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The Prophetic Dream

 夢と現実の区別がつかないと感じたことはあるだろうか。夢があまりにも現実味を帯びていて、かつ時間の流れがあった時、疑うまでそれが夢だと気付かない場合がある。気付いても、起きるだけ。そして起きると、何もかも忘れてしまう。覚えている場合もあるが、全部を覚えている人間はそういないだろう。だが、本当に忘れたくないことは覚えている場合がある。『本当に入れ込んでいるもの以外の情熱は、夢とともに消えていく』と『レ・ミゼラブル』にあるように(この文の「夢」はまた違う意味であるが)、愛、欲、情熱などが強いと忘れない夢が、あるいは事実が存在する。
 夜、人間とは並べてキザになるものだ。キザにならない人間は…きっと数学者だろう(そんな数学者に伝えておくが、色恋沙汰に解法はないぞ)。偏見がすぎるが、彼らは夜、月を見ても風情を感じる前に地球との距離を算出したがるような人々だからな。花より団子、と言うやつだ。さて、少々話が脱線したが、これは夜の街にいる"夜の魔力"を感じた人々の物語。私が彼らと接触した経験から話せば、"夜の魔力"は実際にあるし、私はそれを使ってみせた。
 物語は日本の太平洋側のどこかにある巨大都市、通称「夢の都」を舞台に始まる。陽はとっくに暮れ、街の街灯に明かりが灯り、深い紺色の夜空が街を覆い始めた頃…。



柊木少年/「廃ビルの上で」

 「夢の都」…この街は眠らない、と言われている。何故なら、ひしめく電光掲示板やビルの窓、車のヘッドライトが常に光っているからだ。街の中心部は夜でも昼のように明るく、活気に満ちている。こんな街に柊木少年は住んでいた。
 柊木少年は夜の散歩が趣味だった。果たして、これを読んでいる読者の何人ほどが中高生ぐらいの時分に夜中の一時ごろの街を一人で出歩いたことがあるだろうか。親にバレないように玄関の鍵を回し、扉を開けるときの軋みに驚き、しばらく静止して親の様子を探ったことがあるだろうか。
 柊木少年の初めての夜更かし散歩は中学二年生の冬だった。柊木少年は通りを外れたところにあるコンビニでカフェラテを購入し、裏通りの廃ビルの屋上で両手を擦り合わせながら街を眺めていたのだ。当時好意を寄せていた女子生徒のことを考えながら、ほろ苦いカフェラテと自らの恋愛を重ねてみたり、星ひとつなく、ただ半月が浮かぶだけの空を眺め、その月を女子生徒に喩えてみたり。
 さて、開始早々「夜中に人間はキザになる」ということが…証明…されてしまった訳だが、話を続けさせてもらおう。
 こうして柊木少年はそれ以降何度か家を抜け出しては廃ビルの屋上で街を眺めるようになっていったのだった。私と彼が出会ったのはこのくらいの時期だ。
「キミ、まだ中学生なんじゃないのか?」
 背後から声を掛け、柊木少年を驚かせる。
「え、いや、あの…これは…そのですねぇ…」
 誰だか知らない人間に夜中の外出がバレたことの驚きと本人の人見知りのせいで、会話はまるで成り立っていなかった。
「なにしてんのさ、こんなトコで?」
 慌てふためく柊木少年の隣に座り、訊ねる。
「いや、その、えっと、家出、とかではなくて…」
 夜中に家を出て街を一人で歩くほどの勇気はあるのに、他人との会話に不慣れであったりするのはなかなかに面白いものである。
「警察に言ったりはしないから安心しな」
 私は柊木少年が見ていたほうを向き、街を眺めた。ここからだと街の中心部まで遮蔽物がなく、とても綺麗に街を眺めることができるのに気づく。おもわず「ほう」と感嘆の声をあげてしまった。
「綺麗…ですよね。ここから見る街は」
「キミからはどう見えてる?」
 お互い前方の風景から目を逸らさずに話を進める。
「え?僕から、ですか?別に…お兄さんと同じだと思いますけど…?」
「詳しく、文字に起こして伝えてみてくれ。そうじゃないと伝わらない」
「目、見えないんですか?」
 ここで初めて柊木はこちらを向いた。
「いや、そういう訳じゃない。私たちとキミたちとではモノの見え方が違う。お互いのいる場所がまるで違うからな」
「…イマイチよく分かりませんけど、僕から見える風景を伝えればいいんですね?」
 柊木は再び前を向くと、しばらく黙り込んだ。
「…たくさん立ち並ぶビルは街の中央に近づくにつれどんどん高くなり、ビルの照明が窓から漏れてライトアップされたクリスマスツリーのようです。明かりは主に白、黄色、レモン色の三色で、ビルの屋上では赤いライトが点滅しています。まるで…」
「呼吸しているように?」
「はい。…ところどころに派手な色合いの電光掲示板が光っていて、騒々しい街の雰囲気が映し出されています。ビルの足元で点滅する明かりは、ビルの間を駆け抜ける車のヘッドライトかと思われます」
 少しの間の沈黙が私と柊木少年の間を包んだ。
「以上、です…」
 そのぎこちなさに思わず笑みが溢れてしまう。
「『思われます』か。レポートじゃないんだから」
 声を出して笑った。
「仕方ないじゃないですか、僕そんなに国語の評価良くないんですし!」
 最初のうちは顔を真っ赤にして恥ずかしがっていた柊木少年だったが、私につられて一緒に笑い出した。
 まだ息が白い、一月中旬の話だった。空には少し欠けた月が浮かんでいた。

