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「こういう自分で生きていく」      銀座花伝MAGAZINE vol.10

#こういう自分で生きて行く  覚悟のある生き方

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銀座の文化を育む活動を熱心にされていた創業145年「ギンザのサエグサ」の閉店ニュースは、“人ごとでない”とショックを持って銀座人に受け取られています。「銀座の老舗に頑張って欲しい!」のご厚情から寄贈いただいた応援Face Shieldを老舗にお届けした際の、老舗呉服店主の言葉が忘れられません。 「老舗には長年の「澱」(おり)が溜まっていて、それを掃除することが今一番大事なんです。掃除が済んだらもう一度顔を上げて、“こういう自分で生きていく”と宣言したい」と。そこには銀座で商いの灯を絶やさないぞ、という強い覚悟を感じます。                今秋再開した観世能楽堂での観世流シテ方 坂口貴信師による世阿弥「砧」能舞台は、「気持ちのずれが永久の別れへと追いやる悲劇」を描き、「孤独な現代にも通ずるこのコロナ禍での生き方」の示唆に富んでいると多くのレビューが寄せられています。                     銀座は、日本人が古来から持ち続ける「美意識」が土地の記憶として息づく街。このページでは、銀座の街角に人々の力によって生き続けている「美のかけら」を発見していきます。


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◆ おうちDE銀座◆ 

・部屋の中に銀座が浮かぶ  ー 銀座香


10銀座イラスト


銀座は銀座中央通りをはさむように、美しく名付けられた通りが縦横には
りめぐらされています。ことさら、花の香りが漂うような通り名といえば
「すずらん通り」と並んで「花椿通り」などが有名です。街路樹の名前がつくのは、「マロニエ通り」、「柳通り」です。ところで、通り名はついていませんが、初夏に開花する花が見事でそこを歩くだけで季節感を満喫できる通りがあります。「銀座松屋通り」(通称ハナミズキ通り)では、花の開花にあわせてハナミズDAYSが開催されて、ふらっと通り界隈の老舗に入るとシャンパンが振る舞われたり、バーカウンターでお香の御稽古ができたり、プチ贅沢を味わえる仕掛けが用意され、感性をよびさましながら銀座を実感できます。

10香十店

                  ハナミズキDAYS/「香十」店先

銀座をおうちで体験する

コロナ禍の中で、極端に人気がなくなった銀座中央通り。人間がいなくな
ると不思議ですね、街の香りが湧き上がって感じられます。「銀座中央通
りの香り」って? 「銀座裏路地の香り」って? 香りの説明はなかなか
難しいですが、例えば【日本の香り】と云えば【畳の香り】、【能楽堂の
香り】といえば【檜や竹の香り】と、連想できるイメージ、場所、にそれ
ぞれに香りがあります。


今日は『銀座中央通り』の香りで

10看板


日頃必ず立ち寄る、銀座三丁目のガス灯通りの「香」の老舗で、イメージ
に合う「銀座中央通り」の香りをえらびます。銀座を象徴する銀座中央通
りといえば“開放感”。週末の歩行者天国で広い通りの真ん中に立つと、「空が大きいなあ」と感じて思わず深呼吸したくなるような軽やかな気持ちになりませんか。東京の中でも大都会の銀座で「広々とした草原にでも出かけた様な、清々しい気分」になれるすてきな場所。忙しく下を向いてせかせかと歩いていると気づくことができない、心がゆったりしている時にだけ発見できる空気感です。そこに、優雅なブランド店からの甘い香りが立ち上がり、高級感を含んだこの場所だけの香りが漂います。


10香セット



香りを持ち帰る

銀座の香りを持ち帰って、好きな香皿に立てます。古来より浄化する力が
あると伝えられる白檀には清々しい世界観が広がる感じ、人間味を感じる
木蓮
金木犀や蜜柑がまじりあった秋の香りも載せて、漂わせます。なかなか銀座に出かけられない時には、銀座が自宅にやってきたような感覚を楽しめます。【嗅覚】は五感の中でも最も記憶に近い感覚だといわれますが、その助けを借りて部屋中に浮遊する銀座時間が心の浄化と、失いがちだった季節感を届けてくれます。夏の終わりから秋にかけては、帰宅して部屋を暗くして、一日の疲れを癒す貴重なひとときになっています。

