今日は家の窓という窓が雨模様で、目を瞑ると滝の裏側にいるような感覚、四方を雨に囲まれた空間にいる気持ちになる。壁を打つ雨の音も強ければ強いほど、閉塞感に息苦しくなり、それでいて私の粘膜という粘膜は雨の音でコーティングされて、細胞は空虚になっていく、そして集中力は増していく。発酵させているパンは、酵母がみんなで一斉にうわっと膨むのではなく、個々でぽちぽち気泡を出しているので、まるで泥沼みたいに見える。天然酵母に変えてから、こういう膨らみ方になる気がする。時間をかけて発酵するので、少し気温が落ちた雨の日はパンが美味しくできると思う。レコードプレーヤーはいつの間にか静かに回っている。針を落とさずに。
私たちは静かな生活をしていると思う。夫も静かだし、私も静か。お互い無駄なエネルギーを消費したくないタイプなので、滅多に声を荒げたりすることはない。子供もなんだかそんな大人の生活に馴染んでしまっているように見える。それにテレビがないからかしら。ラジオもテレビもずっと喋っていることは変わらないのに、テレビはどうも煩い。
先日小雨の降る中、道端では親子が大喧嘩していた。もう80歳ぐらいのお婆さんと娘、(私には姑に見えたけれど)あまりに大声で話すので何を話しているかはっきりとわかった。相互の喧嘩というより、娘が一方的に怒鳴り散らしていた。おそらく近所の人たちは皆外出できずに、あの声に耳をそば立てていたことと思う。
「だからもうおかあさん、なんでそんなこというの!?汚らわしい!」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「信じられない、そんなこというなんて。だからおかあさんは性格悪いって言ってるのよ!」
「ごめんなさい、もう言わないわよ」
「もう、ついてこないで!私もう帰るから!!」
この場面しか見ていない、この辺りの自治会の私たちにとっては、ヒステリックな女の人が弱者を虐めている構図にしか見えなかったし、このか弱い老女が実際どんな毒を吐いたのかは想像もつかなかった。
私は窓の外を見ながら、なんだか体の中に異物が混入して、アレルギー症状を起こしているような感覚に陥った。久しぶりにあの世界に触れてしまったと思った。かつては私もあの向こう側の人であった。
あの熱量。私は今ではずいぶん冷めていてなんでも客観的に見るようになってしまった。私もかつては自分のことなんて見えていなかった。けれどもしかしてその方が生きている感覚があるのかしら。どうだったっけ。
先日ものすごい暑い日には突然母がやってきた。孫の顔が見たいからと、色々と小道具を抱えていた。気づいたら、違う世界の人過ぎて、あの世界の膜に触れるのに私はいいかげん疲れてしまった。小学校で習ったマーブル画みたいに、水の上で違う色のインクが棒で辿られて侵入してきて、あたかも一つになってしまいそうになる。危険を察知した私は、昔でんじろう先生が作っていた大きなシャボン玉に飛び込んで入った。私の息子もこのバリケードに入れなければ。しかし息子は風船でものすごい興奮気味で母と遊んでいる。彼は大丈夫だ、彼は母の熱量を打ち負かす、別の世界がある。
彼は力の加減がわからないので、風船をバンっとものすごい爆発音を立てて破った。私は驚きすぎて肩と首を痛めた。母はもう一つ風船を作って、息子に大きな弧を描いて投げた。キャッチした息子はまた手の中でものすごい音を立てて、バンっと破っていた。爪が長いのかもしれない。私はその音を耳に受けた瞬間、激しい頭痛に襲われた。彼自身は目の前で大きな炸裂音が鳴り響いたにもかかわらず不思議と、全くもって泣いていなかった。
もう息子の鼓膜が心配だから、と私はヤクザのイチャモンばりのことを静かに母に伝え、母も私のシャボン玉がなんとなく固そうだと察知したらしく、そうね、とそのまま帰って行った。
一緒に20年近く暮らしていた間柄なのに、こうも違うものを纏っていることが我ながら不思議に見えた。夫の実家には家系図がある。それも木のデザインが施された代々伝わる古いものだ。うちにはこんな立派な家系図はないけれど、私が同じ木から派生したなんて信じられない。確かにもう生活スタイルは違うし、お金をつぎ込むところも違うし、食べている野菜とかメニューも違う。それでもここまで全く違う物質になってしまうとは。
言われてみれば、私は社会から閉ざされていたわけではないから、時間に換算したら母と過ごした時間なんて、実際の人生の中でこれっぽっちしか占めていないかもしれない。私はいろいろな人に出会って、それが血となり肉となった。そして鰹節のように我が身をどんどん削ぎ落としていった。
ゴミのビニール袋を広げたら光の反射で、雲の合間から日が見え隠れしているときみたいになっていて、雨が上がっていることに気づいた。そういえば叩きつける雨音ももう消えていた。