「小津安二郎」 ー現代人の忘れ物 銀座花伝MAGAZINE vol.20
#現代日本人の忘れ物 #小津安二郎 #グレート・リセットの時代
幕末以降、近代物質文明によって暮らしの水準を大幅に向上させ、お金を出せば利便性が手に入る社会を、西洋諸国のどこよりも熱心にひた走ってきた日本。しかし、このコロナ禍が炙り出したのは、科学技術やデジタル技術も他国に比較にならないほど進化し豊かな国のはずなのに、コロナで困窮する外食産業等へのわずかな支援金支給にも何ヶ月もかかり「今を救えない」という現実。1年6ヶ月も続く感染状況を目の当たりにしてこの矛盾に気づかされた方々も多いことでしょう。
ダボス会議を開催している世界経済フォーラムの創設者クラウス・シュワブ氏の言葉です。シュワブ氏はこのリセットを「グレート・リセット」と表現して、最近話題になりました。
全世界に向けて放たれた言葉とはいえ、この指摘は今の日本や、東京にこそ向けられた重要なポイントです。ことに、感染拡大はいつも東京のような過密都市で流行し地方に広がる様子を見ると、極端な人口集中の中でもともと物質文明の申し子的な存在・大量消費の象徴の銀座のような商業都市のあり方そのものも問われているといえます。
活力が失われた銀座の街に立って見ると、新しい街のあり方を考え直す時をすでに迎えていると実感します。こんな時だからこそ、私たちには新たな問いが必要です。
江戸末期には3,200万人だった人口が、明治以降の150年ほどで9,000万人も増加し2015年時点で1億2,700万人に急上昇したのち、これをピークに100年後には人口5,000万人になるという試算。2021年すでに人口は急降下を始めています。(日本の人口の推移と未来予測/国土交通省資料)今後の少子化対策といっても、社会不安から希望を持てない若者たちの現状が改善されない限り、これは未来を考える上で現実的は問いではないか、そんな気がしてきます。
銀座のような商業都市も日本の人口が5,000万人になった時の商売のやり方を模索する、という思い切った思考を試みる瀬戸際に立っています。読者の皆さんのご自分の家族、お仕事、コミュ二ティの状況は人口半減によって暮らしは人間関係はどう変わるでしょうか。それでも豊かに生きられるカタチがきっとあるはずです。混沌とした状況だからこそ、今この時に新たな問を立てることが、「グレート・リセット」を生き抜く大切な視点ではないかと思うのです。
銀座は、日本人が古来から持ち続ける「美意識」が土地の記憶として息づく街。このページでは、銀座の街角に棲息する「美のかけら」を発見していきます。
1 小津安二郎と “現代日本人の忘れ物”
若い世代には、日本映画の巨匠・小津安二郎と云う名を聞いても黒澤明なら知っているが知らない人や、名前を聞いた事があるけれど映画を観た事が無い、と云う人も多いかも知れません。その作品について日本人の日常を描いた平坦な映画、と云う印象を持っている人も多いと聞きます。ところが、銀座の陶器専門店の老舗「東哉」(とうさい)には、没後60年経った今も小津安二郎の湯呑み茶碗をもとめて若い人たちが店を訪れると云うのです。もちろん、小津監督自ら焼いた陶器というわけではありませんよ(笑)。小津監督の手がけた映画“彼岸花”の中のちゃぶ台シーンを飾った、監督自身がデザインした湯呑み茶碗の事です。現代の若者たちが時代を超えて惹き付けられる小津ワールドとは一体何なのでしょうか。
銀座に縁の深かった巨匠の魅力の秘密を、海外の映画人や銀座の視点等を交えながら探ってみたいと思います。
▪️世界の映画人からラブコール 小津映画
アカデミー賞受賞監督の憧れ
2021年4月、コロナ禍で2年ぶりに開催されたアカデミー賞授賞式で、アジア系監督の作品が、作品賞候補となり、出演女優がアジア圏出身としては初の助演女優賞を獲得するという快挙も成し遂げ、世界から大絶賛を浴びた事は映画好きの方には記憶に新しい所だと思う。作品名は「ミナリ」。監督はリー・アイザック・チョン。タイトルの「ミナリ」は、野山に群生する植物の“セリ”の意味で、力強く地に根を張る象徴として名付けたと云う。監督自身が韓国系アメリカ人で、両親が農業で成功する事を夢見て韓国からアメリカに移住した実体験を元にしたこの作品は、干ばつや新たなコミュニュティとの軋轢など様々な困難の中を個性豊かな3世代が力を併せて道を切り開き、新しい土地に希望を見出して行く家族の物語である。作品に登場する主人公の父母、子供たち、そして祖母の感情の交流の機微がもたらす清爽な映像の感動は勿論だが、驚いたのは授賞式後のメディア・インタビューで語ったチョン監督の一言だった。
