「聖地」の深淵へー生きている山東京伝 銀座花伝MAGZINE Vol.50
#聖地 #山東京伝 #江戸文化 #粋 #石田梅岩 #浮世絵 #黄表紙
江戸時代に檜舞台が許されていたのは、能や歌舞伎の幕府公認の劇場だけだったようだ。檜舞台に立つと云うのは、一流として認められること。香り高く高貴さを漂わせる檜の木は、それにふさわしい者だけが立てる場だったのだろう。銀座にはそんな特別な場所が、観世能楽堂と歌舞伎座と揃って2箇所ある。
そして、街全体は「商人の檜舞台」とも言われる。
「檜」(ひのき)の語源は、「この木で火をおこす」から「火の木」、あるいは、「心を燃えたたせる」ことから「霊の木」(ひのき)であるとも言われる。いずれも人の心を揺さぶる、惹きつける力を意味するようだ。
銀座は、日本人が古来から持ち続ける「美意識」が土地の記憶として息づく街。このページでは、銀座の街角に棲息する「美のかけら」を発見していく。
1.『聖地』の深淵へ ー生きている山東京伝
プロローグ
生き物たちにとって特別な場所、言わば生命にとっての「聖地」の感覚は、生き物の生命活動の極めて深い場所にセットされていると言われる。
聖地とは、元々は宗教的伝承と結びついて聖化されている土地のことを指すそうだ。神聖化された自然の場所、人為的工作を施して聖化された区域、神殿や寺院などが置かれる聖なる場所、神、聖者、王、英雄にゆかりのある聖域などがそれだ。自然聖地としては「富士山」、インドの「ガンジス川」「ホレブ山」など、人為的聖地としては「エルサレム」「メッカ」「バチカン」などがある。時を経て今や「聖地」といえば、アニメの舞台として登場する場所を指すことも多くなったが、本質的には「精神の深い場所」に触れることができる。
私たち人間にとっての「聖地の感覚」は、いったい私たちのどこにセットされているのだろうか。人間は、サピエンス=知性を持った人類であり、人間が出現した時から、明らかにこれは聖地の遺跡であろうというものが現れてきた。とするならば、人間にとって聖地はサピエンス=知性の本質と深い関係を持っているに違いない。つまりサピエンスが人類の心に出現した時、時を移さず人間の聖地が出現している、ということができる。
筆者はある時銀座という街の聖地が、本来持つであろう「精神の極めて深い場所」を探究したいと思い至った。その発端は銀座のある場所で巡り会った衝撃である。
この地球に生を受けて、筆者はいったい幾つの月を見上げてきたことだろうと思いながら、ある建築物の真上に出た月を眺めている時のことだった。早春の夜に上がったその月はすざまじい光を放っていた。
銀座中央通り銀座一丁目に位置する御影石造りの伊勢伊ビル、経年によるひび割れが表看板に目視できる年季の入った佇まいでありながら、何処か荘厳さが漂う老舗ビルである。その伊勢伊ビルとKIRARITO GINZAという商業施設である高層ビルに挟まれた、まるで鉛筆のような、さらに言えばちびた鉛筆のような低くて細いビルの上に月はあった。
ちびた鉛筆ビルの入り口には、こんな文字が染め抜かれた金糸雀色(かなりあいろ)の手旗看板がたなびいていた。
『煙草屋 つやふきん』
人の顔が認識できるほどに輝く月の光の下、銀座1丁目の京橋に最も近い歩道に据えられた「江戸の町の人々」という標識のところで、銀座を代表するある江戸の人物がこちらを向いて微笑んでいる。その顔は山東京伝(さんとうきょうでん)。
「煙草屋 つやふきん」は彼の店であるのか???
