見出し画像

るなすぺ楽屋裏最終章「君が背伸びして覗いた先が、どうか光に溢れた世界でありますように」

まえがき

ポストでも告知した通り、3期に渡って参加したΣリーグを離れることを決めたので、恐らく最後のるなすぺ楽屋裏(番外編があるかも)となるはずである。みなさまご愛顧ありがとうございました。
さて、今回のテーマはかねてから私が勝手に掲げている「るなすぺは育成枠箱推し」の舞台裏、というか私がこのリーグでやりたかったことの根源みたいな話である。

優れた環境は、自由の制限と同義である

これは最近の麻雀を取り巻く環境に関する個人的な雑感なのだが、なんか、なんとなく昔より勉強の敷居が高く感じないだろうか?いや、本当の入り口、すなわちルールすら知らないような層に対してのアプローチは昔に比べると広がっていると思うのだが、少し慣れてきて、じゃあもっと上手くなってやろう、と思った時に辿り着く座学の窮屈さと言った方が正しいだろうか。良くも悪くもちゃんとレールが敷かれていて、真っ直ぐ強くなることを是とする世界にすぐに辿り着けるようになったと感じている。
強くなることに一直線とでも言えばいいのだろうか。いやもちろん、全然それは悪いことではないし、それを望んでる人もたくさん居るのはもちろん分かっているのだが、寄り道すら許されない空気感はなんだかちょっと息苦しいな、という感覚が、個人的にどうしてもぬぐえなくなってきた。そして私はぼんやりとした疑問にぶち当たった。

「最短」とは果たして常に「最適」なのだろうか。

これに関しては後程自分なりの解を記しておこうと思うが、先に少し話を進めよう。私はこのΣリーグ総体の中で、私個人にとって一番大事だった要素が育成枠というシステムだったと感じている。そもそも私設リーグなんてものに一体どんな意義があるのか、という話からになるのだが、はっきり言ってしまえば賞金も賞品も無い、ただ愛好家が集って戦うだけの私設リーグは、括りとして言えば身内のお祭りみたいなものだ。要はサークル活動を少し派手に装飾してるくらいのものなので、本質は「自分が楽しい/自分たちが楽しい」であるべきだし、実際私はそこをかなり重視していた。そしてめちゃくちゃ楽しかった。そこに関しては戦ってくれた相手にも味方にも最大級の感謝を伝えたい。

ではそんなただの身内のお祭りに、意義みたいなものがあるのかなということを改めて少し引いた目で見てみると、育成枠のシステムこそが、対外的に存在するための大きな鍵だったのではないか、というところが個人的な所感だ。どんな目的を持ってΣリーグに参加するかはもちろん人それぞれで、厳しい環境で最短で強くなることが目標というケースももちろんあるだろうし、関係性を強化することが大きな目的のひとつ、というケースもあるだろう。となれば育成枠の「成功」は当然にして人それぞれターゲットが変わってくるので定量化が難しいのだが、「失敗」の定義は明確だと思っている。
それは何かといえばもう自明で、麻雀を辞めてしまうことだ。

逆に言えば、これは完全に持論だが、入った時より麻雀が好きになってシーズンを終えてもらえたら、長期視点で見たらそれはもう全部成功だろう、という気もしている。技術的な上達なんて、強度の高いモチベーションさえあればそう難しい話ではない。極論になってしまうが、ここまで座学できる環境が整備されている現代では、「麻雀を教える」という工程で他者が出来ることなんて、本当に限られている。モチベーションが高ければ独力の座学で足りてしまう部分が多いし、逆にモチベーションが無いと他者が何をどう頑張っても上達はしないのが麻雀というゲームである。思考がここまで至ったところで、私は先にも書いた「最短」は常に「最適」なのだろうか、という疑問に答えらしきものが見えてきた気がした。それは、

真に「最適」な学習環境・成長環境に於いては、それが即ち当人にとっての「最短」である

という解である。わざわざ堅い言い方をしてしまったが、噛み砕いて言えば、「モチベーションが高く維持できる環境」の学習強度がどのくらいなのかは人によって違うので、もしかしたら回り道に見えるようなルートでも、その人が納得して進めるならそれが一番速いみたいなこと結構あるよね、という話である。

以前書いたnoteの中に、こんな一節を書いたことがある。

何を目的に麻雀をやるかは人それぞれなので、特にそこに関しては言及するつもりは無いのだが、もしこれを読んでいるあなたが麻雀の能力向上を第一に考えていて、少しでも早く成長したいのであれば、「自分のスタイル」みたいなものは早い段階ですっぱり捨てた方が良い。

