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日記#1 : フィールドワークがわからない

 このNoteでは、2024年8月下旬から半年間参加するメッシュワークゼミで考えたことや感じたことを記録していく。今回は8月24日、25日の2日間にわたり静岡県三島市で行ったフィールドワークのメモを残す。


1. 合宿前

アポなしの取材
 今回のフィールドワークは、その場での偶発的な出会いやそこでの臨機応変な対応を大切な要素とするため、アポなしが大方針。記者だった時、人モノや連載など長尺の記事を書く取材の際は、あらかじめ段取りをつけておくのが基本だったので、このImpromptuな方針には結構ドキドキした。事前準備として決めた大まかなテーマは「音」。中でも、たまたまテレビの夜ニュースでやっていた三嶋大祭りで演奏される「しゃぎり(三島囃子)」に焦点を当てようと考えていた。アポなしとなると地取り(聞き込み調査)で進めるってことか…キーパーソンにたどり着くまでが大変なんだよなぁ…。
 今振り返ってみると、私は準備段階から既に「人に話を聞くこと」しか頭にない。そもそも「フィールドワーク≒ある場所に赴いて現地の人に話を聞く」と捉えている節もあるかもしれない。ともかく、私のこのフィールドワーク観は、Day1の報告会で見事にひっくり返されることになる。

2. Day1報告会

三者三様、十人十色
 
対面では初めましての参加者8人がフィールドに解き放たれる前、各自が提示していたキーワードはざっくりこんな感じだった。

  • ひとまずカフェで地元の人の話に耳を傾けてみる

  • 子どもの遊びが移行するタイミング

  • 東京にいる人と三島にいる人の違い

  • 困っている人/助ける人

  • 座ること、椅子

  • 食べること、飲むこと

  • 人の相槌

  • 音、しゃぎり

あら、自分は少し決め打ちしすぎているのか…?この時点で、自分の問いの立て方は何だか種類が違うのかもしれないと気づく。他メンバーのテーマからは、人間が生活する中で特段意識していない行動や事柄をもう一度見つめ直して再定義しよう、という指向を感じる。私は「しゃぎりは地域の人々にどんな受容のされ方をしているのか?」「運が良ければしゃぎりの練習に混ぜてもらって、鉦(かね)を叩かせてもらえるかもしれない。実際に聞く音はどんなだろうか」といった感じなので、かなりベクトルが違う。不安を抱えつつ、とりあえず街に繰り出した。

三島市立公園楽寿園内の池。清流の中で揺らぐ細長い葉の水草。
タルコフスキー監督の『惑星ソラリス』じゃん…
楽寿園内にあるふれあい動物園の豚。
泥に塗れるのは、暑い時の体温調節や体表についた寄生虫を落とす目的があるらしい
三嶋大社の売店で見つけた動物たちのエサ。鳩用にエサが用意されているのめずらしくない…?
この後全種類買ってあげてみた

 約4時間のフィールドワークを終え、ベースキャンプの三島市民文化会館に戻る。この間、訪れた主なスポットは4ヶ所(楽寿園、白滝公園、隠れ家バルRAKU、三嶋大社)。しゃぎりの話を聞けた人は5人。しゃぎりに主体的に関わっている人は、0人。やっぱり街の全体像の把握を試みながら一つのテーマについて聞き込みしていくの難しいな、お店に1軒ずつ入って調べる方法に変えるか、なんて呑気なことをこの時点では考えていた。

…参加者それぞれの発表を聞いて、驚いた。ほぼカルチャーショックに近いものがあった。
 1つ目は、必ずしも人に話を聞く必要はないという点。問いを深めたり、違う視点を獲得するには地元の人の話をがっつり聞く必要があると思い込んでいたが、別に重点を「人の話」「他者との会話」に置かなくても問いは変容していくし、深まっていくものなのだとわかった(のちに他者に声をかけ話を聞くという行為において、男性と女性では難易度に差があるといった意見も出た)。テーマによって対象へのアプローチが違うのは当たり前と頭ではわかりつつも、いざ自分とはまったく違う視点・価値観・方法で物事に取り組む存在を目の当たりにすると、その発想に至るまで辿ってきた道のり、その人自身のルーツが気になる。むしろそっちを知りたくなってしまう。

 2つ目は、一か所に留まってみて五感を解放するということ。この方法でフィールドワークをしていた方が複数いた。『動きすぎてはいけない』(著:千葉雅也)ということだろうか…。ひとところにじっと留まり、対象を観察して記録する。そこで新たに生まれた問いを手放さずに転がしてみる。問いが変容していく瞬間を逃さない。書きとめる。
 上記のような方法で、果たして私は問いを深めていくことができるのだろうか。少なくとも、最初に設定したテーマ「しゃぎり」とは食い合わせが悪いように思えた。仕事としてのHunting(狩猟)型取材・情報収集はした経験がある。しかし、Cultivation(耕作)っぽいコレはしたことがないかもしれない。ひょっとしたら、これまでの人生の中で、外から与えられてきた・降ってきた疑問や課題に取り組むことはあっても、自分の内側から湧きでるちょっとした違和感や気づきを大切にして流転する問いに育てていく訓練は怠ってきてしまったんじゃないか?
…狩猟採集から稲作農耕に移行した時代の人の中に、変化に戸惑った人は絶対いただろうな。今ならその気持ちがわかる気がする。

こんな感じで、三島の街のそこらじゅうから湧きでる富士山の雪解け水のごとく脳内に溢れ出した疑問に混乱したまま、記念すべきフィールドワーク1日目は幕を閉じた。つづく。

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