その時の月がもたらした衝撃は、時を経て筆者にとってこの場所が「銀座の聖地」であるという確信に変わって行った。
銀座の精神的支柱となったであろう人物をそこに発見して、探求の旅に出るきっかけになったからである。
「神聖」を「他から干渉されない」「心のよりどころ」であるとするならば、まさにこの商業都市銀座を作り上げた精神的DNAを深淵まで辿るとき、歴史的に浮かび上がる人物が「山東京伝」(さんとうきょうでん)である。
「精神の極めて深い場所」の探求の一環として、ここでは京伝の広大で、しかも深い海に潜ってみたい。
神聖化を生んだ 山東京伝
まずは、京伝には、驚くほど多くの顔があった、という話から紹介しよう。
京伝の横顔
江戸を代表する芸術家としては、学校の教科書では「戯作者」と紹介されているから多くの人々にはそれが身近かもしれない。戯作者という一つの顔だけでも、黄表紙、洒落本、滑稽本、艶本、読み本、合本と多方面のジャンルの作品を得意の浮世絵技巧との組み合わせで、次々と世の中にヒット作を出していったことで知られている。
戯作者以外の顔としては、浮世絵師、作曲家、狂歌師、コピーライター、デザイナー、さらには着物デザイン(着物図案制作)、歌舞伎演目の脚本や衣装のデザイン・・・
山東京伝の背景(プロフィール)
ここで、山東京伝の出自などについて簡単にまとめておく。
生まれは、深川木場。美しく明るい水鏡があふれる景色に囲まれた富ヶ岡八幡や永代寺にほど近い大店・質店伊勢屋の長男として生まれる。本名は、岩瀬醒(いわせさむる)と言った。次男はのちに戯作者となる京山、妹よね(早逝)、三男四郎がいる。
父・伝右衛門は伊勢出身、丁稚奉公から養子として伊勢屋に入った。母は尾張藩の奥女中だった大森氏。御主殿に長く勤めていたインテリで、そこで見た絵双紙・絵巻などの大名の子弟教育のメソッドを用い、幼い京伝に注いだと言われる教育母だったようだ。
深川伊勢崎町の御家人・行方角太夫方の寺子屋に9歳で入学。家庭での行き届いた教育の賜物か、寺子屋入学の翌年には『孟子』を抄写していたという。14歳で長歌・三味線を習い、15歳で浮世絵師北尾重政(1739〜1820)に入門した。現代で言えば、14歳で声楽・ギターを習い、15歳で美術学校に入学とでも言ったところである。師とした北尾重政は浮世絵北尾派の祖で、同時代の歌川豊春(1739〜1814)の二人が江戸浮世絵界をリードしていた時代である。つまり京伝は、一流個別指導美術学校に入学したことになる。この時期、浮世絵を習いながら、戯作、狂歌、俳句、川柳など多方面の才能を伸ばしていった。
両親ともにおおらかな性格で、青年期に吉原に通う息子に対しても咎めることはなかったという。多彩な才能に加えて、美男子、頭脳明晰、他人思いの優しい人物であったと伝わる。
スターに押し上げた 出版商人・蔦屋重三郎
京伝の多彩な顔の中でも戯作者としての才能に一早く目をつけたのが、出版商人の蔦屋重三郎だった。1782年(天明2年)、蔦屋がプロデュースした京伝22歳の作品「御存知商売物」(ごぞんじのしょうばいもの)は、大田蜀山人による黄表紙評判記「岡目八目」で最高作品と評され、現代で言えば、直木賞を受賞して一躍時の人というところにまで上り詰めたという訳だ。その時から、山東京伝というペンネームで活躍することになった。
さらに、1785年(天明5年)24歳、黄表紙『江戸生艶気樺焼』(えどうまれうわきのかばやき)が刊行され大ヒットとなった。これは、山東京伝の最高傑作というだけでなく、黄表紙の最高傑作であると言われている。(上中下の3巻(3冊))
江戸随一 京伝の顔の広さと人柄
江戸文化の申し子的な存在であった京伝の多彩さを紹介したところで、次にその人柄について触れておこう。
人気作家の山東京伝が、どれほどの顔の広さと人に愛されていたかを示すエピソード。
