月の満ち欠け

朔月の事

新年の「朔」でもあり、
さて一つ、新年の抱負よりも深くアファーメーションを繰り込もうか、
と、きのう「こよみ」を見ていた。
 
「朔」には、
見えないこと以上に、奥行きを感じる。
それに比べ望月は、どこか薄っぺらい感じがしてしまう。
稲垣足穂はたしか、満月をニッケルメッキだと
茶化したように評していたと記憶する。

時々、満月の瞑想とか、満月のイベントと組まれたものを見かけるが、
実はあれはあまり好ましくないものなのだ。
特に、その目指そうとしている精神性に関しては相反する。
満月は避けるべきトキとさえ思う。
 
登り詰めた尖塔の頂点が不安定であるように、
一瞬の最高潮の前後は「過渡状態」と成っている。
 
満月のときにウミガメの産卵やその他の海洋生物の産卵が起こり、
あるいは哺乳類に至っても出産の数が著しく増える。
そういう奇瑞に近い出来事から、
おめでたさ、喜ばしさなどを想像し、
また、十全円満な満月(望)という現象から、
なにかの願掛けをしたくなる気も分からないでもないが、
わたしは、満月に潜む狂気の方を忌む。
 
その最高潮には、秘めて狂えるような苛烈さがある。
思い出してみるが良い。
満月のとき、交通事故は増え、病死者がつらなるのを。
そして、狼男も満月に吠える。
 
昨年2,30時間行った波動学の連続講義で少し触れたようにも思うが、
丁寧に周期現象や波動の把握、その様相の理解を基礎づけてからでないと、
ここで簡単に話してもちょっと伝わりにくいと思う。
 
帯域のこと、位相のこと、波形のこと、
重ね合わせ、ノイズ、倍音や高調波、現象と虚のこと、etc
もろもろ全体像として取らまえていくと、
満月はやはり「際どい」存在と言い得る。

「邪」や「魔」、というわけではないが。
 
まさに「際どい」のだ。
 
だから、狂おしく、危うく、人を惹きつけ、
無防備なものは呼び込まれる。
 
位相を同期させ、ピークに同調させられれば、
サーフィンの波乗りのように特別な高揚に入ることが出来るのも確かだ。
だが逆に、波乗りのように、ほとんどの人間が、
波に振り落とされ波に呑まれる。
それが、満月というものだ。

だから、軽はずみな満月の瞑想は、
本当は好ましいものではないのだ。
満月の瞑想というのは、
「瞑想」の本質を分かっていないからしているのかもしれない。
ファッション的なものか、イベント的なものだろう。
自分や天神地祇に、深く本質的に思いを練る者は、
そうはしないものだ。
 
満月は波乗り、そう翻訳できれば十分だろう。

かたや「朔」は、凪である。

朔に同期することは、凪に収斂することでもある。

様々な周期現象、波動現象の総体の
いくらか特徴的な波動性が、
タイミングを揃えて凪いでいく。
当然、心も。
 
だから、瞑想なり、思いを深めるなり、
物事を始めるなりに適している。

 
きのう、大きな?「朔」があった。
こよみを見て、アファーメーションなり繰り込もうかと、
思ったのだが。。。
 
なんと、すでに、自分の中にあった。
 
思えば、当然のことなのだが、
表面の「我」にも依存してしまうアファーメーションは、
それでさえも、外的、俗世的なものである。
 
わたしは、「朔」に、
自分の抱いていることを確認した。
その確認が、アファーメーションでさえあった。
 
すでに、わたしは自己宣言していたのだ。



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