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臨機応変さと予定通り どちらが大切?

準備をして段取りを決めていた物事を進める上で、何か問題が起って本来の予定通り進める事が困難になった場合、

「本来の予定を無くしてでもその場に応じて「臨機応変に対応する」」

「時間を調節する・人を調整するなどしてなるべく「本来の予定通り進める」


どちらの方が正しいのだろう。
この問題に関して、私が所属するゼミのとある一件で考えさせられた。
その事例を紹介しながら私なりの見解を話そうと思う。

私のゼミの先生は過去の経歴が影響し、様々な人と幅広い交流がある。
そのような広い交流を持つ中の一つとして、慶応のある政治系の先生との繋がりがある。
その慶応の先生は慶応で自分のゼミ生を持っていることもあり、数年前から私のゼミと交流会をすることになったらしい。
その交流会では、年に一回ずつ立命の私達が慶応に・慶応の生徒が立命に、それぞれ相手の学校に出向き、その日一日を使ってある問題(例:同性婚についてどう思うかなど)に関するディスカッションや、代表者の卒業論文に向けた作成途中の発表などを聞き、それに意見するといったような事を行なう。

私が今回紹介するのは2年前のゼミ交流会(私達が出向き慶応側でディスカッションを行なった際)に関する話だ。

そこで行なう一日のスケジュールは、事前にそれぞれの学校の代表がリモートで会話するなどして段取りを組み立てており、私達の一つ上の4回生の代表数人を中心に、3回生である私達の代表数人もその企画に意見を提案しながら進行していた。
そして交流会当日は、それぞれの代表2名が変わり弁端に協力しながら司会進行を行なっていた。

その際、私達の代表である4回生のAさんと3回生のBさんで進行について一悶着があった。その二人は私のゼミの中でもトップクラスに頭が賢い2人であり、「臨機応変に対応する」「予定通り進める」という別々の考え方を持っていた。

様々なカリキュラムをこなしていくなかで、本来のプランニングで進めることができない現実を分かっていたAさんは、カリキュラムを一回捨ててその状況で一番正しいと思う事を(他の生徒が求めていることor時間内で上手に進行できる内容)行なおうとした。彼はその場を臨機応変で対応するべきという判断だったのだろう。
一方でBさんの主張としては、この日の為に必死に準備してきたカリキュラムだからこそ、その予定を崩さずに時間配分のみずらすことで、なんとか本来の予定通りに進めようとした。彼女のなかでは予定通りにプランを進めることが大切だと判断したのだろう。

この一件を端から見ていた私は「臨機応変さと予定通りに進める能力、どちらの方が大切なのだろう?」と考えさせられた。

もし私があの立場であったならば臨機応変に対応する側だと思う。

というのも、普段の近しい友達関係における私の立場が、だいたいメインで進行する中心にいることが多く、実体験に基づいた経験から言えることとして「臨機応変に対応するしかしてこなかった」ことが挙げられる。
友達と旅行に行くときも、バンド(音楽)をやる時も、それを行なう上で人を集めるのも、その旅行やバンドにおける企画を考えるのも、なぜかわからないが大体私だ。
その集まりにはいつも私よりも才能があるやつが絶対にいるので、メインで考えるのが私でいいのか?と思いながらも、私の決めた予定についてきてくれる友達に感謝している現状がある。

そんな私の経験から言わせて貰うと、何をするにしても事前に時間をかけて大まかな予定を組む私にとって、あらかじめ予定を決めていたとしても、その予定通りに上手くいったことがほとんどない。
つい最近も長崎旅行に行ったのだが、友達の影響で本来考えていた旅行プランと大きく変わってしまった。もともと行こうと思っていたハウステンボスは結果的に行けなくなったし、その代わり本来事前のプランニングで考えてもいなかったイベントを急遽行なうことになった。その旅行は結果的に非常に充実して楽しい旅行になったので良かったのだが、やはり従来のプラン通り行くことは無かった。