「みちのおく桑折駅」(現在の福島県伊達郡)の上水下見(狂歌師)の42歳の祝いにと、銭屋金埒・森羅亭万象・浅草庵市人(いづれも当時の江戸で人気を博した狂歌師)などをはじめ113人から集めた祝いの狂歌を並べ、四方真顔(よものまがお/狂歌判者/ペンネーム恋川好町の戯作者)の序歌、京伝自身の賛歌、祝いの漢詩などを添えた『名取の老』という珍本が出版されている。京伝が江戸の一流の狂歌人に寄稿を依頼してこれの出版に漕ぎつけたという。
上記のエピソードは寄稿した四方真顔が遺している。
広く世間に信頼され、顔が広かった点、技巧の才能の幅広さ、そして人々に愛されていた点において、京伝の右に出るものはいなかったと伝わる。
「手拭合」(てぬぐいあわせ)展の開催
1784年(天明4年)、京伝(当時24歳)は日本で初めての「手拭い展」を企画開催した。
手拭いは、奈良時代から原型はあったものの、着物の反物の余り布を使って新たなグッズができないかという京伝の知恵によって生まれた江戸文化の一つであると言われている。
1枚の手拭いの絵柄を競う展覧会が、上野不忍池湖畔の寺院で開催された。
松江藩の松平雪川、姫路藩の杜綾公/江戸琳派の始祖・酒井抱一、浮世絵師の鍬形蕙斎、 喜多川歌麿、歌舞伎役者・五代目 市川團十郎、等々の人物の他に、芸妓や町民まで広く76名が参加したという。これについても、身分制度の厳しい江戸時代において、身分を超えた展覧会を主催した京伝の趣向と人脈に驚かされる。ただそれだけでなく、出品されたデザインの斬新さ、面白さには目を見張るものがある。
軽やかさ、倹約 京伝の信条
山東京伝の人間としての気質を端的に表す狂歌がある。
身はかろく 持つこそよけれ
軽業の綱の上なる 人の世わたり
(身軽織輔(みがるおりすけ)・・・京伝の狂歌作者名)
この狂歌には、京伝の処世道が現れている。
身にまとわりついたものの重さで綱から落ちた人を風刺し、その真逆である「ものを持たずに軽やかに生きる」(金銭、揉め事の元を一切残さず)を信条としていた。狂歌名の身軽織輔の「織り」は「居り」にかけて、「身軽の状態に居る」を現して命名したと言われる。
そして「ものを大切に使う」、そんな心得も狂歌に詠んでいる。
耳もそこね あしもくじけて もろともに
世にふる机 なれも老いたり
(耳が遠くなり、足腰も弱った自分と一緒に慣れ親しんだ机、お前も年老いたものだなあ)
倹約家としても有名だった京伝は、子供の頃から一つの机を長く使っていた思いを「もろとも」に込めている。机に向かって放つ「なれ」の言葉に、長年使い続けた愛着ある机を愛でる情感があふれている。
(浅草寺には、弟・京山によって建立された京伝の机塚が現存している。当時の友人であり文化人の大田南畝の撰による京伝の略伝が銘記された、江戸文化資料の一級品である。)
京伝の独自芸術 ー秀でた浮世絵の画力と音曲の理解
多才であった京伝だが、浮世絵の画力こそその才能が虹彩を放つ根本だった。
黄表紙、合巻、洒落本、滑稽本、狂歌、俳句、川柳、随筆など当時のほとんどすべての文学に筆を染め、後年には近世風俗の考証研究を道楽仕事にした京伝は、演劇方面にも詳しく、音曲と文学の融合にも力を注ぎ、美術と音楽を画技という基盤上で溶け合わせることにも成功した。
これは北尾政演(きたおまさのぶ)名の浮世絵師としても活躍した彼の画力の賜物である。
当時京伝と肩を並べていた与謝野蕪村(よさのぶそん)もこの点では太刀打ちできなかったと言われる。
更に洒落本には、、三味線が加わった音楽が地になっている作品が多く見られる。唄も浄瑠璃も、百人一首の読み声も物売りの声なども立体的に表現している点で、幼い頃から音曲を習い磨いた彼ならではの才能の発露としか言いようがない。
目が眩むほどの衝撃の浮世絵
米国の人気作家ジェームス=ミッチェナー、日本の浮世絵研究に造詣の深い彼が「版画覚書」という著書の中で、次のように記している。
「かつて出版されたこうした種類の最大美の本と言われる浮世絵がある、それは「新美人合自筆鏡」北尾政演作(1784年(天明4年)である。」