「昔から、小津安二郎監督に憧れていて、いつかあの様な美しい映画を撮ってみたいと思っていました。小津監督は自分の原点です」
このインビューを聞いて「オズって誰?」と検索した日本の若者が多かったという。外国人から日本の凄さを知らされるというよくある話だ。
名優・芸術家たちの守護神
そういえば同じ様な台詞を聞いた事がある・・・。と思い出したのが、一大冒険叙事詩を映画化した「ロード・オブ・ザ・リング」のアルゴルン役、ヴィゴ・モーテンセンの言葉だ。彼は、名優であると同時に、詩人であり写真家というもともとは芸術家だが、2019年には人種問題を扱った「グリーンブック」でアカデミー主演男優賞候補に輝いている。その彼が映画雑誌のインタビューでこんな話をしていた。
「僕が俳優として勉強を始めた時に、まず最初に観たのが小津安二郎監督の映画。その影響で本格的に俳優をめざしました」
極め付きは、1980年代にモノクロ映画の美しさで世界中に感動の渦を巻き起こし多くの映画賞に輝いた「ベルリン・天使の詩」を制作したドイツの鬼才ヴィム・ヴェンダース監督の小津監督愛。ベルリンの街の美しい景色を再発見し、天使の言葉を借りて生きる哲学叙事詩を表現したこの作品のエンドロールに、
「この映画を私の芸術上の守護神の一人、小津安二郎に捧げる」と書かれていた話も有名だ。
映画人ばかりでなく、今は亡き偉大な作曲家・武満徹や現在も世界的な活動で知られる音楽家・坂本龍一らも「私が一番好きな日本の映画監督」だといい、伝統を緻密にカタチにしている小津映画の世界観を称賛している。
このように多くの芸術家に影響を与え続けた小津安二郎は、志賀直哉文学の身近に起きている事を表現するときの「洗い上げた美しさ」を敬愛して映画を撮り続けたと云う。キッチリとした簡潔な画調で洗い上げた完成美を創りだす事が自身の憧憬であり続けた。
▪️小津安二郎ってどんな人?
小津安二郎は、1903年深川で海産問屋(湯浅屋)の大番頭の次男として生まれる。1922年〜三重(松坂)に代用教員として赴任するが、1年で退任して上京。1923年叔父のつてで松竹キネマ蒲田撮影所に撮影助手として入社。後に1年志願兵に。1926年には初監督作品「懺悔の刃」を撮った後、父子の愛を描いた「父ありき」で小津芸術の世界を世に披露。1946年シンガポールの地で軍報道映画班員として終戦を迎える。戦後5年の空白を経て、東京下町人情劇「長屋紳士録」を手がけ、戦後も一貫して家族の変化を投影する作品を撮り続けた。
時代の変化と家族を描き続けた 作品の数々
▪️小津の生きた時代と銀座
小津安二郎にとって銀座はグルメ文化観、美術文化観を吸収する格好の場だった。彼が銀座を闊歩したであろう全盛時代は、1929年〜1960年代。その時代の銀座を少し覗いてみると小津映画の背景が見えてくる。
今から70年前(1950年代)には、終戦から5年しか経っていないにもかかわらず銀座は映画や音楽の発信地と云う時代を迎える。1951年には日本初のシャンソン喫茶である「銀巴里」(〜1990)が7丁目に開店し、美輪明宏や金子ゆかり等のスターを輩出し、その常連客として、20歳代だった三島由紀夫や寺山修司、吉行淳之介がいたといわれる時代だ。1957年にはジャズ喫茶「銀座ABC(アシベ)(〜1972)が開店し、いわゆるロカビリーブームの中心地となりその後グループサウンズの音楽シーンにつながる役目を果たして行く。華やかな銀座の時代の始まりである。
1945年の敗戦後数年で、銀座は『焼け野原だった土地からの再興』を果たし、新しい西洋文化を創りだすエネルギーに溢れていたことが分る。当時の事を昔の店主に伺うと、「戦後はとにかくみんな必死で何もなくなった自分の店の前にゴザを広げてモノを並べる。そんな事が当たり前の時代でしたよ」という話が返ってくる。
日本が連合国軍の占領下におかれた1945年から1952年、銀座の和光は日本人立ち入り禁止の占領軍PX (Post Exchange)だった。PXとはGXQ軍の購買部・売店のことで、進駐軍は各施設を接収して米兵向けPXとし、東京では、銀座の服部時計店(第8軍PX、経済科学局)、銀座松屋、小倉ビル、白木屋、などがその対象だった。GHQ本部が置かれた日比谷第一生命館からほど近い銀座は道路標識も英語に書き換えられ、焼け野原の中をピンクのジープが疾走する状況だったと云う。
調べてみると、戦前の文化の検閲は内務省が行なっていたが、戦後のこの時期はGHQの高度な(一見したら自粛に見える)検閲に新聞社・出版社はもとより文化人、そして商店も苦しんでいた様子がうかがえる。坂口安吾、川端康成、谷崎潤一郎、太宰治等名だたる文豪の作品もこの「検閲」に泣かされたという痕跡が残されている。坂口安吾や川端康成は「特攻隊」について書いた部分等をほとんど削除されていた。他には写真家木村伊兵衛の作品にも窺える。銀座を撮影する場合に、PXに出入りするアメリカ軍人や家族等の存在を記録する事を禁止されていたのか、PXを背にした写真ばかりである。占領を資料として残さないようにする意向が働いていたのだろう。