10香を立てる


秋の夜長に

中秋の名月の夜は、 【源氏物語】で読まれた月と心を表現した歌、沈香
、白檀、甘松
を融合させた優しい香りを焚くのが毎年の習わしです。その
名を「香十 高井十右衛門 1575」。特に月を愛でる和歌との相性は抜群で、生活の中に祈りを届けてくれます。おうちで銀座をあじわう、自然をあじわう、秋の風情を味わう・・・時分なりの空間づくりに香は欠かせません。
10月そろそろ夏の単衣も衣替え。薫衣香(くのえこう)を入れてしまうと
防虫効果もあり来年気持ちよく着られるとは、昔からの知恵だとか。この虫
除け効果は天然香料でできている香だからできる平安時代からの習わしと
として現代に伝えられています。洋服にも勿論使えて、香りを移すという日本文化のすばらしさ、もっと取り入れたいですね。

10秋の夜長

オンライン「中秋の名月夜会」ー笛と香と「源氏物語」ー

香十ではテーマに沿った「香」がお手元に届けられ、実際の香りを楽しみながらリアル感たっぷりの夜会もオンラインで定期的に開催されています。

10夜会


自然のめぐみ

日本のお香の奥深さには驚かされます。海外のフレグランスと違って、古来の自然の営みの中で生まれた植物から出来上がっているお香。
六国五味(りっこくごみ)の香道で用いられる香木は自然の偶然がつくりだすものでその微妙な香りの違いを伽羅(きゃら)、羅国(らこく)、真南蛮(まなばん)、真那伽(まなか)、佐曽羅(さそら)、寸聞多羅(すもたら)を産地にちなんで名づけ、「六国」と表現していると言います。
またその香りを味覚に置き換えて甘(あまい)、辛(からい)、酸(すっぱい)、苦(にがい)、鹹(しおからい)という「五味」に例えてもいます。「香道」は研ぎ澄まされた感性で香りを聞き分ける世界でも類を見ない歴史ある精神文化です。

家で焚いても自然だから体にも優しい、心も浄化されるというところが、閉塞感のある時代だからこそ、ますます求められているようです。

自然からできている香(香十「原材料」資料より)

10香原材料




◆能のこころ◆ 

第八回「坂口貴信之會」 「砧」能舞台レビュー

10能楽堂


コロナ禍により能公演が中止されて来たなかで、ようやく新たな一歩として開会に漕ぎ着けた観世能楽堂能舞台。時は2020年9月19日。感染対策のため座席は市松配席で半数に制限されましたが、会場には演技者たちの「待ちに待った日」を迎えられたことへの高揚感と、会話を差し控えて祈るような気持ちで着席する観客の空気感が相俟って、かつてないほど荘厳さがあふれていました。
限られた人数での開催のため「希望しても観られない」方々はどれほど口惜しい思いをされたことか、想像に難くありません。そうした方々のために、当日の坂口貴信師の舞台の模様の一部を、当日幸運にも観賞することのできた方々の感想とレビューを通じてご紹介します。


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・研ぎ澄まされた悲哀感に、感動!ー皆様のレビューから

「橋掛り近くの席から観賞しました。「砧」シテ方の坂口貴信先生の謡の美しかったこと。心の隅から隅までその声が響き渡るようでした。ひたすら美しい、この場にいられた事に感謝です」(音楽教室経営 女性)

「久しぶりの能楽堂、坂口先生の舞台から醸し出される悲哀の心情、秋を感じさせる風情、乾いていた体中で感じ入りました。このような重苦しい時期だからこそ、日本文化の奥深さに触れることで気持ちが清らかになるようでした。公演を実現して下さって感謝」(OL 女性)

「久しぶりの能舞台鑑賞。今日まで精神を保ってお稽古に励まれたことと思いますが、今までにない研ぎ澄まされた悲哀感が流れ出て、坂口先生の凄さを感じました」(レストラン経営 女性)

「素晴しい“砧”でした。大変良い能舞台を観せていただきました。このような舞台を体験できたことに心から感謝いたします。」                                 (辛口能ファン 女性)

