「古代裂蒐集の旅」 (その三)
遺跡紹介②イスラエル・ジェリコ(エリコ) イスラエル入国は周囲の回教国からの入国は許可されずギリシャのアテネから入った。
エルサレムの町を見降すハイレベルのホテルに宿泊した。観光バスはドイツ語ガイドとフランス語ガイドの二班あり、後者を選んだが、フランス語のあと英語説明が必ず行われた。一応判った様な顔をしているが、「嘆きの壁」でボロをさらけ出した。
男性用と女性用の区切りがあるのを気づかず、車中の米国娘に屡々カメラのシャッターを切って貰い気易くなっていたので、白壁の前で一枚、私のカメラで撮ってもらうつもりでズカズカ入って行った。ヤンキー娘に何やら判らず喚きたてられポカンとしていたところ、さかんに「隣の柵へ行け」と指さされやっと判り、大あわてで婦人専用の祈り場から飛び出した。
ジェリコは死海の西側にあり、多分ヨルダン領だったらしい。地上部分は荒れ果てていたと思うが、地下室に大ハレム浴場が総タイル張り略々往時をしのべる状態で現存していた(文様はサヤ形)。
二泊してイランのテヘランに向かうべく朝五時迄に飛行場で手続きする様に云われており、未だ陽の上がらぬ真っ暗な時間に女子兵隊の検査を受けた。赤軍派の岡本公三の乱射事件の直後であった。八ミリのフィルムを数十本持っていたが、一ヶ一ヶ外箱を開けて残らず点検された。次いで進物用に包装したチョコレートの飾りリボンをはずし、缶の周囲の密閉してあるセロテープをはがし、汚い指を底に届く迄入れてかきまわし、一箱残らずいじくり回すので、遂に堪忍袋の緒が切れて子供みたいな歳の女子軍人を怒鳴りつけた。最初は日本語で、次はたどたどしい英語で「誰がこのルールを定めたのだ。」云く「大統領の命令だ。」と。「観光客にこんな扱いをする国は初めてだ。大統領に止める様に云え。」「私は大統領に逢うことは出来ない。」という答えだった。「日本へ帰ったら私の友人や外国旅行に出る人に、‘クレイジーカスタムの調べがあるからスケジュールからイスラエルをはずせ’、と云ってやるぞ。」と捨て台詞を馬鹿でかい声で喚いた。
◎春展案内状に記しました私の病状に付き皆様より暖かいお励ましの御言葉をいただき厚く御礼申し上げます。食道内静脈瘤破裂出血より十ヶ月近く経過しましたが、未だ頭脳の歯車のかみ合わぬ点がありますが、図案・配色・地風等の感覚は確かなつもりです。家内及び長男利守を中心として全社員懸命の努力をいたし居ります。よろしくお願い申し上げます。
[昭和六十三年 秋/村田 悳次 記]
※昭和49(1974)年5月に訪問した回想録です。