戦後は銀座の街にアメリカ人が溢れていたから、商人たちにとってお客様は彼らだっただろう。「唐物」(からもの)といわれる洋装品を中心に物品が売れ再興の兆しが見えてくると、銀座には洋食店が目立つようになる。これらも占領下に求められた洋食の需要が一気に街に広がり、次第に名店と呼ばれるレストランを中心にグルメの街銀座に進化して行った。
と同時に「映画文化」の街の芽が育ち始める。
1946年には早々にテアトル東京、1957年には千代田劇場、みゆき座等が開館、銀座は日本を代表する映画館街と呼ばれるようになった。中でも1953年〜1998年まで開館し続けた『銀座並木座』は東京を代表する名画座としてその存在感は絶大、映画好きの引退された銀座店主たちの思い出話には必ずこの映画館の名前が上がるほどだ。
このように小津が活躍した時代は、銀座の様子を窺うだけでも、戦後の荒廃から速やかに立ち上がり、高度経済成長期(1955年から1972年ごろまで)が始まる前夜でありながら、その後の飛躍的な西洋文化の高揚を感じさせる時代であったことが分る。そのような状況の中で、小津はやがて来る時代の空気を少し先取りしながら、時代の変化に伴って変る人間模様をつぶさに記録し、そして、日本人がかねてより大切にしてきた日本の風習や美意識が失われて行く事をなんとか踏み留まらせたい、という無意識の情熱が余白の多い台詞まわしや、ローアングル(カメラを低く構えて撮影する手法)の構図、小物にこれでもかとこだわり続ける映画づくりを生んだのではないか、そんな気がしてくるのは私だけだろうか。
▪️日本人の情感を描いた 「東京物語」
小津安二郎はモノクロ映画を中心にカラー作品を含めて37作品(現存記録)を製作しているが、その中で最も美しい日本映画、最高傑作との呼び声が高いのは、小津渾身の家族ドラマと云われる「東京物語」(1953年、モノクロ)である。
名場面は、終盤で笠智衆が原節子に再婚を勧めるシーン。尾道の海沿いの堤防に佇みながら、2人が遠くを見つめて言葉を交わす場面には格別な情感が漂っていて、日本映画の中でも屈指の美しさに溢れている。胸の奥がちくっと切なくなる。それはきっと、登場する尾道の風景そのものの美しさも勿論あるが、ローアングルで空や遠景を際立たせたカメラワークや、風景カットを会話シーンの合間にリズム良く挿入する手法に目が釘付けになるとともに、日常的なさらりとした会話の中ににじみ出る人間の温かい情愛に痺れるからに違いない。
さらにこの映画の「東京」には小津監督の美学が注がれていて、今観ても70年近く前の東京を美しいと感じる。東京の家屋の畳やちゃぶ台や襖のある室内、ビル群が未だ数えるほどしかない街を走る観光バス、ヒロインの白いブラウス、風に揺れる洗濯物さえまばゆく美しかった。街というのは、撮影するその人の視点、美意識の掘り出し方によってこんなにも光るものかと教えられる。
▪️「しゃべらない文化」 と 日本の色 映画「彼岸花」
2017年にノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロは、10歳頃に小津安二郎の映画を観て大いに影響を受けたと語っている。5歳で海を渡った日本の記憶があいまいな長崎生まれの日系イギリス人の彼にとって、小津映画は、当時の日本の街、登場人物の台詞回し等、日本の文化や景色の忘却を踏みとどめてくれる重要なツールだったのだろう。中でも子供の台詞の端的さ、ぶっきらぼうさは、日本語を話す事ができなくなったイシグロにとって生きた言葉の教科書だったと本人が回想している。
小津映画の台詞回しは実に日本的だ。説明を嫌って、簡潔に短いセンテンスを重ねて行く手法。一見ぶっきらぼうな会話。家族や友達同士のやりとりは「あぁ」とか「うん、そうだね」のようなやり取りで成り立っている。映画の途中でトイレ休憩に立っても状況が変わらない映画(笑)などと皮肉まじりに言う批評家もいたという。先日知人の二十歳の娘さんが、ドイツ留学中に大学の宿題で小津映画を観る機会があった、とその感想を聞かせてくれた。
彼女の観た小津作品は「彼岸花」(1958年)だったという。初のカラー作品である。若い世代には「色がクール」に映ったのか。冒頭に述べた若者が老舗を訪れる目的の湯呑み茶碗が登場するのも、この映画だった。そんな新しい視点で「彼岸花」を観てみると、確かにまた違う小津映画の魅力に気づかされる。
