「時代裂蒐集の旅」 (その一)
父から「私のコレクションを貰えると思ってアテにしても、死んだら全部博物館に寄贈する」と宣言されたのを契機に、私は自分の手で時代美術裂を蒐める決心を致しました。父が日本であれだけの(約五百点)量を蒐集できたのだから私は世界の各国を歩いて如何なる社会背景のどんな人種が使用したのか、実地調査を兼ね乍らと計画したのは昭和三十九年。東京呉盟会の産地見学旅行で奄美大島〜鹿児島に参りました機会に、単独で沖縄に飛び、後年台湾・韓国・タイ・インドネシア等の東南アジア諸国に足跡を残し、日本の染織の源流に触れ危うくその魅力の虜となりそうなのを振払い、ヨーロッパ・中近東・バルカン・スカンジナビア・中央ソ聯邦・北アフリカ等、肝炎で入院療養生活に入る迄(五十六年)多い年は二回、一年も欠かさず三十三ヶ国約六十地方を歴訪致しました。可成り井上靖先生の影響を受けた部分もありますが、私なりの旅行信条として①先づ千年前後を経た遺跡を訪れ往古を偲び、当時の状景を追想する事(ボロブドール・バルフ等は次号に掲載)②日本人観光客が訪れたことのない地方を選ぶ事(イ、古裂集めも廉価で達成。ロ、帰国後少々オーバーな話、記憶違いがあっても涼しい顔をして語れ反論されない。)等。
必要事項はノートに記して行っても会話が侭ならず、見振り手振りのゼスチャーで補い大変苦労の旅でした。英語がホテルのフロント以外全然通じない北アフリカでは、判る癖に返事は全て自国語でするし、アフガニ・イラン・トルコ等近東諸国では時々トラブルが生じ、貴方の英語は難解だから(ブロークンだからとは云わぬ)済まないがフランス語かドイツ語で云って呉れないかと云う。冗談じゃない!英語が話せないのに仏独語が出来る訳がない。私は白百合出ではないゾと呟いても相手には通じない。当時の近東諸国では、日本に対する知識は極めて浅く、貴方の国にはテレビは無いだろうとテヘランの三流?ホテルで馬鹿にされたり、マレーシアでは入国書類の最終欄が辞書をいくら引いても判らず、印度系の税関役人は、少し待てと一緒に到着した白人全員が通過後に懸命に説明して呉れるがサッパリ判らず、終いにクタビレタのかアトミックボンブ持って来たのかと云うのでノーと答えるとそれならノンと書けと云ってから大笑い、シェークハンドの様な噺は随所にあり、次回は「旅の恥はかき捨て」を連載予定。
尚、亡父の《きものの話あれこれ》発刊は目下観世流謡本製本所で、時代裂装丁の表紙を試作中で、予定が少々遅れ明春より発刊致します。
[昭和六十二年 秋/村田 悳次 記]