「目が眩むほどの衝撃の本」と絶賛し、北尾政演の魅力について、次のように記している。彼は「色感が豊富で、豊艶無比の賦色、さらにそれに深みと一段の調和と落ち着きを加えている作品」、「表現の注意が繊細で、凝り性らしく凝った画面構成を作る。女性の髪の描写も半円形から長軸による楕円半蔵形となり、さらに鋭角をした扇形の髪に変化させる。女性の顔はやや長顔の美の表現、感情の顔面表出には法令線や二重瞼に働きを見せ、その人物の個性・感情を掘り下げている。」
『新美人合自筆鏡』を作成するにあたって、政演(京伝24歳)はこれまでの自己の芸術をあらゆる角度から見直し、検討し工夫を凝らしたようだ。
そこでは、紅桜・紅緋などの赤系統の色、梔子(くちなし)・柑子(こうじ)などの黄系統の色、白群(びゃくぐん)、紫、鶯、漂(はなだ)、白緑(びゃくろく)の落ち着いた色を用い、さらには漆黒の強さをアクセントとして襖の白、皮膚の白さと対比させ、全体に明るく、まばゆいが、重みのある色感を完成させた。
画面は縦39.2センチ、横50センチの桜の板で、画面いっぱいに最大八人の人物を配した複雑な構成も見事だが、「これほど大きな桜の板を手に入れ取り扱う作家」に驚嘆を隠せないと、ミッチェナーは述べている。
政演作の浮世絵は、「隅田川八景」「大俵屋大夫」(松方コレクション21枚)、「金沢八景」「奥女中、あさづま(岩田半四郎)」「小林朝比奈(尾上松助)」などを含み80枚以上現存しているが、国内の家蔵以外は、アメリカのボストン美術館所蔵となっている。
銀座商人 山東京伝
少々前置きが長くなったが、銀座の「精神的支柱」である聖地を生み出した京伝の物語はここからが始まりである。
江戸に洒脱な文化旋風を巻き起こした京伝が、実は銀座の商人であったことを知る人は意外に少ない。
寛政3年(1791年)、寛政の改革による出版統制の矢面に立たされた京伝が、手鎖50日の刑を受け出版の自粛を余儀なくされる。それまでの順風満帆だった人生に大きな衝撃が走る。しかしながらたおやかな性質だった京伝は、お上には一旦筆を控えたと思わせながら、次に仕掛けたのは商店の開業だった。銀座1丁目に開業した「京伝の店」は、その後の「銀座の商い」の道、ひいては商経済の未来を照らす商人道としてこの地に語り継がれることになっていく。
聖地 愛宕山から
その頃、江戸の聖地の一つが芝愛宕山だった。東京23区内で1番の高さを誇る愛宕山は、東側に低地と海が広がりその眺望の見事さから多数の錦絵の題材になっていた。山頂には江戸開幕とともに「愛宕神社」が創建され、東京湾から房総半島まで見渡せる見晴らしのいい場所として多くの人で賑わうパワースポットだった。
二刀流人生のはじまり
京伝の店のある銀座一丁目からも、この愛宕山は眺めることができたのだろう。その愛宕山を拝みながら、どうしたら商品が売れるだろうか、それだけを思案していた。というのも、それまで作家としてトップ・セラーの実績があったとはいえ、その収入は決して多いものでなく、副業をして生活費を稼ぐ必要があったのである。そういう意味で商売を生業にしようと元々考えていたので、既に「何を売るか」より「どう売るか」が彼の関心事の第一だったのである。
ここから、「戯作者作家」と「商人」という京伝の二刀流の人生が始まった。
京伝ブランドを売る
京伝33歳の時に、「新形紙煙草入新店」を開業する。文字通り、煙草と煙草入れを売る店である。当時の江戸の喫煙率は9割を超えていたと言われ、その需要を見込んでの業態選択だった。
当然同じ業態の煙草屋は江戸中に数多く点在していたため、「他に誰もやっていない」煙草屋にすることが重要だと彼は考えた。
京伝は、まず目玉商品を煙草自体ではなく「煙草入れ」として、比較的値の張る布製、皮製の煙草入れを主軸に、京伝デザインの煙管(キセル)を加えた。とはいえ手軽に買える低価格のものも加え品揃えの幅の広さを売りにした。