最近うめちゃんも動画で類似したテーマを扱ってくれていて、この本旨そのものは今でも疑ってはいないが、最近になって、「モチベーションが保てる範囲の一時的な誤りは許容して良いのではないか」とも思うようになった。要は、やりたいことを一旦やってみるのは、それはそれで成長の一環かもしれない、という話である。もちろん、これを言うだけで本質が伝わる柔軟で要領の良い人もたくさん居るので、世に発信しておくことも間違いではないと思うが、押し付けるほどじゃないかもしれないな、というのが最近の個人的な感覚だ。

突然フラッシュバックした鉄拳days

実は、自由を優先した方がモチベーションが続く時期って、確かにあるよね、と最近個人的にもふと思うことがあり、もしかしたら「すぐに結果が出る学習の仕方」は万人に向いているわけではないのかもしれないな、と改めて感じるようになった。自分にも似たような経験があったことを思い出したのだ。

大きく話が脱線するが、14年ほど前、私は鉄拳という格闘ゲームにドハマりしたことがある。3D格闘ゲーム特有の、と言えばいいのだろうか。2Dの経験が無いのでちょっとわからないが、「読みを外された時のやってしまった感」「読まれて浮かされた時の不快感」などちょっと他では味わえない、突発的な激情を催す強烈なゲーム性の虜になってしまった。堅苦しい書き方をしたが、簡単に言うとこんなに台パンしたくなるゲームは他に知らない。F微有利から削りの下段を出したところにジャンステをパナされて浮いた瞬間の吐き気、壁際で見えない下段をひたすら擦られてそのままKOされた時の体温の上がり方、その全てが不快だった。
最悪の紹介の仕方から入ったが、当然うまくいった時の快感も強く、読みに勝って完璧な試合運びが出来た時、痺れを切らして暴れてきた相手を横スカから浮かせた時、相手の顔が歪む姿にこの上ない興奮を覚えたものだ。変態っぽいのでゲームの紹介はこの辺にしておく。

さて、その鉄拳でどんな経験をしたのかという話だが、私はメインの使用キャラがザフィーナという変則的なキャラクターで、とにかく動きが変、という異常性の虜になってしまった。通称土下座と呼ばれるモードタランチュラをはじめ、初見では何をしていいかわからないくらいのわけのわからない多彩な技を持っており、しかも使用人口が少ないので対策がされにくいという特性があった。そんなザフィーナだが致命的な弱点もあった。これを言ってしまったらおしまいみたいな話なのだが、基本性能が全体的に弱かった。出た当初はそれでもまだ尖った強みがあった。レヴィアタンという立ち途中RPの浮かせ技がとにかくよく潜る。仮に相手のアッパーとかち合って、多少遅れたとしても序盤数Fで下段並の低い位置に沈むのでカウンターでこちらが入るくらいだったのだが、何故か元々最弱キャラなのに下方修正されて潜らなくなってしまい、もはや「わからん殺しが正着」と言われるくらいまで弱体化が進んだ。

そして同時期に出たレオは高い性能の王道の立ち技、そして金鶏独立からのトリッキーな派生というバランスの良い強さで、同じく同時期に出たボブは、ゲームブレイカーと言われるくらいの最凶キャラ。とにかく右アッパーと下段の二択だけで勝負が出来てしまうくらいの狂った性能を誇っていた。
私は程なく、ザフィーナで全く勝てなくなった。何をどうしても敵わない、埋めきれない圧倒的なキャラ性能の差。仕方ないか、と息抜きで触ったボブで簡単に勝てはじめてしまった時に、私は急速に鉄拳への情熱を失った。
「もしかしてキャラ性能ゲーだったのか?」
それまで目を瞑っていた現実を自分で暴いてしまった気がして、酷い自己嫌悪のような感情に陥った。そう、私はそれでもザフィーナで勝ちたかったはずなのだ。納得してなかったし、まだまだ下手だった。もっともっと上位の段位にザフィーナ使いも(本当にごく僅かながら)居た。なんとかなったはずなのだ。
納得いくまで練習して、それで壁にぶち当たってから諦めれば良かったな、と今でも思う。レヴィアタンからのコンボも、最後まで理論値からはやや安い組み合わせを選択していた。理論値のコンボは浮いた後の拾いが極めてシビアなタイミングな上に、9LPというあまり使わないレバー運びだったのもあって、3LP3LPで繋げる安定択を好んでいた。いくらでも自分の努力で改善出来たのだ。

自分が好きだと思ったことを、ただやれば良かった。本当にそれだけの話だったのだ。別なキャラで勝てたとして、それがモチベーションに繋がるわけではなかった。別にいいじゃないか、好きなことをやって勝てなくとも。勝ちたいと思った時に他の手段を考えればいいし、「好き」が続くなら勝つことが絶対的な正義ではない。