「よく能は“祈り”のようだと云う人がいますが、初めて能楽堂を訪れ、その意味が実感として心にせまるような能舞台でした。本当に動きがないのに、こちらの頭が覚醒するというのは、きっと能楽師の内側から何かビームのように伝わるからなのでしょうか」(ワイン店経営 男性)


10桔梗


《記名レビュー》 恋しさが仄見えるー心揺さぶられる舞台

『砧』はもともと好きな作品のひとつであるが、今回は更に身に沁みて今までとは違う手触りの作品になった。

こんなに愛おしく思っている気持ちが夫に伝わらず、会えないまま生命の炎が消えていく妻の哀れが何とも名状しがたい。人はそのさみしさによって死の淵に連れていかれる。このコロナ過において、会いたい気持ちばかりが募って、それでも会えない人。ぱったり会えなくなって、見棄てられたのではと失意の底にある人。ともすると現実に過ごす時間とリンクして、胸の奥がざわざわと鳴り響いた。

侍女夕霧の訪れを受けた妻の寂寥は頂点に達する。都に赴いた夫に、胸にあるありったけの思い届けよと砧を打ち続ける姿に涙を誘われる。
シテ役を務める坂口貴信師は妻が抱えている悲しみ、淋しさ、切なさ、愛おしさを体の奥に包み込みー肚にしっかり抱え込んでー静かに立っている。その静けさの中に、ほとばしる恋しさが仄見えて、心が揺さぶられた。
久々に劇場で観る舞台、まさに一期一会のひとときであった。
                  (演劇プロデュース 真下美津子)


《記名レビュー》 生死を行き惑う姿を観るー美しさ

先日は【坂口貴信之會】へ参加させて頂き誠に有難うございました。
観世ご宗家による謡いをはじめ絢爛数々の舞台、そして坂口先生の砧の舞に時を忘れ、何ともいえぬ想いに揺さぶられました。


愛しい人を待ちわびる果てしない情とは一体何であろうか。

シテ様に、また作品に、そう問われ続けているように感じられました。
我欲のままに、傍にいてくれない相手を攻め立てるのではなく、抑えきれな
い想いによって相手を追い詰めてしまう己自身を恨み、戒めている、そのよ
うな印象を受けました。
行き場のない、されど果てしない想いを抱えたまま、生死の境を生き惑う姿
に観る美しさ、今も胸に残っています。
SNS全盛の時代に、日常では絵文字や分かりやすい言葉が独り歩きしがちな
印象もあります。
しかし、能楽が古の方々から受け継がれていることを想えば、スマホを握る
現代に生きる私たちの心の奥底にも割り切れない想いを抱える強さと苦しさ
が潜んでいるのではないか。そして能楽を通じ、人間への、また自分自身へ
の理解を深めることで、より人らしくて生きていけるのではないか。
そのような余韻が、今も心身を震わせてくれています。
今回、銀座花伝マガジンのおかげで神々しい能や坂口様の存在が一歩身近に
感じられ、当日が非常に待ち遠しくございました。
自粛一辺倒ではいけないと、頭では分かっていても、何をすべきが戸惑うと
きがございます。
 
その折、乱世を潜り抜けたお能が人の心に照らす鮮やかさに、感じ入ること
がございました。
誠にありがとうございました。         (金融関係 佐藤紘史)



10透明空


《レビュー解説》

・「心」の動きが鮮烈、名舞台
  ー「砧」名場面にみる坂口貴信師の凄さー

*《砧》あらすじは、【銀座花伝MAGAZINEVol.8】をご覧下さい。

                         文責:岩田理栄子

「これほど感情を抑え、一瞬の昇華の時に向けて丹念に表現する能舞台というものがあるのだろうか」見た目には動きが少ないのだから早々に心がそぞろになっても仕方のない演目といわれる「砧」。しかしこの日出会った「砧」は全く違っていた。今まで観たことのない異次元の舞台、その驚きで終始舞台から目を離すことができない。またひとつステージを上がられた坂口貴信師の舞台レビューを「見どころ」をピックアップしてお届けします。

10富士山


静まり返った観衆。「いよいよ」と固唾をのむのが分るような静寂の中、「砧」が始まります。


幕際の魔法—はじまりに秘技を観るー(前場から)