軽やかな機知と心の機微
生まれの深川・木場付近には、辰巳芸者で知られる花街があり、身近に遊里の暮らしぶりを眺める機会があったようである。京伝は幼少より遊里に出入りし、女性たちに親しみながら「人間を観察」する体験をかなり積んできていた。例えば、花街で生きる人々を題材とした作品では、人間の機微というものを遺憾なく表現した点が秀逸で、男と女のやりとりもユーモアと人情に溢れているなど、洒脱な会話と物語の面白い展開が江戸の庶民を熱狂させたのだった。
京伝は、愛宕山神社に集まる人々を観察する中で、商品が売れる理由が人々の心理にあることに気づいた。
古来より、商品は市場に集められたが、商品を売買する「市場」は神仏の敷地で催される事が多かった。それは、神仏の支配する庭いわゆる「聖地」では、もとの所有者から、一旦神仏の持ち物になり、自由な売り買いができるものに変身するーそんな事が売買する者の暗黙の了解になっていたからである。
神仏に触れるという性質を纏った商品だけが売れるのだ、と彼は考えた。
だから商品というものは、そもそもの成り立ちからして、現実から少しだけ遊離したところがなくては魅力的ではなく、神仏の世界に触れた無意識の部分があればあるほど、その商品は人の心に入り込んで独りでに歩き出すことを、京伝はよく知っていたのである。
人々に無意識の世界に触れてもらうにはどうしたらいいか。
ここで京伝は「物語」と「デザイン」を登場させることを思いつく。
まず京伝は、自らデザインした「煙草入れ」の成り立ちの物語を作った。どこで生まれ、どんな経緯でこの京伝店にたどり着いたかを面白い絵に語らせた。得意の絵入りとキャッチコピーで語る「謎絵入引札」(なぞえいりひきふだ)を刷り出したのである。引札とは今でいう、チラシのこと。これを愛宕山の縁日でまき、そこで商品を売り出したのである。
↓謎解きは以下をクリック
「江戸銀座のマルチ・メディアクリエーター山東京伝」のページ
読み解きを人々は面白がり、これが大当たりして、銀座1丁目の「京伝の店」には大勢の客が押し寄せることになった。
そして購入した「煙草入れ」の包装紙を開けると、そこから次なる絵物語が現れるという仕掛けまで考えた。買ったお客は京伝デザインの続きの絵を見てまた大喜びである。しかもお客を虜にしたのは、その中から「愛宕山のおみくじ」が飛び出すというおまけ付きだったからである。
それからというもの、その包装紙欲しさに客が訪れるという商業のスタイルが生まれて行った。まさに、「広告」を日本で初めて生み出したと言われる京伝の商才躍如の瞬間である。
その後京伝は、商品を売るために自ら考えたキャッチコピーを集めた「ひろふ神」を出版している。そこには、当時発行した引札集も含まれていて、現代の広告マンのバイブルにもなっている。
こうして商品を神仏の世界に引き渡してやることが、広告や宣伝の意味であると世間に知らしめた京伝の功績は大きい。江戸から明治に時は移り、銀座に新聞社、広告会社、デザイン会社が集中したのにはこうした理由があったのである。この街に京伝が生み出した「広告の聖地」としての土地の記憶は今も語り継がれている。
少し余談になるが、今から100年前にアメリカで生まれたマーケティングという概念。大量生産、大量消費を目的にその方法をメソッド化したのが、経営学者・コトラーによるマーケティング理論だった。21世紀になって、日々進化する産業界で更新され続けるこの理論に、現代のマーケターたちはなんとか追いつこうと必死である。
その発見よりも150年も遡る江戸において、京伝が「商品を売る」というごくごく基本的な商い上の行為に求められる方策を、人々の心理をつぶさに観察することで見出し、実行した。その先見性に驚くとともに、現代においてもその原点から学ぶことが多いと考えるのは、筆者だけだろうか。
転機 商人道を説いた京伝ー石田梅岩の教え
逆風