背中で語ることでしか伝わらないもの

さて、見返したら鉄拳だけでかなりの文量を書いていたので本論に戻ろう。
そもそもの話として、これはもう感覚的な話で全然理解されなくてもいいかなと思っているのだが、凡そゲームというものは「傍流」が消えると、「主流」自体も劣化が早くなる傾向にあると思う。ライトユーザーの嵩が全体系の高さを支えているみたいな話に近いかもしれない。全員がコンペティティブに戦っているフィールドはシンプルにユーザー数増えづらい環境になっているのが常だ。世界観や演出で愛されることで拡大を続けるスプラトゥーンのような例外はあるが、それは本当に奇跡のような確率だと思う。
無数の傍流、ライトユーザーの中から「もっと勝てたら楽しいかもしれない」と感じるユーザーが僅かな割合で発生し、高レベルで鎬を削ることで楽しさを得る本流に合流する人が現れる。そうして競技のレベルは保たれるし、寿命も長くなると私は思う。

だからこそ、我々が為せる役目は、その間に立って「戦うことの楽しさ」を知ってもらうことなんだろうと思うのだ。直接教えなくても、ただわけのわからない細かい場面にああでもないこうでもない、と議論することの楽しさ。全力を尽くして戦い、勝つ喜び、負ける悔しさ。その姿を見せることが一番の血肉となるし、「本気でやるのって楽しいんだな」と自然に思ってもらえるのではないか、と強く感じる。

そんな役目、果たして本当に必要なのか?と思われることもありそうだが、これは経験上の話も含めになるが、私は大きな意味があると思っている。

コンペティティブゲームにおけるコミュニケーションは、なかなか外からは入りづらい土壌になっている。特にそこに余暇のほとんどを費やしているトップ層同士の会話だったりコミュニケーションはもうほとんど無駄が無く、大量の中間情報をコンテクストとして捨象してしまって、「結局これとこれの比較でしょ」みたいなところまで純化させてコミュニケーションしているので、「なんでそれがそう繋がるの…?」といった認知の飛躍が起きて、相対的に低レイヤーがコミュニケーションにすら参加できないということが度々起きる。

もちろんそれ自体は全然悪いことではない。二者間のコミュニケーションは当然にしてその二者にとって最適であるべきで、一択になる部分を大胆に捨象するのは相手への配慮でもある。それに勝手に独学でそこに追いつく人もいる。生まれつきコンペティティブなゲームが向いているマインドみたいな人もいて、それはそれで一つの才能の部類だと思うのだが、一人で解くパズルみたいなものよりも、とにかく人と競うことが面白さに直結する、という感覚の人は、勝手に自力で追いつき勝手にそのコミュニティに侵入していく力強さも兼ね備えていたりする。

ただ、人間皆がそんなマインドではなく、中にはハイコンテクストな会話そのものにプレッシャーを感じてしまうようなタイプもいる。何度も言うが良し悪しではない。本当にこれは個性の範疇の話だ。それでも、「何となく怖いけど、あの中に混ざってみたいな」という感情は各々持っていたりする。たとえ同じレベルまではいけなくとも、同じ「質」の楽しさを共有したいと思う。これは人が人として生きる上での本質に近い情動だと思う。

私がΣリーグの中で育成枠で指名したメンバーと会話する中で一番意識していたのは、突き詰めるとここの距離を自然に詰める、という点だったと思う(元々基礎的なことを教える必要が無いレベルのメンバーを指名していたからという前提はあるので、この辺は各々事情が違うと思うし、違って然るべきだとは思っている)。

私が指名したのはぶるちゃんとげんぶ君の二人だったが、そのどちらも共通していたのは非常に頭の回転が速く、ほとんどこちらが言葉を尽くさなくとも、要点を掴むのが早かったという点である。だから私は、自分に一つの決まり事を課していた。それは、その瞬間では一見無駄な事象でも、全ての疑問に対して説明を尽くすということだ。特にげんぶ君に関しては異常なまでに場面の把握能力、記憶力に優れており、ちょっと油断しているとこっちが見落としているような手出しやラグまで全てを見ていた。
だから躓く場面もちょっと独特だった。パッと見は大差押しの場面で、手出しの順序やブロックの想定から危険度の濃淡を考え、「一見押しだけど微妙に降りもありますか?」といった難解な質問をしてくる。ただ瞬間的に勝つためだけなら「手牌価値が高過ぎるから押し」で一蹴しても良さそうなものでも、一通り主張を聞くようにしていた(ちなみに後藤さんも同じようなスタンスだった。あすにゃむやカモメさんはちゃんと実戦に役立つ要素をピックアップしてしゃべってくれるので、我ながらバランスの良いチームを作ったものだと再度自慢したい)。

あえて悪意を目一杯込めた言い方をするなら、げんぶくんはメモリの割き方を大幅に間違っている(現状でも)。勝つことを追求するなら捨象してしまえばいい細部を全て把握してしまっているが故に通常発生し得ない見落としや考慮漏れを招いている側面がまだ多分にある。

では、脳のメモリの割き方を変えて、もっとシンプルに打つように進言すべきなのだろうか?