シテの独白

—それ鴛鴦の衾の下には。立ち去る思ひを悲しみ。比目の枕の上には波を隔つる愁ひあり。ましてや深き妹背の中。同じ世をだに忍ぶ草。我は忘れぬ音を泣きて。袖に余れる涙の雨の。晴間稀なる心かな。—


*鴛鴦:オシドリ 比目:ヒラメ 共に仲睦まじい夫婦の象徴。それさえも「立ち去る思ひ」「波を隔つる愁い」と嘆くシテ。情け深い人間と生まれながら、一瞬の現世の中でさえ離ればなれになっている我、不幸な身の上をかこつ詞章。 

アシライ出シで気配を消して現れる妻:シテ(坂口貴信師)。幕際の橋掛りの三の松で、正面に向いて謡い出します。目の前にいるのに遠くから聴こえるような孤独感のある澄み渡った声。その声にのって、情愛はあるのに、本来仲の良いものが離れなければならない冷えた切実さが、聴く者の胸に迫ります。人の心をつかむのは声の音量ではなく、シテの心の動きであることを実感する場面です。


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たった一言で全ての思いを表出(前場から)

面を伏せて思い悩んでいたシテがツレ(夕霧:侍女)の訪問を聴いて面を上げ屋敷内に通すシーン。着座し対面するシテとツレ。着座したシテの孤独感をあらわす僅かな面の動き。着座の中では本当に心の内を表すのは至難であろうと想像しながら見入ります。動きのない中だからこそ、面の角度、佇まいで心情を汲み取ろうとする観客の集中力が高まります。


「いかに夕霧」


この一言に妻の心の全てが籠っているかのような豊かな声の表現。夫や侍女に対して内から湧き上がる怒りを抑えながらも、妻として年上の女の強さが毅然と光る一言。妻の抑えた感情と謎めいたツレの返答のシーンを地謡が盛り上げます。夫に疑念をもつ妻の孤独が心の中で大きな固まりに膨らみ、そこに心がとらわれてしまう経過が見事に表現されています。

シテ「いかに夕霧珍しながら怨めしや。人こそ変り果て給ふとも。風の行方の便にも。などや音信なかりけるぞ。」
ツレ「さん候とくにも参りたくは候ひつれども。御宮仕への暇もなくて。心より外に三年まで。都にこそは候ひしか。」
シテ「なに都住まひを心の外とや。思ひやれげには都の花盛り。慰み多き折々にだに。憂きは心の習ひぞかし」
地謡「鄙の住まひに秋の暮。人目も草もかれがれの。契りも絶え果てぬ何を頼まん身のゆくへ」
地謡「三年の秋の夢ならば。三年の秋の夢ならば。憂きはそのまゝ覚めもせで。思ひ出は身に残り昔は変り跡もなし。げにや偽りの。なき世なりせば如何ばかり。人の言の葉嬉しからん。愚かの心やな。愚かなりける頼みかな」

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・2、3分の奇跡 「砧」対座シーン(前場から)


砧の作り物(つくりもの/砧その物を表現したシンプルな舞台装置)は、「妻の心情の凝縮」です。その象徴性を表現するような、無紅紅緞(紅の入らない織りの種類)で飾られた白水衣を丸棒に巻き付けたもの。後見(こうけん)※が舞台の脇座に据えます。


後見※舞台の上で、能楽師のサポートをする人物のこと。 紋付袴(もんつきはかま)姿で、舞台背面鏡板(かがみいた)の前に待機しています。 装束(しょうぞく)の乱れを直したり、道具の出し入れを行なったりします。 シテやワキに事故が起こったときには、その代役を務めるという重要な役目でもあります。

置かれた「砧」をはさんで座るシテとツレ。ここで、シテが砧に向き合うまでの2、3分間 。観客の座る脇正面席からはシテの背中しか見えません。ほとんど動きがありません。ところが、感情を留めて間を創り妻の心象風景をにじみ出させる演技がその後ろ姿にあります。そして、「砧」を打ち始めるその瞬間の光るような所作。後ろ姿から奇跡のようにしっかりと感じられる心の動きが創る所作に、ドキッと魂を持って行かれるような心打たれる名場面だと感じます。(注釈:この場面では「砧」を打たない、と坂口先生からご指摘を頂きました。この記事は筆者が脇正面からの印象として「打つ」ように見えた表現である点にご留意下さい)