話を京伝の人生最大の危機の時代に戻そう。
先にも述べた逆風人生の始まりは、1789年(寛政元年)のことである。順風満帆だった京伝の人生に大事件が起こったのは、老中・松平忠信によって主導された寛政の改革の出版禁止の取り締まりからだった。
最初は、石部琴好作・北尾政演(=京伝)画の黄表紙『黒白水鏡』(田沼意次の嫡男が殺されたことを題材にした作品)が槍玉にあがり、石部琴好は江戸所払い(その後消息不明)、京伝は罰金刑となった。寛政の改革が「質素倹約、風紀粛清」を掲げており、その意を汲まない出版物特に洒落本(花街のあそびを描いた書物)などはことごとく罰則の対象になった。
この渦中で黄表紙界の大御所である武士出身の恋川春町は、同じ年(1789年)に黄表紙『鸚鵡返文武二道』(おうむがえしぶんぶのふたみち)を発表したところ、松平定信の文武奨励を風刺したとして、呼び出しを受けた。春町は病気と称して出頭せず、そのまま隠居し、3ヵ月後には死去した。自殺と推察されている。
出版統制の中での創作
1789年の罰金刑で、それなりのショックを受けた京伝ではあったが、他の作家たちが自粛する中、意欲的に執筆を継続した。この年も江戸で出版された黄表紙、洒落本の3分の1以上は京伝の作品で占められていたという。
1790年(寛政2年)の黄表紙『心学早染草』(しんがくはやそめくさ)は、当時流行の心学を取り入れた作品だった。人々の間で「心学」の噂が広まるという時流を呼んだ京伝ならではの初動の速さではあったが、石田梅岩が提唱した「商人道」への強い共感もあったに違いない。お上に対して、「これならば文句なかろう!」とばかりに、理屈臭さを趣向としながらも、自分にしかできない分かりやすい新傾向の教訓的な黄表紙を刊行したのである。そしてこれが、大ヒットする。『心学早染草』については後にやや詳しく説明したい。
蔦屋重三郎も京伝も寛政の改革の理念のひとつが質素倹約であることを承知はしていたのだが、1790年(寛政2年)5月には出版統制の町触5ヵ条が発令され、益々厳しい検閲がなされ修正を余儀なくされた。他の版元は幕府のお咎めをビビッて洒落本を出版せず、洒落本が店頭に並ばない状況が生まれた。そうした統制をかいくぐって行う京伝と蔦屋の「反権力」的出版を庶民は大歓迎して、出版するもの全てが超大ベストセラーになった。増刷が間に合わない、製本が間に合わない。荷車に印刷した紙と製本のための糸を積んで小売店に運ぶ有様に幕府はびっくりした。
1791年(寛政3年)3月、またもや処分が下される。京伝(31歳)は手錠50日間、蔦屋重三郎は財産半分没収、草双紙問屋2人は商売禁止、江戸追放であった。皮肉なことにこの処分によって、京伝はかえって江戸で子供でも知る超人気者の超有名人になった。 後に一番人気の戯作者を懲らしめようとする「見せしめ刑」だったとも言われる所以である。
石田梅岩の心学
江戸享保年間(1716-1745)に石田梅岩によって創始された人生哲学(心学)は、朱子学の流れを汲む神・儒、仏を融合させた実践的道徳の教えである。長年の商家勤めから商業の本質を熟知し、職能として士農工商それぞれの社会的意義を考えることを提案した。「商業の本質は交換の仲介業であり、その重要性は他の職分に劣るものではない」(士農工商の身分制度に対して)という立場を打ち立てて、地位が低いとされた商人たちの支持を集めた。
梅岩の思想は、著書「都鄙問答」(とひもんどう)によって、商人道・町人道を切り開くバイブル的存在として広まっていく。
梅岩は、商人の正しいあり方、商家の経営理念を追求し、利を得ることを商人の道としながらも、利を得ることが許されるのは、商人が「市井の臣」なるがゆえとした。商取引の社会的意義を自覚した商人だけに商売をする資格があり、売買の当事者双方に利がなければならない、商人は相手の立場を尊重するとともに、天下の人々との心を耕さねばならない、と説いた。
