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新るなすぺ楽屋裏・番外「恨みと呪いのメカニズムから考える幸福論」

「妻に激似の姿で、麻雀配信をしている人がいる。もしかしてこっそりVtuberになったのではないか?」

今だから言える話だが、こんなとんでもない勘違いをきっかけに、雀魂プレイヤーを中心とした私の交流関係は一気に広がった。運良く優勝出来たBCC杯をきっかけに旧Fリーグ4期でるなすぺの面々と知り合い、チームの垣根を越えて多くの人と交流する中で、雀魂のプレイヤーに限らずたくさんの麻雀好きと知り合うことが出来た。これは間違いなく2022年の自分の活動のメインストリームとも言える出来事で、関わってくれたたくさんの人には感謝を尽くしても足りないくらい、充実の一年となった。
さて、そんなたくさんのうれしい出来事があった2022年の中で、あえて最後の記事として書きたいのは、どうしても今年のうちに書いておきたかった、人間関係のトラブルに関しての話である。


以前、下記の私の父の話を記事にまとめた時にも書いたことだが、人間は本能のレベルで、恨みを抱え、復讐することに対して大きなモチベーションが生まれるようにプログラムされている。

これは報酬の多寡を用いた思考実験でも明らかになっていることであり、自分が大きな恨みを抱えている人物が大きく損をするならば、自分が多少損したとしてもそれを望む、という人間は思いの外たくさんいるのだ。
私はこの情動のことを「呪い」と呼んでいる。本人が望む望まないに関わらず、誰かに恨みを抱いてしまった瞬間に、呪いは生まれているのだ。
損得だけで考えれば損にしかならないと誰もが分かるのに、それでもこういった思考に陥ってしまう要因については多くの研究が為されているが、特に昨今のSNSで散見される過剰なまでの他罰感情は、自己の否定が根本的な要因としてあるのではないか、と私は個人的に考えている。

お前さえいなければ、私はもっと幸せだったはずなのに

お前のせいで、私の人生は滅茶苦茶だ

本当は、こんな私じゃないはずなのに

本当は、こんな人生じゃないはずなのに

強烈な怨嗟に常に付き纏うものは、自己を否定する感情だ。現状の自己を拒絶し、自分に危害を加えた者や自分が恨みを抱く対象への復讐心を維持することで、「本来の理想の自分」を保とうとする。
「本来の自分がどうであったか」という議論は論理的に考えればまた別の話のはずだが、明確に自分に対して不利益があった事象を以て「これが全ての元凶だ」と断罪してしまえば、自分の責任で自分が不幸になっているかもしれない、という可能性を追求せずに済むという点は、客観的に見れば不幸を増幅しているようにも見えるが、根本的な部分での自己否定を避けられるという面である種合理的な行動とも言えるかもしれない。

さて、少し話の角度を変えるが、前述した「昨今のSNSで散見される」という前置きは、これが爆発的に増え得る環境が現状で整備されてしまっているという状況を指して書いている。簡単に言えば、一般人が容易に自分の意見を発信する環境が有ることで「疑似的な成功体験」の供給が為されてしまっている、という点が大きいと私は考えている。

例えば、簡単な事例で書くと芸能人の不倫が典型的だと思う。
私は、この国の基本的な制度(一夫一婦制)を一般倫理として解釈することに特段の異議を唱える立場では無いが、こと私人の不倫に関しては最低限その当事者間で話し合い、もしくは係争の上で解決すれば良いと思っているし、一般に、責任を負う側が金銭的にも相応の負担を受けるものであると解釈している。堅苦しい書き方をしてしまったが、要は、例え相手が有名人であっても外野がガチャガチャ騒ぐ話ではない、と考えているのだ。

しかしそれでも人は騒ぐ。自分にとって大きな利害があるわけでも無いが、話題としてポップなのと、概して言えば「自分が騒ぐことで人が不幸になっていく」ことは自分の正義を補強してしまう事実であるからだ。事実、人が騒ぎ過ぎるせいなのか、コンプライアンスを重く扱う世の中になったからなのか、不倫報道があった芸能人の扱いはこの数年かなり重たくなった。実質的に地上波では露出が全くなくなってしまった人間も多く存在する。私は世の中のスタンダードがそうなっていくことに対しては反対する立場には無いが、社会的な現象としてはあまり良い影響が無いだろうな、と感じている。

