「コミュ力」本 読む必要ある?
「コミュ力」本と記載したが、コミュニケーション能力を高めるための指南書として有名な「バナナの魅力を100文字で伝えてください」を読んで感じた個人的見解を述べたいと思う。
本書を批判しているように取られるかもしれないが、あくまで「コミュ力」すなわち「コミュニケーション能力を高める」上で「本を読む事が必要か?」という個人的見解であり提唱なので、そこをご理解いただいた上で読んで貰えると嬉しい。
ここでは本書の説明は無いので、詳しい内容はこちらを読んでください。
「バナナの魅力を100文字で伝えてください」に関して紹介しています。こちらから!
↓
「本書を読んだきっかけ」
本屋さんで見かけたことはあったものの、さらっと本を読んでみた時点で「私には必要無い本だな」と思い買うことはなかった。というのも、私自身コミュニケーション能力には自信があり、周囲の友人のほとんどが私の強みと言えばコミュニケーション能力と言ってくれることからも、自分の一番のアイデンティティーだと自負しているからだ。
しかしある日、私のコミュニケーション能力を高めてくれた一番の要因とも言える母親がこの本を買ってきたのだ。本を普段読まない母親が唯一気になって購入したという事実には驚いたと同時に、以前私に「重要だから覚えておきなさい」と説いてくれた「自分の強みを伸ばしなさい」という言葉を思い出し、「母親もより自分の能力を伸ばそうとしているのかな?」と自己反省し、私もこの本を読んでみることにした。
(結局母親は3,4ヶ月かけて7割ぐらい本を読んで満足していた😆 本読めもせんのに買うからよ!笑)
「本文」
本書を読んだ際の私の感想は
・「読んだら「あぁ」となるような当たり前のことを当たり前に書いているな」
・この本で書いてあることを頭の中で言語理解し自分の物にしたからといって、「本当の意味でコミュニケーション能力が高い人に勝てることは無い」
・コミュニケーション能力を高めたいと思うなら、コミュニケーション能力が高い人から盗むのが正解
というものだった。
感想の一点目
・「読んだら「あぁ」となるような当たり前のことを当たり前に書いているな」
に関しては、本書を読んでいれば等間隔かというぐらい絶対に出てくるので分かるはずだ。何かにつけて「確かにそうだ。」と納得して腑には落ちるが、何せ「この本を読んだからこそわかった「なるほど!!」と感動するような発見が何一つ無かったのだ。
実際に本書で記載されていたが、本書の筆者は「話すのも伝えるのも「超」が10個つくくらい苦手だった」らしい。
確かにそれが垣間見えるのは、「コミュニケーション能力が高い人が無意識のうちに行なっていること」を心理学的な観点(メラビアンの法則やザイアンスの法則など)も時には引用しながら、「順序立ててかみ砕いて言語化している」ことが見えたからである。
それは1ページから見受けられた。
(本書をそのまま抜粋)
質問:「ある人気の八百屋さんが普通は伝えない「あること」を伝えている。それは何か?」というものに対して、答えは「今日おすすめしない野菜や果物を正直にお客さんに伝える。」というものだった。
正直これを読んで当たり前というか「これ以外の答え無いよなぁ」と思ってしまった自分がいるのだ。本書では「正直に話す→信頼感が生まれる→信頼感がある人の言葉はするする入ってくる」とあるが、確かにその通りだと思う。
だが果たしてロジック立てて組み立てた構造を理解してまで八百屋の人はやっているのだろうか?