この思想は、梅岩の没後、京都呉服商人の手島堵庵(てじまとあん)によって普及され、その門下中沢道二(なかざわどうに)により江戸に広められた。
庶民に分かる、人間学を提唱
心学の基本となる朱子学は、古代儒教や仏教、道教などがその内容に含まれており、その体系を理解するにはかなりの勉強を要する。それでは、庶民(とりわけ商人)に普及しないのではという危惧から、梅岩が分かりやすく解説したものが「心学」である
その教えをさらに庶民にも分かりやすく、物語仕立てで絵を中心に洒脱に伝えようとしたのが京伝だった。
黄表紙『心学早染草』(京伝の作品)
『心学早染草』はこれから始まる。
人の心は元々無心でピュアなものだが、私心に囚われすぎると、ダークサイドに堕ちるーという心学の教えをコンパクトに分かり易くビジュアル化したのが、『心学早染草』である。
冒頭 「善玉」に京伝が最もらしく説教をされる場面
商人の息子・理太郎に「悪魂」が入ってしまい、放蕩し勘当され盗賊にまでなって行く過程の中で、善魂が大きくなり真面目になっていくという話だ。 心の中で、善玉と悪玉が争い、それが人間の行動となる、という考え方を京伝は、おもしろおかしく表現している。
続編『人間一生胸算用』
その続編として出版された「人間一生胸算用」は、さらに心学的要素が強調されている。
ーある時、作者京伝自身が「善魂」の隠れ家に出向き、人間の身体について講釈を受ける。そして、善魂の通力で無二郎の体内に入ると、そこは一国をなしていて、主人の〈心〉が番頭の〈気〉以下身体の各部分を治めている。しかし、彼らはそれぞれ贅沢三昧をしたがっており、たびたび〈心〉にそれを進めるが彼は一向に承知しない。ある日、無二郎のうたた寝を幸に〈心〉を追い出し、以降〈気〉を中心に大尽遊びが始まる。
人の心の中には小世界があり、〈心〉が気(本能)を従えて、手足や目、耳、鼻、口を統治しているという京伝ならではの想像の世界。それぞれの人体パーツが擬人化されて登場するが、そのビジュアルに驚かされる。
出版統制の後日談
さて、 その後出版統制はどうなったか、面白い後日談がある。 翌年1792年(寛政4年)には、統制は緩められ、少々の罰金を払えばOKとなっていく。つまり洒落本はその後復活したのである。
そして、寛政の改革の張本人であった松平定信は引退後、吉原と京伝のファンになった。浮世絵『吉原十二時絵詞』(作者不明)の詞書(ことばがき)を京伝に依頼して、それを生涯の秘蔵として楽しんだという。
歴史には、表と裏がある。人間にも表と裏がある。人生最大の苦難を商いを興してやり過ごした、京伝の知恵勝ちというところだろうか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
エピローグ
日本人の精神構造を見事に解明した名著といえば、『いきの構造』(九鬼周造著)である。哲学的なアプローチで、「いき=粋」とは日本人独自の「生き」方を示したものであるとし、「いき」とは「垢抜けして(諦)、張のある(意気地)、色っぽさ(媚態)」である。そして「逸楽と気品の調和した統一である」と述べた。
京伝が、江戸を代表する粋人だと形容される時、今から250年も前に自らの才能と感性で江戸文化を牽引していた人物が存在していたことに感動するとともに、そこには「いき」という日本民族ならではの精神そのものが波打っている事を痛感して止まない。
そして京伝が生み出したのは江戸文化だけではなかった。
銀座1丁目の「京伝の店」が後世にもたらしたもの。垢抜けて、活力ある、艶のある街=銀座。そのDNAを見つめる時、京伝が機知と心の機微で作り出した未来の商業都市の姿が映し出されるような気がするのだ。日本人の持つ美意識によって輝く街が育まれたと感じるのは、筆者だけだろうか。
「精神の極めて深い場所」を見つけて、街の聖地を実感する瞬間だ。
------------------------------*---------------------------