 それから数年後、私と柊木少年は再会した。高校生になり少し大人びた彼は、"少年"と呼ぶには違和感があった。
 彼はその夜も、あの廃ビルの屋上にいた。飲み物はカフェラテからコーヒーに変わっている。
「キミ、まだ高校生なんじゃないのか?」
 違いますよ、と面倒臭そうな声で応えながら柊木はこちらに振り返り、私の姿を見て驚いた。
「またあなたですか」
「また、とはなんだ。また、って」
 柊木の隣に座る。
「もう何年振りですか?」
「私からしてみればキミと最後に会ったのはつい数行前なんだがな」
「数秒前?なんですか、ソレ?」
 ははは、と柊木がぎこちなく笑った。
「最近、何かあったのか?」
「最近ってほどじゃないんですけど…」
「待て、その前に一つ。今お前が見てる夜景は綺麗か?」
 柊木はコーヒーの紙カップを置くと、目の前に広がる夜景を見た。
「…前ほど、綺麗には思えなくなりましたね。なにか足りないっていうか」
「なるほど、充分だ。話を続けてくれ」
 柊木はこちらの方を向いた。
「もうレポートみたいにはしませんよ?」
「そういうわけじゃない」
「相変わらずよく分かりませんけど、僕の話をすればいいんですね?」
 柊木は置いていたカップを手に取りコーヒーを飲み干すと、思い切り振りかぶって投げ捨てた。
「…僕、中学生の頃に気にかけてた女子がいたんですよ」
「月に喩えてた娘か?」
 それまで遠くを眺めていた柊木は急にこちらを振り返った。
「なんでその話を?話してないのに」
「そう書いたのが私だから」
「はい?な、何言ってるんですか。ふざけないでください」
 頬を真っ赤にした柊木は夜中ということもあって大声こそあげなかったが、口調は怒鳴っているに等しかった。
「キミ、夜ってのは人をキザにさせるんだよ。それが正しい思考なんだぞ?」
「…?まぁ、いいです。人に話を聞いておいてなんですか、その態度…」
「そう怒るなって。悪気はなかったからサ」
 柊木はしばらくそっぽを向いたままだったが、少しすると再び話し始めた。
「三年の夏、ようやく付き合うことになったんですよ。でも、秋に彼女が交通事故に遭って。もう会えなくなっちゃったんですよ」
「ふむ」
「なんていうか、しばらくは夢でもみてる気分でしたね。まだどっかに彼女はいて、会おうと思ったら会えるって思ったり。ある時ふと目が醒めて、いつも通り学校の用意をして学校に行けばまた会えるって思えたり。でも…」
 柊木が鼻を啜った。
「…どこに行っても…彼女とはもう会えなくなってました」
「…それはつらいな」
 柊木は目を擦り、ため息を吐いた。
「友人は"また良い人と出会える"って励ましてきたり、気取ったハウツー本には"何かを失う経験を得た"って書いてあったんですけど…。失ったものがあまりにも多いのに、得たものはまるで少なかったんです」
「世は無情、か」
 柊木はまた鼻を啜った。
「まったく、そうですよ。その通りです…」
「…で、キミはどうするんだ?この先どれだけ生きたって彼女と再会はないだろう。夜になれば彼女のことが頭を駆け回り、胸が締め付けられる。今日だってここに来た理由は、彼女を忘れないようにするためだろ?」
「…よく分かりましたね。…色々考えたんですけど、僕はこのまま一人彼女のことを想ったまま生きていこうかなって。…でも」
「でも?」
「ここに来たのは、前に彼女と一緒に来たことがある気がしたからなんです。満月の夜に、桜の木の下で再会して…。そんなこと、今までなかったんですけどね」
「…死ぬ気はないんだな」
「まあ、はい。死んだって彼女とは会えませんし。もし死後の世界があったとしても、神サマは意地悪ですからね。どのみち会わせてくれませんよ」
 柊木の目はもはや何も見ていなかった。繊月が雲に隠れ、あたりが少し暗くなる。
「もし、この世界を作ったヤツが目の前にいたらなんて言いたい?キミの運命を指先で書き換えられるクズが居たとして」
「…そうですね。…なんでこんなことをしたんだ、って。僕じゃなくてもよかったのに。どこかこことは違う場所で偉そうに人の人生をいじくり回しているようなお前にに、僕の人生を滅茶苦茶にする権利なんてあるはずないのに、って…」
「ほう」
「彼女を、返せって言いたいです」
 そこで私はおもむろに立ち上がった。
「よかったな、柊木」
「…なにがですか?」
「キミのいる世界はなんでもできる。時代を変えることも、今いる場所を変えることもできる。魔法が使えるようになったり、空飛ぶ車が出てきたり。そんな世界で願いを言えてよかったな」
 こちらを見上げている柊木は明らかに怪訝そうな顔をしている。
「一体なんの話ですか?」
「キミのいる世界は無情じゃない。奇跡が起きてくれる」
 柊木の横から立ち去り、階段に通じる扉を開けた。
「過去に囚われるのと、過去を忘れないでいることは似ているようでまるで違うぞ、柊木」
 向こうで唖然としている柊木に言う。ドアを閉じ、階段を降りていく。…そう。この世界は無情なんかじゃない。私の世界と違って、奇跡が起きてくれるから。