その心象風景を邪魔しないように、ささやくような低い音で地謡が謡います。


地謡「衣に落つる松の声。衣に落ちて松の声夜寒を風や知らすらん。」
地謡「衣に落ちて松の声。夜寒を風や知らすらん。」



シテ柱※での謡 ークライマックスへー

※シテ柱(シテバシラ)/本舞台にある柱のうち、正面から見て左手奥
の角、つまり橋掛かり(はしがかり)と舞台の境目に位置する柱のこ
と。橋掛かりを移動するシテが目印とする柱であり、舞台に登場した
シテが最初に位置する場所であることからシテ柱とよばれている。

シテ「音信の。稀なる中の秋風に。」
地謡「憂きを知らする。夕べかな。」
シテ「遠里人も眺むらん。」
地謡「誰が世と月は。よも問はじ。」


いま、砧を打って夫へ思いを届けようとしている妻も、「遠里人」には届かないことを直感し、美しい月影も妻にとっては孤独感の象徴だ、と謡います。

この「砧」作品のもっとも能らしいところは、砧を打つ対座シーンのシテの「心の動き」をシテ柱まで身体を移動して謡い、表現することです。
シテ柱の前で謡い出すとき、不思議なことに能舞台の空気密度が急に高くなるように感じます。これはシテ柱には神霊が宿るから、と伝えられることからかも知れません。脇正面から注視できるほどの距離で頭上に降り注ぐ謡は、シテの表情が生き生きと迫りその心情の繊細さが手に取るように響き、見手の心を揺さぶります。

シテ「面白のをりからや。頃しも秋の夕つ方。」
地謡「牡鹿の声も心凄く。見ぬ山里を送り来て。梢はいづれ一葉散る。空冷まじき月影の軒の忍にうつろひて。」
シテ「露の玉簾。かゝる身の。」
地謡「思ひをのぶる。夜すがらかな。」
地謡「宮漏高く立ちて。風北にめぐり。」
シテ「隣砧緩く急にして月西に流る。」

「牝鹿の声」(妻呼ぶ鳴き声) や 「梢から散る一葉」、「軒の忍草」その後の妻の身を暗示させる不吉な言葉が並びます。


地謡による「宮漏高く立ちて。風北にめぐり。」の謡。
鼓の音もなく、とりわけ高音で変幻自在に謡う地謡。謡の中でも最も注目して欲しい聴かせどころだといわれます。
「隣砧緩く急にして月西に流る。」幕方面を見た瞬間、大小鼓がアシライを打ち始め、いよいよ前場のクライマックス「砧之段」へと盛り上げます。


10薄青くも


・能の最大の魅力を引き出す 「砧之段」

美しい和歌に彩られたこの場面を体験したくて、この舞台に足を運ばれた方も多いのではないでしょうか。世阿弥が「末の世に知る人有まじ」と語った自信作の秘技を伝える名場面です。

地謡「蘇武が旅寝は北の国。これは東の空なれば。西より来る秋の風の。吹き送れと間遠の衣擣たうよ。古里の。軒端の松も心せよ。おのが枝々に。嵐の音を残すなよ。今の砧の声添へて。君がそなたに吹けや風。余りに吹きて松風よ。我が心。通ひて人に見ゆならば。その夢を破るな 破れて後はこの衣 たれか来ても訪ふべき 来て訪ふならばいつまでも。衣は裁ちもかへなん。夏衣薄き契はいまはしや(と左へ廻り)。君が命は長き夜の。月にはとても寝られぬにいざいざ衣うたうよ。かの七夕の契には。一夜ばかりの狩衣。天の河波立ち隔て。逢瀬かひなき浮舟の。梶の葉もろき露涙。二つの袖やしをるらん。水蔭草ならば。波うち寄せようたかた。」

「音を感じて下さい」-坂口貴信師の言葉を思い出します。      (銀座花伝MAGAZINEVol.8 「砧の秘技」より)


