ニコライ・オストロフスキー『鋼鉄はいかに鍛えられたか』読後所感
岩波文庫の金子幸彦訳でオストロフスキーの『鋼鉄はいかに鍛えられたか』を読了した。オストロフスキーの自伝的作品である本作は主人公・パーヴェルが激動のロシア革命の中で自らがいかに傷つこうとも革命への献身を忘れずに生き続ける物語である。
パーヴェルは神学校を放校になり、幼い頃から労働に従事して生活していた。革命的気運が高まる中、パーヴェルも10代半ばでボルシェビキに共感を覚え、革命運動に深く関わっていく。何度も死線を乗り越え、高熱が出ようが、チフスにかかろうが、限界まで彼は働く。全てはボルシェビキと革命-共産主義の勝利のために。党員になり、同志たちにも認められ、これからという時にパーヴェルの体は限界を迎える。療養と治療を繰り返すも、彼の体はもう元には戻らなかった。最終的に右腕以外体が動かなくなり、両目を失明する。革命への献身が不可能になることは彼には耐えられないことだった。彼は自分にできることを模索し、苦難の中、遂に1本の小説を書き上げ、文学という新しい献身の場を見つけたのだった。
本作はソ連においてかなり人気があったらしく、ベストセラーになった他、3度も映画化されている。ソ連当局にとっても、パーヴェルの人物像は理想の労働者であったに違いない。しかし、だからといってこの作品をただのプロパガンダ作品として片づけることはできない。『ソヴィエト紀行』の中でアンドレ・ジッドはオストロフスキーはソビエト体制に対して批判的であったと述べている。彼の言葉の真偽はともかく、オストロフスキーが体制に批判的であったのは彼の自伝的性格を持った本作を読めば納得がいくものである。まず、パーヴェルは真に革命への献身者であった。彼は革命後も党内に蔓延る反動分子を手厳しく追及し、ブルジョワ的な、すなわち革命の意に反するあらゆる行為を嫌悪していた。だとすれば、革命からしばらくたった後に成立したソビエト体制とは革命の理想を搾取する反動と彼の目には映るではないか?彼の狂信的ともいえる革命への献身は革命後の体制に対する鋭い批判性を有していたといえる。一方で彼の行いは体制にとって回収可能なものであった。本作は体制に愛された、なぜなら直接体制を攻撃するものは何もなかったからだ。いかに本作が革命への献身を説いたとしても、それは革命の成果を独占する共産党への献身へと意味が書き換えられてしまう。パーヴェルの限界はここにある。彼にとっても革命への献身とはボルシェビキへの献身と同意味であった。革命後、パーヴェルは党内改良主義の枠内から脱することができないのである。
一方でパーヴェルの献身はまさしく革命の大義を建設する者としてふさわしいものであった。彼自身、もっと体を大事にすべきであったと言わしめるほど彼は働き続けた。このようなことを可能にしたの革命の勝利のために献身しているという確信であろう。このことが彼の実存を満たした。彼が恋愛においては殆ど大成しなかったのも頷ける。彼にとってそれは大した問題ではなかったのだ。彼の恋愛観は革命の中で変化する。既存のブルジョア的恋愛観は放棄され、同志愛が取って代わる。彼がかつて恋心を抱いたブルジョワ娘と縁を切ったのはまさしくこの観点からであった。人々の多くはこのことを狂気とさえ言うかもしれない。しかし、革命が既成秩序を根本から破壊するものであるなら、このようなことは当たり前どころか喜ばしいこととして認識されなければならない。
最終的にパーヴェルは歩くことさえ困難になり、両目の光を奪われる。革命への献身が生きる意味になっていた彼にとってこれは耐え難いことであった。自殺を考えるまで至るが、生きている限り諦めまいと自分にできる献身を模索する。そして、自身の経験を小説にすることを思いつき、執筆を開始する。これが評価されなければ死ぬと腹を決めたが、結局高い評価を勝ち取ったことで彼は新しい献身の道を歩み始める。ここで注目すべきは、彼が革命へ貢献できなければ自分に生き長らえる意味がないとさえ考えている点である。彼は他人に対してもこの倫理感を求めている節がある。パーヴェルにとって革命の中に実存を見出したのであり、その外にあっては彼は無なのである。彼のその生きざまはまさしく革命を生きる者としてふさわしいものではないか?しかし、ここで1つ指摘しなければならないことがある。それはもしパーヴェルの小説が評価されていなかったとしたら?という可能性を考えなければならないということだ。その場合、彼の言葉に従えば、彼は死ぬのだろう。本作内においても、現実の中でも、革命の中で死んだ功労者は数えきれない。パーヴェルは死に場所を失いながらも、その死者の隊列に加わるを待つだけとも言える。では、他の多くの人々は?この倫理を他に敷衍した時、「革命の役に立たない人間は死ね」という規律さえ成立してしまうのではないか?革命は大義の名における人殺しを遂行しなければならないという点でこれは間違ってはいない。しかし、それは革命を簒奪した権力に利用されるものでは?とまれ、パーヴェルは自己を殺すことはなかった。しかし、彼が自己を殺し得たという事実は現前としてある。彼は自己だけではなく他者の命を奪う可能性に思いを致し、それに対する倫理的責任を引き受けるべきだったのかもしれない。
パーヴェルは革命の中で鋼鉄へと鍛えられた。本作の主題とするのはまさしくこれであろう。その中で振り落とされた者たちがいる。志半ばで死んだ者、革命の理念からの落伍者…鋼鉄が鍛えられる中で、あまたの鉄くずが生まれ廃棄されていったことに思いを馳せるべきなのかもしれない。特に革命を志す者たちは。
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