荒川/「出会い、別れ、そして…」

 「バー・マーガレット」…この街にしては珍しい、静かな雰囲気のバーだ。こぢんまりした店内に三つほどのテーブル席、六つのカウンター席。床板は黒樫で、温かみのある壁も木でできている。オレンジ色の光が店内を満たし、四六時中換気扇の音が響いている。荒川はここに足繁く通う常連客だった。
 荒川は私と出会うつい半年前、三年間付き合っていた彼氏と別れた。なにか慰めを求めて彼女はその日もここに来ていた。
「こんばんは」
 いつも座っている一番奥のカウンター席で、グラス片手に項垂れている彼女に話しかける。
「…あまり、聞かない声ですね。ここの店は、初めてですか?」
 荒川はこちらに視線を向けることなく、話し始めた。
「ああ。いつも行っていた店が閉店してしまってね」
 荒川の隣の席に腰掛け、マスターに彼女と同じものをと注文する。
「…いつもは、どこに行ってたんれすか?」
 荒川の持つグラスの中の氷がカラン、と音を立てて崩れた。腕が僅かに揺れる。
「ここにはない」
 マスターがグラスを目の前に押し出してきた。軽く頭を下げ、グラスを受け取った。
「…ここにわ無いって…、街の外にあるんですか…?」
 酔っている荒川は呂律が怪しく、眠たいのか話し方もゆっくりだ。
「この街がない世界に」
「…この街がない世界に、ですか」
 荒川が顔をあげ、グラスに唇をつけ一口酒を飲んだ。先程まで垂れて顔を隠していた髪が後ろに下がり、彼女の横顔が露わになる。なるほど、確かに容姿は整っていて男が寄って来そうな雰囲気はある。酒で頬を赤らめた横顔には、疲れが滲み出ていた。
「いつか行ってみたいですね」
 私もグラスを持ち上げ、ほんの少しだけ口に含む。
「行けないよ、君たちには」
 荒川はグラスをカウンターに置くと、ゆっくりとこちらを振り返った。
「『たち』?」
 夜も一時を過ぎた店内には、私と荒川とマスターの三人しか居ない。荒川は再び前に向き直り、カウンターの上のグラスを両手で包み込むようにした。
「…面白いこと、言いますね。…名前は、あんて言うんですか?」
 名前、か。考えてなかったな。
「あ〜…」
 荒川がこちらを向く。
「あ〜?」
 こういう時に限ってアイデアとは思いつかないものだ。
「あ〜…らかわっていうんだ」
 荒川は少し驚いた顔をしてみせた。
「アラカワっていうんですか。奇遇ですね。私も…」
「荒川?」
「です」
 ここで一旦会話は止まり、換気扇の音だけが店内に響いた。
「私、少し前に、彼氏と別れちゃったんですよね…」
「すまない」
 そうしたはのは私だが、別れ話や失恋話はなかなか悲しいものだ。
「…なんで、アラカワさんが謝るんですか?」
 ふふふ、と荒川が笑った。
「三年、付き合ってあんですよ。結構、順調で。名前はたしか…」
 また名前だ。…そうだな…灰崎…。
「灰崎…」
 ……健一。
「健一っていうんですよ」
「健一、か」
 荒川はグラスを持ち上げ、一口飲んだ。
「なんていうか、よく聞く名前、ですよね」
「…できれば、思い出話は避けてくれないか?」
 そうなってくると私が面倒だ。
「いいじゃないですか…。聞いてくださいよぉ〜…」
 グラスを片手に持ったままの荒川の顔には、自虐の微笑が浮かんでいた。
「夜は人をキザにするからな」
「ほんと、そうですよね…」
 私のグラスの氷が、カチャと音を立てて崩れた。
「あれは五年前の春でした…」
 荒川は思い出を語り始めた。…今から五年前の春。桜がまだ完全に散っておらず、しかし地面をピンクに染めるほど散っていた頃。土曜日の朝、家の近くにあるカフェでココア頼もうとしたときに対応した店員が灰崎だったのだ。一目惚れだったらしい。それからというもの、彼女はそのカフェに何度も足を運び、灰崎と交流を深めていった。そうして付き合うことになったのだ。が、別れは唐突にやってくる。灰崎は夢を追うべく、ある大仕事のために海外に引っ越すことになったのだ。荒川は灰崎の夢が大切だった、しかし同様に灰崎自身も大切だった。自分の幸せか、彼の幸せか。二つに一つの選択を迫られた荒川は、灰崎の幸せを選んだのだった。
 彼女の飲む酒は甘酸っぱく、どこか爽やかで、しかし物寂しい味わいだった。そんな今日はまだほんのり肌寒い、三月の初め頃の日だった。
「ここには一緒に来たことないんですけど、なんでか一緒に来た覚えがあるんですよね。変な夢でも見てたんでしょうか?」
 荒川は酒を一口飲んだ。