おそらく私の見立てでは、このように例に出されたり尊敬されていたりする人は「素」で行なっている人の方が多いだろう。そして、その「素」で出る言語化できない「人間性・話のうまさ」などの複合的要素に惹かれるからこそ、相手に「伝わる」のだと考えている。
この場合、「今日おすすめしない野菜や果物を正直にお客さんに伝える」ことはもちろん重要だが、「その事実を伝えることが人気の八百屋に直結する」ならば、おすすめしない野菜は何かがわかるように大きく張り紙を貼っておけばいいのだ。ロボットに言わせたっていい。
その事実が「伝わる」ようにするやり方は色々あるのだから。
結局のところコミュニケーションにおける「伝わる」に最も必要なものとしての筆者の主張は
・「自分の性格を切り離して伝える」
・「伝わる構造」と「伝わる技術」を理解する
としている。
それは正しいと思う。
しかしコミュニケーション能力が高い、すなわち「伝わる」能力を持ち合わせている人は、言葉では言い表せない「感覚的要素」が複合的に絡み合っていると考えられる。(この感覚的要素を後から言語化する事は可能だろう)
感想の2点目
・この本で書いてあることを頭の中で言語理解し自分の物にしたからといって、「本当の意味でコミュニケーション能力が高い人に勝てることは無い」
にも繋がっていくが、「話がうまい」「話が伝わる」はかけ算であり、相乗効果によってどちらも高まると考えている。
私はコミュニケーションというものは「構造を頭で理解した上で構成したものを伝わる技術によって当てはめていく」というよりかは、「色々な会話パターンを経験した上で、正解に近いと思うものをアプローチするゲーム」だと考えている。
なぜなら、いつ何時でも相手が言ってくる言葉を正確に予測することは出来ないし、それに対する絶対的な答えなどというものも無いからだ。
結局は無限にある会話パターンを経験し身体にたたき込んだ上で、正解だと相手に判断される枠組みの中に入れられる成功確率の高い人が「コミュニケーション能力が高い人」だと周囲から評価されるのではないかと私は考えている。そして「コミュニケーション能力が高い人」に「圧倒的に・ずば抜けて」という付加価値をつけるには「プラスアルファの独自性」が必要になると思う。
私が本書を読んでいて最も疑問を呈したのは56ページに書かれている文字。
「話がうまくならなくてもいいんじゃないでしょうか(プロの話し手になりたい人は別です)」
「話がうまいということと、話が伝わるは別です」
「自分らしい「伝わる技術」を身につけることが、円滑なコミュニケーションを生み出すことになる」
衝撃を受けるほどのトーク力の持ち主は、圧倒的にフレーズが頭に残るような伝える能力を持っている。少なくとも「話が伝わるようになる」ためには、「話が上手くならなければ相手に聞いてすら貰えない」のだ。伝わる技術を一生懸命磨いていたって、聞いて貰えなければ無意味でしか無い。
もしあなたが男であれば、この事実は夜の居酒屋に出掛けて女の子に声をかけたらわかるだろう。私の経験上では、話しかけた相手の知能レベルが自分より格段に低い相手であっても、その人が自発的に興味を持って理解しようとする姿勢を見せるような「自分自身の話のうまさ」が無ければ、話が伝わるようになんか絶対にならない。理由は単純で、話のうまさが無い人にそもそも会話を作ることができないからだ。
「伝わる技術を身につける→円滑なコミュニケーション」はわかるが、話の上手さを分離する事はおかしいだろう。それらは全て相乗効果であり、理系的なロジックで当てはめたやり方では限界があるだろうと言うことだ。
実際、私自身がコミュニケーション能力を高める事ができたと実感するのは「芸人のトークを永遠と見てインプット。その後実戦でアウトプット」
これに尽きる。「見ていて面白いと思ったフレーズ・間の開け方・ツッコミ方」などを全てメモして、忘れないうちに実際の私生活のトークで使ってみるのだ。
私の場合はまずモノマネから入った。
何度もマネをしていると自然に使えるようになってくるし、自分なりの「こうやったら笑ってくれるんじゃないか?」という面白いアイデアも浮かぶようになってくる。それは徐々に自分ならではの独自スタイルが確立することに繋がるのだ。
これはファッションセンスにも言え、「服がオシャレ」な人の格好をとにかく真似する事によって経験を積み目が肥えていく。最終的には「こうやったらおしゃれになるんじゃ無いか?」とアイデアが浮かび、自分の独自スタイルが確立されていく。