© 松竹株式会社
▪️小道具にこだわり抜いた 「彼岸花」
茶の間が物語の舞台だ。母親(田中絹代)と娘たち2人が食卓で向き合うシーン。テーブルの左と右にきちんと配置された登場人物を真横からローアングルで映し出す。テーブルには、白いクロスにビニール製の赤い柄の入ったテーブル掛けが重ねられている。その上には時代を感じさせるバヤリースオレンジの濃い橙色が際立つジュース瓶、白い無地の珈琲カップとソーサー。小振りのワイングラスに食前酒の赤ワインが半分ほど入っている。その手前右には、木のお盆に置かれた4枚の白い大皿、コップ、空いたジュース瓶、ワインの入ったデキャンター(?)。そして、手前左手には、存在感のある「赤いやかん」が鍋敷を敷いて畳に直接置かれている。茶の間の奥は庭が暗がりにほのかに浮かび、庭と茶の間の間にある縁側と障子が左右対象にならないような構図で配されている。
この時、主役は小物である、と感じた。小津が色の中で一番好きだと云う『赤』が小物によってさりげなく散りばめられ、やや古びた日本家屋の茶の間の中で眩しくおしゃれだった。
▪️小津湯呑み 銀座「東哉」の美学
ひときわ赤と青がモダンにデザインされた湯呑み茶碗。映画の中で物語をかき回す役の可愛げのある京都弁の山本富士子や有馬稲子・久我美子など主人公を中心として美女勢揃いの茶の間での会話シーンに必ず登場する。余程のこだわりがあったのだろう。小津は自分の美意識と合う巧芸を実現できる陶舗を常に探していたようで、ピタリとその器屋が見つかった時には、その場所を撮影ロケの集合場所にするほどの熱の入れようで足繁く通ったという。
そんな奇跡的な出会いを創った銀座の店とは、銀座8丁目、江戸時代に能の金春流が屋敷を拝領したことからその名が付く「金春通り」。そこに小さく暖簾を出す「東哉」(とうさい)である。
1917年から京都に窯を構える「東哉」が銀座に店を開業した1936年頃は、銀座8丁目の金春通りには老舗の料理屋や新橋芸者衆の町屋があふれていた。薄造りで色のあでやかさと気品を兼ね備えた東哉の器は開業当初より一流料亭からも引っ張りだこ。皇室御用達の時期もあり、器としての格が高いと云うのも評判の理由だった。出かけた料亭ではじめて東哉の器に出会った小津は、自分の美意識の琴線に触れる器だと唸ったと云う。そして料亭の女将に「ぜひこの器屋の店主に会いたい」と強く頼み込んだ。
店主の名は「山田東哉」。自ら器の製作を手がけ、器を中心にした日本の食卓、しつらえのあり方に深い造詣があり、陶芸の傍ら銀座の店ではご贔屓筋に器談議を熱心に披露していたと云う。現在の松村女将(長女)が、父東哉からよく聞かされていた小津との出会いについて、思い出深い話として次のように語ってくれた。
▪️小津作品に影響を受けた人々
東哉と玉三郎
小津に限らず東哉の美しい器に魅せられる人は少なくない。歌舞伎役者の五代目 坂東玉三郎(大和屋/女形/人間国宝)もその一人だ。ある受賞記念で進呈された特注の湯呑みを見た彼は、上品さと端正さが同居した美しさを持つその湯呑みにえらく感嘆し、その店の名を尋ねた。店名を聞いた途端「あ、これが東哉」と驚いた。というのもその名前だけは以前から気になっていたからだ。玉三郎はかねてより映画監督小津安二郎の大ファンで小津作品のほとんどは観ており、そして、映画のエンドロールに「東哉」という名を見つけては、作品を小物で引き立ているその名店に心奪われていた。思い募って、直接店を尋ね、「私共歌舞伎役者が使う化粧前(化粧のおしろい等を入れる器)は厚手の白瓷で洒落たものがないので、絵付けをしたいいものが欲しい、何とかお願いできないか」と懇願したと云う。店主は喜んでその依頼に応じ、彼の要望を聞きながら、いくつものデザイン案を示しながら心行くまで美意識をすりあわせ化粧前(揃え7個)を完成させた。7個揃えというのは、男形は11個、女形には7個必要と決まっているからで、地肌は3揃絵代わりで制作された。その内の1点をレプリカで拝見したことがあるが、深緑と白の市松模様を受け皿に、蓋は金地で円ラインに沿って桔梗がたおやかに描かれている、それはそれは美しいつやのある器であった。その化粧前が評判になり、今では他の歌舞伎役者たちも東哉の化粧前を使用していると聞く。気品ある薄焼きと流麗な焼き付けの美しさは歌舞伎界に今も語り継がれていいて、小津安二郎の美意識がこんなところにも、と驚かされる。
TV の脚本家や俳優たち
「時代を写すメディア」にテレビドラマを変えた
昔の日本人の生活を描いた古い日本映画、という印象を持たれる小津作品だが、現代の私たちが目にするドラマなどに脈々とその美意識が残っている事に気づかされることがある。
