも商業的である。若くてぴちぴちしたシルヴァーノ・マンガノはじめとして美女たちが、いやに露出度の激しい服装で稲作をする様子。日本ではこんな目の保養になる田んぼがあるだろうか、ショートパンツで太ももを露にし、胸の形がよくわかるピチピチのシャツを着ている若い女性ばかりが働いている田んぼ。それでみんな甲高い女性らしい声で歌っているのである。これがリアリズムだろうか、と私なんかは疑ってかかってしまう。(シルヴァーナ・マンガノはそのダイナマイトボディから、当時日本では「原爆女優」と言われていたという逸話がWikipidiaに書かれていたが、本当だろうか。なんというセンス)
これを見て私は、日本の日活ロマンポルノをふと思い出した。日活ロマンポルノは1970年代映画産業がどん底の時に生まれたジャンルで、要は映画館への集客目的で、「映画の尺は70分以内」、「10分に1回は性行為のシーンを入れる」というルールにのっとって撮影された映画。逆に言えばそれを守りさえすれば、表現の自由はかなり認められていた。そのためこのジャンルはただのポルノ映画にとどまらず、映画芸術として優れたものを輩出することになり、現在も高く評価されている。そして滝田洋二郎や周防正行、相米慎二など有名監督も実はロマンポルノ出身なのである。
そういう時代だったのである。もちろん本映画は、日活ロマンポルノのようにあからさまな濡れ場のシーンなどないから、系統はもちろん違うのだけれども、それでもあのようなエロティックなシーンをかなりの頻度で挟むことによって、収益を意識した映画として成り立たせることができたのではないか。戦後すぐのまだ戦火が残るあの時代に、ノーブルな人達が好む小難しい映画、自分たちの貧しい生活を映し出しただけの映画なんて、大衆は求めていなかったのである。
主人公の一人としてヴィットリオ・ガスマンが出ている。これがなんともかっこいい。ヴィットリオ・ガスマンは今人気俳優のアレッサンドロ・ガスマンの父親だが、息子よりも父親の方が典型的な二枚目俳優だ。彼はデ・シーカやエットーレ・スコーラの作品などによく出ていた。
さて2点目にこの映画の異質だと思える点が、ミュージカル的な要素が少々あるところである。稲作をやりながら女たちが民謡みたいなものを歌うのである。茶摘みの歌のような。しかしこの稲作はイタリア全国から集まってきた出稼ぎの女たちによるものなのである。女たちは北部の地元の者ではなく、各々がそれぞれの方言で好き勝手話している。それでいて、かけあいの歌合戦のように二手に分かれて歌い合うのである。それが状況とマッチしているので、まるでセリフがそのまま歌詞になったような、そうこれはもはやミュージカルである。(ジュゼッペ・ディ・サンティスの「オリーブの下に平和はない」もこういうセリフが民謡のように歌われるシーンが多用されている)
後半のシーンで、圧巻の合唱シーンがある。仲間の出産と、シルヴァーナの自滅の感情といろいろなものが混じり合い、地響きのような合唱とともに脳天を打ち抜く。ドキュメンタリーのようであり、それでいてエンターテイメント性を持ち合わせ、そして最後に誰もを竜巻に巻き込んでしまうかのような、あの、女たちの魂が前面に出てきたような合唱シーン。全くなんという映画だろうと思った。