「何事をやるにもまずはモノマネから」と聞いた事があるが、個人的には本当にその通りだと心底思う。
もし覚えた事をアウトプットして、使う前よりも使ったあとのほうが場が華やかになったならば、それは「相手が好意的に感じている」すなわち「正解と判断する枠組みの中に入れた」のだ。
この「正解の枠組み」に入れるか入れないかを肌感覚で理解できるようになった時、「コミュニケーション」自体の限界を実感することができる。
どれだけ「アプローチを変えて相手に伝わるように!」と努力したとしても、相手がまず興味を持って受け入れようとする体制を取っていなければそれは絶対に伝わらないのだ。「伝わる」には言語化できるロジックや数多のアプローチ方法だけでは無くて、その相手が受け入れ体制を「自発的に用意する」ための話のうまさが必要になるわけだ。
もしかしたら「論理的に物事を考える人」や「コミュニケーションに苦手意識を感じる」人は、文章で実感した方が身に入ってくるのかもしれないが、あくまでコミュニケーションは「答えの無い問題を永遠に解き続けるもの」なのは間違いがない。
すなわち文章を読んだ上で内容を徹底的に頭の中にたたき込み落とし込むことが必要となる。結局のところ「インプット→アウトプット→無意識レベル」で解答が出来るまでに持っていくという動作は同じであり、最初がロジックで理解するのか・実戦で実感するのかの違いだと言える。
しかしコミュニケーションというものは、構造や技術といったロジックから最もかけ離れた難しいものだという事実を理解しておかなければならない。「こうしたらよかった」と後付けで解析出来るものであって、「こうすれば上手くいく」とロジックで説明出来るものではない。生ものだからだ。
結論、アウトプットの回数が圧倒的に多くなる実戦でこそ身につくものなのではないかと私は考えている。
「まとめ」
「なるほど!」と新たな発見をしても、本の場合アウトプットするに繋がりにくい。なぜなら実体験では無くただ文字帯で見ているからだ。
これは英語の筆記勉強が完璧でも英語が話せないのと同じだろう。
結局「アウトプット」が必要であり、「コミュニケーション能力を上げる!」と意気込んで本を買ったって、ほとんどの人にとって本で書いてある内容を忠実に実戦で生かせるような姿に結びつく可能性は低い。
会話をしていて、「あ!ちょっと待って!伝わる方法どうだったか見るから!」と常に持ち歩いている本を見返すわけでもないでしょ?
結局は「実戦で通用するか」を身をもって実感する事によって使えるようになるのであり、ほとんどの自己啓発本なんかも「自分が経験したからこうした方がよい!」という気持ちで書いてはいるが、それはあくまでその人が実体験に基づいて勉強になったことを「良い経験をしたから伝えたい!」と思って伝えるのであって、本当にその人の為になっているかは疑問である。
もし為になっているならば、「親が勉強しなさい!」という言葉を素直に子供が聞いて実行に移すはずだろう。「勉強しないと後悔する」ことを実感しているからこそ子供に勉強してほしいのであって、あくまで経験していない子供は自発的に勉強したいと思わなければ動くことは無いだろう。(もちろん素直に聞く子供もいるし、早くにその現実に気付いて行動する子供もいるので一概に言い切ることはできない)
「興味→勉強→アウトプット→感覚的に理解→言語化して他人に教えられる」ようになるまでの流れが重要だとして、「コミュニケーション力」に観点を置いていうならば、「実際に会話をしている場面を学習してたたき込んだ後アウトプット」ことが最も効果的だと思われる。
それはトーク力の高い芸人の動画を見て、良いと思ったフレーズを使ってみることから始めてもいいし、友達で会話力がすごい!と思う人をものまねするところから始めても良いだろう。同じ事を2度言うようだが、結局はものまねをするという行動から全てが始まるのでは無いだろうか。
もしあなたがコミュニケーション力を高めたいと思っている人ならば、解決方法に「本を読む」選択をすることはあまり推奨されたものでは無いだろう。完全に否定できるものでは無いが、もっと有効性があって効率の良い選択肢があるのではないだろか。また、あくまで本は相乗効果を高める為の一つの選択肢でしかないと考えられる。そのような意味では「本を読む」ことのみの選択はほとんど無意味だと私は考えている。強い言い方にはなるが
「コミュニケーション能力を高める」上で「本を読む事は必要ない」
が私の現状の結論だ。