核家族時代の新しいドラマの礎を作った脚本家・山田太一が「極論をいえば、日本人なら誰でも・・孫の世代までもが小津さんに何らかの影響を受けていくと感じます」と、テレビドラマに小津監督の魂が注ぎ込まれている事を指摘している。そういう意味で小津時代から変って来た日本の家族像を、核家族が増え、親と別居する夫婦が主流になった日本の家族の姿をオマージュとしてテレビドラマ「岸辺のアルバム」(1977)という作品に残したと雑誌インタビューで語っている。このドラマは、私たちが失いかけている家族像を切り取ったという点で、社会に衝撃を持って受け入れられた。
そして小津映画と云えば淡々とした家族映画だけと思われがちだが、実は喜劇や社会派映画、ドキュメンタリー映画も制作している。
俳優・堺雅人が自ら弁護士役を超早口で演じた「リーガルハイ」(2012)は、小津映画を観て役者の表現方法として映画から感化された事を雑誌取材で話している。
『余り知られていませんが、実は小津監督はギャグマンで、ギャグ満載の作品「淑女と髭」やナンセンスな「お早う」等の作品を観て、笑いの神様が微笑んでしまった!と感じました。その影響で早口表現をするようになりました』
堺雅人といえばドラマ「半沢直樹」(2013)は、社会派ドラマとして国内に一大潮流を形成したが、これも元を辿れば小津作品の会社ものが発端といわれている。「大学は出たけれど」(1929)では、企業の粋な計らいを描き、「東京の合唱」(1931)では、正義感から社長に反抗し解雇される人物が主人公、「生まれてはみたけれど」(1932)では上司に頭が上がらないサラリーマンの悲哀を描いている。そこには社会状況や人物の設定が違うとはいえ、すでに「半沢直樹」の世界が横たわっている。
最後に、小津監督の素顔に触れるエピソードを少し。監督自身の暮らしの中にも、人間臭くて、それでいて美しい生き方を愛した、特有のスタイルが漂っていたようだ。
《エピソード1 》 小津のおしゃれ
白いシャツを美しいと感じさせる「人間」かどうか
よくいわれる「白いシャツはおしゃれ」、と云う事ではない美意識が小津にはあったようである。小津の映画の中の人物たちを細かく観察すると、モノクロ映画ということもあるだろうが、主人公の女性に白いブラウスを着せて清爽な感じを際立たせている場面を良く目にする。あるいは脇役の友人や男友達にも白いシャツがちりばめられている。想像するに、彼には先に『白いシャツ』は美しいと云う美意識があって、それを感じさせてくれる『所作』だったり、『生き方』が登場人物にあることが重要だと考えていたのではないだろうか。つまりファッションと云うより、着る人がどんな人物なのか、白を美しいと感じさせる人物なのか、そこまで考えて身に着けさせていた様な気がする。まばゆいばかりの美しさの原節子に見とれながら、そんな美意識が根底にある白いシャツから私たちは、日本の良い所や美しいところを再認識することができるようになったのではないか。日本人の日常を淡々と描いている小津作品だからこそ、観る者の目にハッキリと感覚としてその事が届くのかもしれない、そんな風に思うのである。
《エピソード2 》 小津の趣味
お酒好きな小津は、銀座の老舗BAR「ルパン」の常連だったという。
グルメ好きな小津の好物は、鰻(野田岩)、とんかつ(蓬莱屋)、天ぷら(おかめ)、鳥鍋(ぼたん)、ラーメン(海員閣)。気取った料理を嫌い、そのものの味をズバリと楽しむタイプだったと伝えられる。
おわりに
小津安二郎の御陰で私たちは、まだ日本の暮らしの美しさの片鱗が残っていた時代の日本人を垣間みる事が出来る。小津時代以降に日本が突入する高度成長時代の鉄筋コンクリート文化。江戸時代から明治維新にかけて日本文化を一掃して西洋文化に舵を切った潮流と同じように、木からコンクリートへの日本文明の変化について、私たちは何を得て、何を失ったのか、大いに考えさせられた。
銀座で一世を風靡した映画街は、今は消滅した。映画文化がシネコンに取って変わり、今やインターネット動画配信サービスNetflix(ネットフリックス)など自宅で映画を観るという人が増えつつある時代になった。そして、アカデミー賞候補作の半分強がNetflixの制作映画で、ハリウッド映画は数えるほどになったことが、巨額を掛けずに制作者の意図を知恵とセンスだけで伝えるという映画製作の手法が今や主流になっていることを伝えている。実際、今回の93回アカデミー賞作品賞に輝いた「ノマドランド」もNetflixオリジナル作品で、ほとんどドキュメンタリー映画かと思わせる台詞の少なさや抜きん出た映像美、そして時代を映した人間の内面がそのまま描かれた映画である。「これを撮りたい!」という女性監督の情熱のままに創り上げた映画である。小津監督がいたら、この映画を観て「この意を得たり!」とばかりにニヤつくに違いない。