客観的にこの事実を見ると、私は臨機応変に対応する事が得意とも言えるが、本来の予定通り物事を進める能力が無いとも言える。

話を元に戻すが、その2年前のディスカッションで揉めた2人はどちらもトップクラスに賢い生徒であり、考え方の違いはそれぞれが過去に求められた能力による影響が大きいと考えられる。

実際、臨機応変に対応したAさんは、過去のバイトにおいて臨機応変に対応することばかりを求められていたという背景がある。また、Bさんは自らがメインになって司会をするなど、自分を中心に予定通り進行を進めることを求められる環境に長くいたからこそ、予定通り物事を進めることを求められていたという背景がある。

どちらの意見も正しいものであり、どちらか一方を否定出来るものでもない。
私の個人的な見解としては、この問題に関しての私の考えは「どちらも正解」であり、正解が「時と場合によって変わる」のではないかということだ。
そしてどちらの考え方がその人の性格に合っているか、好きかどうかなのだと思う。

とにかく一つだけ言える事があるならば、二人とも優秀すぎるが故に一人でなんでもこなせてしまう為、キャラクターとしては一匹狼タイプであった。これがどうというわけではないが、集団行動を学生時代に常にやってきた人であれば、その場の雰囲気や流れといった目に見えないものを優先して動いてしまうように思う。
どちらも自分が中心に立ち、大衆を引っ張っていける能力があるからこその対立に見えた。
そして、同じタイプの能力が誰よりも優れている二人だからこそ、妥協点を見つける事が難しくなったとも言えるのでは無いだろうか。

中学にテニスを3年間、高校でサッカーを3年間してきた私は、個人スポーツ・集団スポーツのどちらも経験している。だからこそ、基本的に一人で問題を解決し、時には仲間を引っ張っていかなければならない環境・集団の一コマとして与えられた仕事を的確にこなさなければならない環境のどちらも経験している。

そんな私の経験に基づいた見解として、学生時代に集団行動を求められてきた人は、トップダウンで言われたことをそのまま行なう事が得意であり、与えられた仕事をこなす・周りの雰囲気をキャッチアップして引き下がるという選択を取ることができる。言われたことをそのままするので、個人個人に意見が無いのかというとそういうワケではないが、自分の意見を主張して全体を納得させられる自信や度胸が少ないように思う。なにより、自分に賛同し共に戦ってくれる人がいなければ孤立してしまうというリスクを背負った上で、大変な労力を使うリーダー的ポジションを好む人が少ない。それならば文句を言いながらでも上の言うことを聞いておこう。というような感じだ。

一方で、学生時代に個人行動を求められてきた人は、一匹狼で戦わないといけない立場にいるので、ある意味メンタルゲームというか、自分自身を肯定し続けられる要素(自分の今までやってきた経歴・経験)の大きさによって、どれだけその先に進む事が出来るかが変わってくる印象だ。誰かに言われて行動するよりも、自分が正しいと思うことを行なうことが得意で、何かの決定や引っ張ることに長けているように思う。しかし、その能力が高ければ高いほど、人との妥協点を見つけることが苦手というかヘタな印象も持つ。一匹狼で生きていけてしまうからこそ、人の気持ち・考え・場の流れという全体感のキャッチアップが不得意で、ある意味一人っ子特有のマイペース気質を持つように見える。
知恵・技術(スキル)・自信など様々な要素が絡み合ってできあがる個人のスキルだが、結局は誰も助けてくれないという観点でいけば、自分のメンタルをいかに保ち続けられるかという要素を集団行動の何百倍も求められると思う。

どちらが本当に正解なのか未だに答えは出ていないし、答えがでるものでも無いのだろう。

一つだけ確実なことは、予定通りに進めるプランニング能力と、臨機応変に対応できる即興力のどちらも高いレベルで持ち合わせている人こそ最強だということだ。

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