生舞台を観賞するまでは、「本当に美しい日本語が醸し出す風情」に酔いしれることを想像していました。ところが動かないと想像していたシテの動きの細かく繊細なこと。正確には動きはないけれど型が沢山盛り込まれている、ということでしょうか。正面を向く、脇座(砧)をみる、ツメル、サシ、ヒラキ、などなどの所作を詞章の区切りに併せて繰り出し、一秒たりとも所作の無い場面などないのです。下手をするとその動きに目を奪われ、音が聴こえて来ない。だからこそ、目に見える部分にとらわれずに「音に耳を澄ませて感じてほしい」と坂口師は言われたのだと気づき、唸ります。

シテ「文月七日の暁や。」
地謡「八月九月。げに正に長き夜。千声万声の憂きを人に知らせばや。月の色風の気色。影に置く霜までも。心凄きをりふしに。砧の音夜嵐 悲みの声虫の音。交りて落つる露涙。ほろほろはらはらはらと」。いづれ砧の音やらん。」

シテとツレが打ち続ける「砧」。この作品の中で唯一のリアルな場面に、美しい詞章が重なって行きます。ほとんど実際に砧を打つ音は聴こえません。詞章だけが空間に流れる演出です。イメージ(観念)の世界を大切にする本作の意図から、極力観客が静止したシテの姿の中に妻の思いを投影させることができるようにするための仕掛けであると感じました。
「希望」と「迷い」の間で揺れ動く淋しい情景が舞台全体を覆います。


「舞っては駄目」


これも「砧」の極意として、坂口貴信師が語った言葉です。
体は動いていない、なのに型が多くある。「お客様からどう見えるか」の要素が「見える部分ではなく」「見えない意識—つまり心」で演じる難しさに挑戦されているのだとしみじみ感嘆し、貴重なその瞬間に立ち会えた喜びを感じないではいられません。別の言い方をすれば、大上段に身体を使い演ずる能とは対局にある、「思索と祈りの能」の美しさを体感できた歓びといえます。


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花のある“間狂言” —野村萬斎のかたりー

ワキ(蘆屋某)の下人が登場して、妻が亡くなったこと、その経緯を語る「間狂言」。今回は、野村萬斎師による貴重な語りです。朗々とした存在感のある声、没入感を呼び起こす流れのある語りでこの作品に花を添えるアイのすばらしさ。華やぎが空中を舞うような贅沢な至福の時間です。

アイ「扨も扨も痛はしき御事かな。誠に夫婦恩愛の仲。浅からざる御事なれば。北の御方待佗び給ふ御事。実に尤もと存ずる。我等も共に落涙仕り候。又頼み奉る蘆屋殿は。唯かりそめに御在京と仰せられ候程に。けふは御帰りか。翌日は御下りかと。待ち佗び給ふ所に。はや三年に成り申して候。又蘆屋殿も故郷の御事心元なく思召し。夕霧と申す女を御下しあつて。当暮に御下りなさるべく侯間。此の暮には必らず御目にかゝり給うずると。懇に仰せ越され候を。北の方御嬉しく思召され候。又淋しき徒然には。賤女の手馴れ申す砧を御打ちあつて。蘆屋殿の御下向を待佗び給ふ所に。また此頃他郷の人の噂には。当暮にも御帰りなき由を申す程に。北の方。これは聞こえぬ事と思召し。女の事なれは御疑ひあつて。さては都にて深き御馴染の出で来。妾事は余所に吹く風と思召し。それより物に狂はせ拾ひ。終に空しく成り給ひて候。いや由なき独り言を申して候。先づ比の由蘆屋殿へ申さばやと存ずる。」


10砧装束


風情を醸し出す 美しい装束

シテの前場は、中年の女性を表す面に、年配の風情を漂わす「無紅」(いろなし)で登場します。動きが少ない中で、憂いを帯びた品格のある面が、面の動きをクローズアップする所作と相俟って、妻の悲しさを引き出します。坂口師の面の動きの角度の妙技からでしょうか、心無しか茫洋とした「心ここに在らず」的な浮遊感さえ感じさせます。

TOPICS /後見による物着(ものぎ)