現在の銀座で名画座の名残を残すのは、国内外のこだわりの作品を上映する「シネスイッチ」1館のみとなった。今でも銀座4丁目山野楽器の裏通りにあるこの映画館の前には、人気の作品がかかると老若問わず映画好きの女性達がチケット売り場に列をなす。映画の耀きを思い起こさせてくれる貴重な映画館は細々としかし確かに、コロナ禍を迎え撃ちながら今でも銀座に文化の根を張って生き延びている。
2 能のこころ/観世会定期能(2021.6.6)in観世能楽堂
「海士—懐中之舞—」 坂口貴信師 能舞台レポート
© 観世能楽堂
能の楽しみ方は時に応じて千変万化。舞台上で繰り広げられる世界を、その時々、様々な視点での解釈や自分の創造力を駆使して体感する事ができる芸能です。
今回演じられた観世会定期能「海士」は、とりわけ大きくその要素を含んでいたようです。それは、この作品が世阿弥時代よりも大変古い時代に創作されたもので、当時はお寺が仏法の利益を説くために一般庶民に向けたものだったこと、それゆえ、世阿弥の創り上げた夢幻能理論作品とは異なる素朴さ、分りやすさが表出していることにあると思われます。
それであるからこそ、一方でこの作品において高貴な世界観を創り出すには高い表現力が求められる訳ですが、今回シテ方を勤められた坂口貴信師の抑えた演技「静」の中に心情を色濃く映し出す演出・演技力が一層光る舞台となりました。
観世会定期能は、観世宗家・観世清和師が主催するとりわけ格の高い能公演です。観世流において宗家がその技能と高貴さを認めた選ばれるべき芸をもつ能楽師だけが出演を許される舞台です。このほど若手としては一番乗りで出演を果たしたシテ方 坂口貴信師の能「海士 ー懐中之舞— 」の公演の模様をレポート致します。
▪️能「海士」ものがたり
奈良時代。藤原不比等(ふひと)《淡海公(たんかいこう)》の子、房前(ふさざき)の大臣が主人公の物語である。亡母を追善しようと、讃岐の国[香川県]志度(しど)の浦を訪れる旅から舞台は始まる。
志度の浦で大臣一行は、ひとりの女の海人に出会う。一行としばし言葉を交わした後、海に入って海松布(みるめ)を刈るよう頼まれた海人。そこから思い出したように、かつてこの浦であった出来事を語り始める。淡海公の妹君が唐帝の后になったことから贈られた面向不背(めんこうふはい)の玉が龍王に奪われたが、房前の母は、我が子を藤原氏の嫡子とする事を条件に、龍王の棲む龍宮のある海に潜り自らの命と引き替えに玉を取り返したのだった。淡海公が身分を隠してこの浦に住んだこと、淡海公と結ばれた海人が一人の男子をもうけたこと、そして子を淡海公の世継ぎにするため、自らの命を投げ打って玉を取り返した心情……。玉取りの様子を真似て見せた海人は、ついに自分こそが房前の大臣の母であると名乗り、自らの思いをしたためた手紙を房前に渡すと、海中に姿を消してしまう。
房前の大臣は手紙から、冥界で女性だから成仏できないで助けを求める母の願いを知り、志度寺(しどうじ)にて十三回忌の追善供養を執り行う。法華経を読誦しているうちに龍女(りゅうにょ)となった母が現れ、さわやかに舞い、女人成仏の奇跡が起きた事を表すのだった。
「海士」をひもとくキーワード
能「海士」の物語は『海女の玉取伝説』として絵本にも描かれるほどに分り易いとはいわれるが、そこに流れる哲学や歴史に触れるとさらに舞台の醍醐味を味わうことのできる作品である。登場するキーワードをご紹介する。
▪️変成男子(へんじょうなんし)
この物語には、「変成男子」と云う難解な仏教哲理が横たわっている。日本の古い仏教の教えでは、女性は成仏しにくいものとされ、その女性が成仏するためには、まず龍女となり、それから男子となってやっと成仏できるとされていた。
女人→龍女→男子→化身 これは法華経の「変成男子」という教えで、《まだ釈迦が存命のころ、ある竜王に娘がいて、この娘は釈迦の話を良く理解していた。ある時娘が釈迦に珠を捧げると、たちまち男子の姿に成り代わり、南方無垢世界に飛んで成仏した》という説話に基づいている。
能「海士」ではこの考え方を取入れ、後シテの房前の母の霊は変身の第一段階【龍女】の姿になって現れる。そして後場の世界では、母の霊は、苦しい冥界(女人)からのがれ、龍女となって法華経の報謝の舞を舞い成仏する。前場の海女の姿からこれらを合わせて3つの場面から成り立っている。
▪️「面向不背の玉」(めんこうふはいのたま)