月を見上げた翌日、銀座1丁目「煙草屋」の手旗看板を潜りながら店の扉を開けてみた。店の奥で、目元の涼しい女将が手招きをしてくれた。
「どこかでお目にかかりましたでしょうか?」
「250年前の銀座で・・・・」
この話の続きは、また別の機会に致しましょう。
2.銀座情報 ー手触りの活版印刷 「中村活字」
世の中のほとんどの印刷物が今やオフセット印刷。そんな中、職人の手によって活字で組む「活版印刷」店が、銀座木挽町で生き残っている。
1910年(明治43年)木挽町1丁目に創業のこの老舗店では、活字製造から印刷まで当時の機械を使って現在も行われ、特有の手触りや文字の濃淡の心地よさを求めて、多くの人々が足を運ぶ老舗である。
活版印刷は、凸版式印刷の一種で鉛合金で象った活字を一字一字、活字ケースから拾って組版を作る。この組版にインクをのせ、圧力をかけて紙に印刷する。印刷圧によって凹凸を感じる手触りや字体の美しさが表現される。
活字ケースは漢字の部首やアルファベット別などに並べられ、一つの重さは約10キロ。部首の種類は3000ほどあり、大小の色々な大きさの文字も揃う。
昨今、レトロ感のある名刺を求めて、活字の持つ温かみを感じる名刺が人気だ。特に若者たちを中心に「こちらで名刺を作って、人生が変わった」とメッセージを届ける人々が後をたたないと云う。
筆者も名刺をこの老舗で印刷して頂いているが、店主と話す中で心に残るのは、銀座への熱い思いである。
「周辺の仲間の店が、バブル崩壊と共に店を手放し、今やビルやマンションばかりになってしまいました。せめてこの場所で昔ながらの銀座の面影を残せたらと願ってるんです」
3.編集後記(editor profile)
今回の京伝の旅はいかがだっただろうか。
街とそこに生きた人物が土地の記憶として残っている、そんな想像の旅を辿って頂けたとしたら幸いである。
江戸文化を改めて考えてみると、京伝が江戸カルチャーを牽引した背景には、彼がデザインのできる絵師であったこと、戯作者であったこと、商人であったことの他に、印刷の進化が重要な要素になっている。
江戸時代の印刷出版は活字から始まる。誤解が多いのであえて云うと、決して明治から活字が導入されたのではなく、ヨーロッパから活字導入があったわけでもない。活字印刷は中国、朝鮮半島のものが世界で最も早く、技術が進んでいたと言われる。グーテンベルグの活字印刷は世界革命の一つだと伝えられるが、実はその活字印刷は中国からその技術を持って行って実現したものである。
日本では朝鮮半島の銅活字を、1592年、秀吉の第一回目の朝鮮出兵の際(文禄の役)に大量書籍、印刷機械とともにソウルから奪ってきている。その後、家康が駿河版と呼ばれる銅活字の出版、あるいは銅活字をまねて木活字を作り、多くの仏教経典が印刷された。
1608年は、京都の出版業者が民間による活字印刷を始めた最初の年で、それを皮切りにその後20年に渡り大量生産としての活字印刷が盛んに行われるようになるのである。それにより、都市文化が隆盛し、識字率が急速に高くなり、読書人口が増え、100部以上の印刷を行い、出版物を世の中に流通させることが可能になっていく。
京伝は、そうした印刷技術が発展する渦中だったからこそ、「文字」や「文様」「絵」を自在に生み出し、遺憾無くその才能を発揮することができたのだ。時代のリソースを最大限に活用し、新たなアイディアで次の時代に軽やかに文化を手渡していく生き方に喝采を送りたくなる。
時は21世紀。現代に山東京伝が蘇ったら、一体どんなことを手がけるだろうか。得意の機知と心の機微を使って、私たちの社会が今息詰まっている課題にさっさと答えを見出して、涼しげな微笑みと共に勇気を与えてくれるに違いない、そんな空想を楽しんでいる。
本日も最後までお読みくださりありがとうございます。
責任編集:【銀座花伝】プロジェクト 岩田理栄子