前場の途中、後見により舞台上の後見座(こうけんざ)で扮装を変える物着
が施されるシーンがあります。脇正面席からはその所作の一部始終を観賞で
きます。(これも能舞台鑑賞の楽しみです)今回は、右肩を脱いで唐織りが
左上半身だけにかかるようにします。非常に手際良く行われることもそうで
すが、よく唐織りが滑り落ちないものだなあと感心します。後で伺い知るに
、「砧」では前シテの唐織りの着付け方を俗に「熨斗着け」と呼ぶそうです。熨斗袋についているあの「熨斗」ですが、それに似せて楽屋で着付ける時に胸を大きく開いた形で着付け、物着で右肩を脱いだ時に落ちないように、唐織りの左肩と下に着る摺箔とを糸で綴じ付けするとか。そして、右肩を脱いだ時に、同時に襟を普通の着物のように巻き込むのだそうです。簡単そうに見えても結構手が込んでいる、些細な所まで神経を使った装束の見せ方の工夫に驚かされます。
*今回の後見物着は、京観世林家十四代当主 林宗一郎師が施されました。

後場では、シテの面に泥眼、装束は白練壺折(死に装束)、「亡者」を意味する杖。透明感のある装束の美しさに眼を奪われます。そこには、ある種の威厳と仰々しさが印象づけられ、崇高ささえ漂います。極端に動きの少ない作品だけに、シテ、ワキ、ツレそれぞれの装束をじっくり観賞できるところが、もうひとつのこの「砧の見どころ」だと実感します。


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花の光を並べては 世阿弥の詩心—後場の詞章


後シテ「三瀬川(三途の川の意味)沈み果てにしうたかたの。哀れはかなき身の行くへかな。」
シテ「標梅(墓のしるしとしての梅)花の光を並べては。娑婆の春をあらはし。」
地謡「跡のしるべの燈火は。(弔いの燈火)」
シテ「真如の秋の。月を見する。」
シテ「さりながらわれは邪婬の業深き。思ひの煙の立居だに。安からざりし報ひの罪の。乱るゝ心のいとせめて。獄卒阿防羅刹の。笞の数の隙もなく。打てや打てやと。報ひの砧。怨めしかりける。因果の妄執。」
地謡「因果の妄執の思ひの涙。砧にかゝれば。涙はかへつて。火焔となつて。胸の煙の焔にむせべば。叫べど声が出でばこそ。砧も音なく。松風も聞えず。呵責の声のみ。恐ろしや。」

弔いの燈火、そして秋の名月によって、極楽に導く仏の教えを表しているようです。杖をつきながら登場した後シテ(妻の霊)が橋掛り一之松で正面を向いて謡いだすとき、シテ妻は美しい思い出に幸福感を感じることもなく、導いてくれる善き教えに立ち止まることもなく、夫への執心から逃れられない、恨んだ罪により地獄に落ちる・・・永遠に砧を打ち続ける罰を与えられたかのような有様を表す詞章が続きます。


全く救いのない心情の中に、キラリと光る詞章があります。


「花の光を並べては」


暗い場面の中で、何と美しい表現でしょうか。
世阿弥が描きたかった妻の心象風景のすべてがこの言葉に込められているように感じます。坂口師の澄み渡った声の表情が胸にせまり、思わず目頭が熱くなる瞬間です。



10朝日

道明らかになりにけり 成仏のエピローグ

ワキの前に遂に詰め寄ったシテは、がっくりとしてシオリ(泣く所作)をします。このシーンのシテの心情が恨みを晴らすことではなく、成仏を遂げたいとの思いであることが伺い知れます。

地謡「法華読誦の力にて。法華読誦の力にて。幽霊まさに成仏の。道明らかになりにけり。これも思へばかりそめに。うちし砧の声のうち。開くる法の華心。菩提の種となりにけり 菩提の種となりにけり。」

後シテの亡霊となった妻は、ワキ夫に復讐をしようと思った訳ではなく、心の離れた夫に自身の恋慕の思いを届けようとしました。それが伝わらなかったことを儚んで死んだ妻は、夫の無関心・不実を恨んだだけでした。決して妻を忘れた訳ではないが、いつの間にかお座なりにしてしまった夫。夫婦の間の気持ちのギャップが永久の別れへと追いやる悲劇の余韻が最後に強く残ります。気持ちが通じ合わなくなることを嘆いての落命、現代にも通じる切実な「こころの物語」がそこにあることを思わずにいられません。
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能楽堂を後にする時、能通とおぼしき男性が連れの方と交わす言葉。


