「表現の自由」についての一考察
※法律上の表現の自由の話ではないことをあらかじめ断っておく。
近年、「表現の自由」についての論争がしばしば起こる。おおよそ「自由」派と「規制」派という対立軸で論争が起きていると認識されており、事実そういう場合も少なくはないだろう。しかし、このような二項対立によって「表現の自由」を理解するのはナンセンスである。「自由」派にしろ、「規制」派にしろ、多くの人が自分たちが正しいのだという信念を有しているように見受けられる。(もちろんそうではない人がいることも重々承知している。)「表現の自由」を掲げるというのは、「正しさ」の次元を超越することでなくてはならない。なぜならば、「表現の自由」は「正しくなさ」を必然的に包含するからである。「自由」派の最もどうしようない人々の中からは「エロ・グロ表現によって現実の犯罪が抑止されている」だの、「表現に影響されて犯罪を犯す人間はそうそういない」といった「表現無罪論」とでも言うべきくだらない言説が飛び出してくる。彼等は表現の罪悪を論じているという点で結局「規制」派と同じである。彼等はこう言うべきだった。「表現は人を殺人、強姦といったあらゆる犯罪に走らせるかもしれない。だが、それが何だというのだ!」現実に影響を与えない表現にはそもそも存在価値がない。そして、影響を与える表現は誰かにとって悪となり得る。(例えば、反軍国主義者にとっての軍国主義的言説、反共主義者にとっての共産主義的言説。)「表現の自由」そのものを語る上では善悪などは意味を成さない。
しかし、「表現の自由」は善悪を超えているといったところで、現実には善悪が存在する。そして、ある種の表現はそれに基づいて制限を受けている。これは表現のヘゲモニー闘争だろう。ある表現に対する批判は常に存在し、それが強ければなりを潜め、弱ければ跋扈するようになる。これは提供される理論のもっともらしさ、伝統的な倫理観などなど様々な要因によって決定されている。表現者はこうした風潮に屈する必要はなく、己の表現すべきものを表現してよい。ただし、それに対して送られる批判を回避しようなどと考えるべきではない。批判は多くの場合はもっともで有り、正しく感じられるものだ。しかし、表現者はそれでも表現しなければならない物を表現する存在である。
「表現の自由」は正しさに依拠するものではない。表現もまた然り、である。自らの表現を望む者は闘争を回避すべきではない。闘争には理論と思想が必要になる。それらを欠いていくら議論したところで出てくる答えなどなく、ただ現実に存在する力関係のみで「自由」が決定されることになるだろう。
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