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改題「古代裂蒐集の旅」 (その二)

私の呟きとも云えるこの稿は、思い掛けない入院加療と云う騒ぎに禍いされ(食道内の静脈瘤の破裂に依る体重の激減及び頭脳構造秩序のズレ)、連載一時休止を余儀なくされる恐れが生じたが、自ら不屈の心身を鼓舞して満五十九才の誕生日を機として、約一ヶ月半振りに原稿造りの筆を執りました。前号(六十二年九月 秋・冬もの個展案内状)にて予告しました亡父の《きものの話しあれこれ》発刊の件は、古代裂装丁表紙の試作が出来ましたが、暫時ご猶予願います。(既申込の方、ご寛怒願います)。

 遺跡紹介①バルフ 此処の情景・位置に付ては、山と渓谷社刊『シルクロードI』を御覧頂ければある程度はお判りになると思うが、実態は千五百年前後経過した築造物がイスラムに依って破壊し尽された他の遺跡ーペンジケント・ペリスポリス・タブリッツ等ー同様、現実に彼の地を訪れた人でなければアレキサンダー大王、アショカ王(玄奘三蔵)、ジンギス汗等々が戈・弓・槍等の武具を翳し喚声をあげて殺到したであろう雄叫びが、あの稍小高く土盛りされた土手に、時の過ぎるのも忘れ坐り込んで居ると、折からの風に聞こえて来る様な錯覚に陥入る。フト足元を見るとブルーモスクの残壊か、釉薬の付いた陶片が無数に散らばって居り、稍大きめのカケラを拾った。中に白い骨片の様なものも多々あり、幾つか拾ったが、慌てヽ捨てた。此の附近はゾロアスター(拝火教)の鳥葬の場処とも考えられ、後年タイのバンコックの近郊アユタヤの日本人の望郷の霊に憑りつかれたと同じ想いをする処だった。バルフはアフガニのヒンヅークシ山脈北側マザーリシャリフ近郊に在り、現在はゴビ砂漠だが、往時は肥沃な草原の要衡であったと推定される。タクシーをチャーターして単身一泊行程で行って見た。帰国後王制から共和制に代わって二年足らず、山岳地には反対派が居り、平地の通行者を襲う危険地帯で、旅行好きの仲間からまるで探検隊ダネとひやかされた。神経質な私だが意外にクソ度胸があり(細心の準備済み)、この道中で遊牧民をしつこく8ミリで撮影し続けたら、バオならぬテントから銃身の長い鉄砲を持出し威嚇され、慌てヽ双手を上げチャーターした車まで逃げた。アフガニの旅は誠に様々な事があり、デリーへと飛立つ前、税関で密輸商と間違はれ、その経緯に付ては、何時の日か税関篇を設けて記してみる積りである。古代裂蒐集成果大。

[昭和六十三年 春/村田 悳次 記]  
※昭和49(1974)年5月に訪問した回想録です。


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