能「海士」の中に出てくる玉には釈迦像が入っており、いつも顔をこちらに向けているので、面をむけるのに顔を背けないと書いて「面向不背の玉」といわれた。今の大臣・淡海公(藤原不比等)の妹が唐土の高宗皇帝の后になられたことから、氏寺だからという理由で興福寺宛に3つの宝が渡された。
華原磬(かげんけい)、泗浜石(しひんせき)、面向不背(めんこくふはい)の玉であった。華原磬(かげんけい)、泗濱石(しひんせき)の2つは奈良の都に着いたが、面向不背(めんこうふはい)の玉は志度の浦の沖で龍王に持ち去れてしまう。大臣は玉を取り戻す為に身分を隠してこの浦に籠もるうちに、海人の少女と契りを結び、ひとりの子供をもうけた。それが今の房前大臣である。
▪️懐中之舞(かいちゅうのまい)
能「海士」には多くの小書き(特殊演出)がある。例えば「玉之段」では、海士が海に飛び込み龍宮から玉を取り戻す時、乳房の下を掻き切って玉を押し込むのであるが、通常では前シテで鎌を捨ててしまうので、扇を鎌に見立てて乳房を掻き切るという所作になるが、「懐中之舞」の小書きがつくと、途中で鎌を捨てず、最後まで鎌を持ったまま演じ、リアルな演出になる。
【見どころ場面】 体感レビュー
志度の浦への旅路
能の魅力のひとつに能を体感しながら旅風情を味わえるということがある。
出発地の奈良坂を過ぎ、振り返って三笠山をみれば春霞にかくれてみえない、今まさに栄えるわが藤原北家のある岸辺で振り返り、この岸辺から南へ急ぐ。程なく摂津の国の昆陽(こや/兵庫県伊丹市)を過ぎ、日本の始まりの時にできたという淡路島の海路に進む。旅の末に鳴門の沖を通れば、泊まる地も定まらない。その時、海女の小舟の音が響いてくる。
辿り着いた讃岐国(香川県)志度の浦は房前の母が命を落とした場所である。辿り着いて海の方を見るとはるか彼方には、屋島や五剣山の稜線を望むことができる。
房前の一行が旅路を辿る様子が一気に謡で表現される。まさに能ならではのショートトリップの醍醐味で、旅路の映像が目に浮かぶ謡から作品は始まる。
母の霊との出会い
一行の前に現れたひとりの海人(海女)。
「雅びな古典の世界に詠まれた、海人たちの姿。伊勢の海人は月の秋を愛するといい、須磨の海人はかの源氏物語にも描かれたほど。しかしそれに引きかえ、この志度の浦には興趣を添えるものもなく、そんな鄙の里で渡世に明け暮れる、この身の生業の賤しいこと…」。
優しい月の光に照らされて、語る海人(房前の母の亡霊)の声が坂口貴信師の声色によってますますこれから始まる物語の物悲しさを誘い出す。
語られる 秘宝“面向不背珠の玉”奪還顛末
淡海公は、“玉を取り戻せた暁にはこの子を嫡子にしよう”と言い、海人(房前の母)は決心し、ひとり海へと入ってゆく。深い海の底、龍宮に建つ玉塔の中に玉はあったが周りには凶悪な龍たちがうごめく。死を覚悟した海人は夫や我が子を懐かしむと、覚悟を決めて龍宮へ飛び込み、玉を取って逃げ帰ろうとする。襲いかかる龍。しかし彼女が短剣で乳房の下を掻き切り、その中に玉を押し込むと、龍は穢れを恐れて近づけない。そうする内、陸の人々は彼女の腰につけた縄を引き上げ、海人(房前の母)は陸へと帰還した。
「引き上げられた彼女は、もはや虫の息でした。見るも無惨なその姿に、悲しむ淡海公。そんな彼へ、海人(房前の母)は乳の辺りを見てくれと告げます。そこにはしっかりと、光輝く玉が入っていた――」 いま明かされる、房前出生の秘密に思わず声を上げる房前。彼は自らの名を明かすと、母への思いを口にする。
能舞台から飛び出さんばかりの迫力
まさに、「海士」舞台の山場といえる、海人が龍宮から玉を奪い返す名場面。「玉之段」の名のつく謡いどころ、舞いどころとして知られているこの場面での坂口師の迫力ある表現に目が釘付けになる。一振りの剣を持って龍宮に飛び込む躍動感、龍王たちが守る珠塔から玉を奪い取り、乳房の下を掻き切って玉を押し込め帰還する命知らずの勇敢さ。特に目付柱の前、能舞台の先端を有効に使って、面の微妙な、しかしダイナミックな動きで表現する海人(房前の母)の気魄。
特別な型や謡が重なり、子を守る使命に燃え、命を投げ出す海人(房前の母)の燃える表情。
一場面ながらこの一点の見どころの為に、今日の舞台はあるのだと思わせる、感動的な瞬間を体感することができた。
母の変化 静かなる早舞の妙
早舞には「遊舞の舞」とともに「菩薩の舞」があると聞く。まさに今回の能「海士」は、浮かばれずに現世を彷徨う母の亡霊〜供養による龍女への変身〜成仏を遂げて菩薩へと生まれ変わる、という母の変化のそれぞれの段階が強調されていた坂口師の表現。以前3月に演じられた「融」の華麗な舞とは根本的に異なる静の早舞は、抑えた演技で静寂さえ感じられる見事なものだった。