「自分の正義に反するものを叩き続け、結果排除に成功した」という感覚は、個人的な体験に応用される可能性があることは想像に難くない。怨嗟の感情を維持する原動力となってしまうだろうし、それがSNS上のみの関係性であれば排除が成功するまで攻撃を続ける、というモチベーションにも成り得るだろう。

「(例え本来はどんな逆恨みだったとしても)私が正義だ」
「彼/彼女が悪だ」
「悪を排除するために、私は私の労力を割いて行動するのだ」

そう、客観的に見たらどんなに歪んだ思想であっても、本人にとってはSNS上での過剰な粘着や攻撃は「正義」であることがほとんどなのだ。だからこそ、「悪いことをするな」という声は届かないし、何ならそれを言ってくる人間は彼らにとっての「悪」でしかない。そして、運悪く粘着と攻撃が「成功」してしまい、相手を排除して「正義」を為してしまった後に気付くのだ。

その先には、何も残らないと。

「あいつのせいで」不幸になった自分を否定するために、攻撃し続けた結果待っているのは、紛れも無い、疑う余地の無い虚無だ。

報復の先に幸せは待っていないし、強制的に呪いから解放された先には、覚悟無しに否が応でも自分の人生と向き合わなければならないという現実が待っている。今現在怨嗟の念に心が搦め取られてしまいそうになっている人、メンタルが弱っている人はここだけでも強く覚えていてほしい。最後の力を振り絞る時にやるべきなのは、拳を振り上げることでも、自分を傷付けることでもなく、ただ話を聞いてくれる、信頼出来る人を探すことだ。肯定も否定もしてもらわなくて構わない。ただ話をするだけで、思考が整理されて前を向ける、ということは数多くある。

さて、そんな話を書いてみたところで、復讐に走ってしまう人間が一定数存在してしまうという事実は変えられない、ということもまた真理である。

では、自分はどうあるべきか。それが今年最後に書こうと思ったこの記事の主題である。


力が欲しい。復讐への加担ではなく、人を怨嗟の念から解放する力が。そんな大それたものじゃなくてもいいのだ。ムカついた時にはとりあえずこいつに話を聞いてもらおうとか、暇な時に気軽に遊べる仲間の一人とか、そのくらいの存在で充分だ。そのくらいに説得力のある話が出来るようになりたいし、他人の感情や思考を受け入れて包摂出来る、器の大きな人間になりたい。

誰かを幸せにする、と言葉に出来るほど思い上がってはいないが、呪いから解放されて前を向こう、自分が望む人生を歩もうと思った人が、前に進む時に傍で話を聞けるくらいの存在では在りたい。そう強く感じる一年だった。

何の誇張も忖度も無く、今は本当に人に恵まれた環境に居る。この人と知り合えて本当に良かった。そう思える人が何人もいるし、その恩義に報いるためには、自分も誰かにとって「この人と知り合えて良かった」と思われる人間になることしかないと考えている。綴り切れない感謝と共に。また来年多くの人と出会って、楽しく麻雀を打ったり食事をしたり、仲間が大会で活躍する姿を一緒に応援したり、深夜にどうしようもない愚痴を言い合ったり、多くの感情を共有出来ることを祈って、2022年の振り返りとしたい。


答え合わせという名の蛇足
さて、本文はここまでとなり、この先にはテキストは何も書かれていないのだが、冒頭に書いた「妻に激似のVtuberって誰だ」という答えが知りたい奇特な人間向けに有料ゾーンに画像を2つほど貼っておいた。DJ活動時代のアー写(イラスト)と実写のDJブースを映したものだが、私が誰を見て勘違いしたのかは界隈に近しい人であれば一発で分かると思う。「別に答えは気にならないけどお年玉」という名目で買ってくれても全然いいよ。

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