そうすれば、もしかしたら瞬間的な成績は良化するかもしれない。が、それは「最短で強くなる」ことと同義では決して無いだろうと私は思う。元より、私なんかよりも遥かに上が見えるポテンシャルなのだ。今見えている全てを活かして、もっと瞬間的な判断が出来るようになったら、私では理解できないくらいのレベルまで強くなり得るだろう。それならば、そのルート、即ち現在のげんぶ君が見えている世界に対しての好奇心を閉ざさない形で、ただ思考の補助だけをする方が、きっと伸び代は大きくなる。

私が経験を財産としてげんぶ君にアドバイスが出来るのも、もうあと半年か一年か、その程度だと思っている。その頃には恐らく名実共に抜き去られて、更に一年経過した時にはもう遥か手の届かない存在になっているかもしれない。そうなった時に改めて、チームメイトの力も借りて、少しだけ背伸びして会話に入れるような環境を作れたことが、大きな意味を持ってくれるのだろうなと考えている。そう思うと、突き詰めれば我々のミッションは「動機付け」に集約されていたのだろう。

「お前も指名されたんだから努力しろよ」といった圧迫感のある契機ではなく、大の大人が一喜一憂して叫び声を上げるその様相に、ガチで戦って可能性を追及することの楽しさに、全員が本気でありながら、それでも和気藹々とした雰囲気で更なる成長を目指せる空気感に、憧れのような感情を抱いてもらえたら、それが一番の成功なのだ。自分たちの姿を見て「ガチでやるのめちゃくちゃ面白いじゃん」となってくれたなら、結果的に勝っても負けても、私はこの上なくうれしい。

エンジョイ勢代表の叫び

よく炎上する話に、麻雀のような複数人でプレーするゲームではガチ勢とエンジョイ勢という「意識の差」みたいなものがある。私はこれには昔から大きな違和感があって、そもそもいわゆる「ガチ勢」の中にはめちゃくちゃエンジョイしている人もいるし、ライト層の中に楽しんでない人もいるだろうと思っている。区分がMECEじゃないので、現代企業だと新卒が怒られるタイプの線引きだ。

という前置きは本当にどうでもよくて、ここを二項対立にするのは仮に「ライト/ヘビー」という呼び名だったとしてもよろしくないな、と私は思う。
そもそも、全体系として捉えた時に勝ちに対する姿勢がプレイヤー間で程度の差こそあれ出てしまうのはもう言及するまでもなく当然で、それを許容しなければその生態系でプレーすることが不可能なのだ。だから誰かの姿勢によって自分が損をするようなことがあっても、それを織り込み済みでプレーするか、やめるしかない。マルチバーサスのゲームとはそういうものだ。嫌なら1対1のゲームをやるという方法はあるのだから。

そして、本当はこっちが一番言いたいことなのだが、本気でプレーしている人がエンジョイしてないみたいな呼び方が一番失礼だと思っている。エンジョイしてるよ。本気で戦うのが何より楽しい(個人の意見です)のだから。短期的な成績に一喜一憂せず感情を無くしてプレーするのが一番強い、みたいなことをみんな平気で言うけど、本当に感情が無くなってしまったらこんなに時間の掛かるボードゲームを何度も何度もプレーしない。

麻雀に時間を使ってるやつは、揃いも揃って全員大バカ者である。気の遠くなるような時間を掛けて、出目一つに一喜一憂して、絶叫して、たまに壁を殴って。だからこそ、本気で勝ち負けにこだわってる奴こそが真のエンジョイ勢だろう、と言いたい。技量の巧拙は関係ない。魂込めて、プライドを乗せて打牌しているやつは、皆等しくエンジョイ勢だ。

「本気でやるのって、こんなに楽しいだよ」

こんな短いことを伝えるために、私たちは膨大な時間を割いてこの日々を過ごしていたのだと思う。「私もそうなりたい」と思う人が少しでもいたならば、それは参加者全員にとっての、何よりの成功だ。

結び

改めて、本当に貴重な日々だった。過ごした全てのチーム、全ての期で全然違う色があって、それぞれに良い思い出がある。
人生は一方通行だ。あの日もろみ~に声を掛けてなかったら、あの日ゆっきーがルーレットで負けてなかったら、あの日チームを継ぐと決心しなかったら、という無数のifを乗り越えて今に繋がっている。

この先も、Σリーグを通して出会えた仲間と仲良く遊びたいし、新たにその世界に飛び込もうとする人にも、きっと楽しい日々が待っているように。祈りと今までの感謝を込めて、結びとしたい。

スキだけでもとても喜びますが、サポートしていただけると執筆時に私が飲むコーヒーのクオリティが上がる仕組みになっています。