救われ往く身を喜び、法華経の功徳を讃えて舞う母の姿。重苦しい親子の別れの場面から最終的に功徳を得るまでにつながる、明るくテンポの良い展開の中で、その母の姿にこそ、法会に集う人々もまた、経典に説かれた釈尊在世の奇蹟を目の当たりにし、経の功徳を確信することにつながったのだ、と想像できるような平穏感、安堵感をもたらしてくれたのだった。
この舞台は、コロナ禍だからこその心の浄化を伴うようにも思えて、有り難い時間を頂いたと感じた。
*「海士」舞台画像は、観世能楽堂バックヤードツアーの「シテ方説明場面」より
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舞台のあとで
2021年4月に築地本願寺・銀座サロン「能楽師直伝 能楽講座」において、坂口貴信師による役柄別「謡い比べ」を受講する機会があった。その中で師は、『「女」「老人」「物狂」は、いずれも演じることが大変難しいといわれる役柄ですが、際立つ特徴があります』と述べられ、それぞれの特徴について3つの演目を選び謡くらべの形で実演披露してくださった。
その際、「女」役の代表演目として「楊貴妃」を謡われたが、女性らしさを感じる澄んだ高音、時に意思をもつ芯の強さを表現しながらも、総じて美しい楊貴妃の気品を感じる声色が師の胸郭を通して会場に響いた時には、これがプロの声色かと大変驚いた。
今回の能「海士」の房前の母の亡霊役は、そこに子供を手放すことになる母の悲しさ・切なさの心情が加わり、透明度が増していたように感じた。もしかするとこの役は「女」プラス「物狂い」の要素があるのかもしれない、その繊細な女性像と勇敢にも龍王に立ち向かう海女のギャップが能「海士」の大いなる魅力に思えた。最終的には菩薩になっていく女の表現は、また違う次元の難しさが伴うことだろうと推察しながら、新たな能の楽しみ方を満喫した。
(文責:岩田理栄子)
▪️観世能楽堂 能舞台情報
第9回 坂口貴信之會
と き:令和3年9月18日(土)14時開演(開場13時20分) ところ:観世能楽堂(ギンザシックス地下3階)
チケット申し込み →観世能楽堂 観世ネット www.kanze.net
3. 銀座情報/ 観世能楽堂バックヤードツアー配信
ナビゲーターとして観世流シテ方能楽師の観世三郎太師がご案内、ギンザシックス内にある観世能楽堂のつくりや能全般に関する基礎知識などから、普段見ることができない貴重な舞台の裏側映像、観世三郎太氏のインタビューなどを、一部実演なども交えながら紹介していく特別映像です。
見どころは、装束や面を能楽師が実際に着ける所作、緊張の舞台直前シーン、シテ目線で橋がかりを進む体感を味わえる点です。実録として、観世流シテ方 坂口貴信師による能「海士」(本編「能のこころ」レビューとして取り上げた作品)の舞台の様子も紹介されています。
能に触れるのが初めての方にこそご覧いただきたい、能の魅力を分かりやすく解説しているこの番組。気軽にYouTubeでご覧いただけます。
4. 編集後記(editor profile)
最近驚かされた書物に出会った。明治9年、文明開化の波が押し寄せる日本を訪れたフランスの実業家エミール・ギネの日本紀行である。宗教と文化への関心の深かった彼は、近代日本の目覚めを体感するとともに、消えゆく江戸の面影に愛惜を募らせていく。旅の先々で熱心に、土地の物語を探り、その土地の薫りを嗅ぎ、声明(しょうみょう)や三味線の響きに耳を傾け、得体の知れない食べ物に挑み、怪しげな矢場をのぞき、罪人だったと噂される絵師・暁斎(きょうさい)に会いにいく。さらに、寺社では昔日に思いを馳せ、博識の僧侶と語らい、通りでは祭りの熱気を肌で感じ........。まさに五感をフルに働かせて全身で日本を知ろうとした、その記録である。随行した画家のフェリックス・レガメの素描がまた素晴らしく、その美しさは装飾写本のようである。(「明治日本散策」エミール・ギメ 角川ソフィア文庫)
実業家のギメが異国の地まで赴いて知りたかったのは、19世紀後半の社会の中で、大実業家たる彼が抱えていた「いかにして自社の従業員を幸福に導くか」という命題への解決への手がかりを得るためだったという。
明治期に廃仏毀釈の時代の日本に降り立ち、自国の習俗や考え方を性急に手放していく日本人を目にしたことで、ギメは切ない願いをこんな言葉にしている。
やがて忘却の彼方に消え去ってゆくであろうモノたちを拾い集めて記録し、来るべき未来のために日本への置き土産にしてくれたのだろう。万人と知を分かち合おうと博物館、美術館に私財を投じたギメの人道的な精神に応えるためにも、私たちは大いに次世代にこの記憶を活かして行きたいと思う。
本日も最後までお読み下さりありがとうございます。
責任編集:【銀座花伝】プロジェクト 岩田理栄子