「彼は、能楽界の救世主だね」


まさに同感。じわっと共鳴できた嬉しさが込み上げます。


最後まで、一糸乱れることなく、高い集中力と研ぎ澄まされた心で演じきられシテ方坂口貴信師の「砧」。どんなに身体の動きが少なくても、心の動きのありようによって美しい能が表現できる、人々の心に迫る細やかな心情・風情を伝えきることができるーそんな眩しい奇跡を体感できたひとときでした。

10サイボーグ


今後の観世流シテ方 坂口貴信師の公演 

◉10/17(土) 14:00〜 「MUGEN∞能」  於京都観世会舘
狂言「鶏猫」茂山逸平 他  「蝸牛」野村太一郎 他

一調 「雲林院」 坂口貴信   仕舞「三山」 大槻文蔵 大槻裕一他

能 「一角仙人」 シテ 林宗一郎  ツレ 坂口貴信他

◉11/28(土)29(日)VR能「攻殻機動隊」追加公演 於東京芸術劇場
 主演 観世流シテ方 坂口貴信 川口晃平 観世三郎太他       


10イエロー


◆銀座情報◆

・老舗応援 Face Shield  寄贈いただきました!

日本文化を銀座から元気にする【銀座花伝】プロジェクト活動を応援くださる企業様から感染防止対策用のFace Shieldを寄贈頂きました。

寄贈企業 株式会社BURAN 御担当 三枝要子様
この場を借りて、ご厚情に対し心より感謝申し上げます。

頂いたFace Shieldは、「銀座の老舗に頑張ってほしい!」のメッセージを込めて、ご縁のある老舗のご店主宛送らせて頂きました。

創業90年 どらやき専門店「銀座よしや」 店主 斎藤大地さま
「このプロジェクト、銀座を活気づける大変素晴らしい取り組みですね!
フェイスシールドをご提供下さった、株式会社BURAN三枝様にくれぐれも宜しくお伝え下さいませ。」

盆栽専門店 「雨竹庵」 店主 堀越繁魅さま
「たくさんのフェイスシールドが届きました。ありがとうございます。お店はスタッフの確保が難しい状況で、なんとか午後開店できている状況です。丁度イベントをそろそろと考えていた所です。ご厚情を頂いて元気になれます。有効に活用させて頂きます!」

創業400年 江戸調味料専門店「三河屋」 店主 神谷修さま
「貴重なフェイスシールドをありがとうございます。わが店も創業以来初めて四・五月と休業をしました。なかなか人が戻ってきません。踏ん張って、元気を取り戻さないといけないですね」

創業100年 陶器専門店「東哉」 女将 松村晴代さま
「いつも気を留めて頂いて、本当に有り難うございます。器の絵付け時にマスクをしていると苦しいので絵付け師みんなで使わせていただきます。京都の職人にも送ります。大変喜んでおりました。職人からも有り難うございます、との声が届いています」

この他にも老舗料亭や呉服店、和菓子屋さんなど皆様から「元気を貰いました」と感謝のメッセージが順次届いています。

10よしや
10盆栽
10三河屋
10東哉



◆編集後記(editor profile)

10トンボ

老舗店主に「こういう自分で生きていく」という覚悟を伺った時、こうした境地に達した人物は、きっと天地からこぞって応援してもらえるのだろう、と「覚悟を持つ」人の尊さに感じ入りました。

銀座商売は昔から「徳」を売る商売と言われてきました。その商品の物語をお客様に情熱を持って語り、職人や素材の素晴らしさを伝える。最近になって「モノからコトへ」というワードが販売戦略によく使われるようになりましたが、もともと銀座はその極意で発展してきた対面重視の「商業の檜舞台」です。

ネット販売だけに舵を切り、生業を捨て貸しビル業だけに方向転換する老舗がここへきて増え続けています。銀座商いに生き続ける「美意識」をどう商いに活かすのか、その方法を試行錯誤しています。

本日も最後までお読みくださりありがとうございます。

          責任編集:【銀座花伝】プロジェクト 岩田理栄子


〈editorprofile〉                           岩田理栄子:【銀座花伝】プロジェクト・プロデューサー         
銀座お散歩マイスター / マーケターコーチ
東京銀座TRA3株式会社 代表取締役
著書:「銀座が先生」芸術新聞社刊


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