 それから数日後、私は同じ時間帯に再びバーを訪れた。
「どうも」
 前と同じく一番奥のカウンター席に座っている荒川の隣に座った。
「お久しぶりですね〜」
 彼女は酔っていた。
「最近なにかあった?」
「な〜んにも無いですよ。朝起きて、会社行って。残業して、ヘトヘトになって、ここでお酒を飲んで、家に帰る。倒れるように寝てぇ、また朝早くに起きるんです〜…」
 いよいよ疲労がピークに達したのか、荒川はハイテンションだった。
「別れた男とはその後何かあったのか?」
 荒川はグラスを置き、天井を仰いだ。
「なにもありませんよぉ。連絡ももう滅多に取らなくなっちゃいましたし…。自然消滅、ってヤツですかねぇ…。まだ別れてないと思い込んでたんですけど、もうここまでくると無理ですね…」
 遠距離恋愛、憧れてたのになぁと荒川は呟いた。そのまましばらく天井を見つめていた彼女だったが、いきなり「見知らぬ、天井」とポツリと言うと、ヘヘヘと笑い出した。灰崎くんに夢を追わせてすまなかった、と心の中で思う。
「事実は…」
 荒川は再び前を向き、話し出した。
「絶対に変わらないんですよね。この世界が夢じゃない限り」
「…というと?」
「明晰夢、ってあるじゃないですか。この世界が夢なら、そういう力で簡単に書き換えられるじゃないですか…」
「事実を?」
「はい…。夢の中の事実なんて、煙と同じ。現実とはちがってあやふやなんですよ。この世界の事実だって、簡単に書き換えられるものでいいのに…。そう思いませんか?」
 荒川はグラスを持ち上げ、酒を一口飲んだ。
「マスター、注文取りに来ませんね。どこ行っちゃったんだろ」
「しまった、忘れてた」
 荒川がこちらを振り向いた。
「忘れてた?何をですか?…もしかしてマスターのことですか?」
 おかしな人〜、と言いながら荒川は再び酒を一口飲んだ。
「いや、まぁね」
 マスターは店の裏口から店内に入ってきた。左手には瓶を持っている。それを棚に仕舞うと、私のほうに近寄ってきた。私は前と同じく、荒川と同じものを頼んだ。
「もし、この世界の事実が簡単に書き換えられるなら何をしたい?」
 荒川はグラスを置き、しばらく考え込んだ。
「…そうですね…。あの時私が彼を引き留めていて、そのまま仲睦まじく一緒に生活していた…そういう風に書き換えたいですね」
「そうか…。もしそれが一晩だけだったら、一晩だけの事実だったら…荒川さんは次の日からどうする?」
 荒川はグラスを持ち上げ一口飲むと、再びグラスを置いた。
「事実が書き換えられるならこの世界は夢ですよ。だからきっとその夜が終わって日が昇り始めたくらいには自分のベッドの上で目が醒めて、隣には彼がいるはずです」
「なるほどな」
「私、屁理屈と言い訳は得意なんです」
 荒川はへへへ、と笑った。



東雲/「馴れ合いパーティー」

 この街で二番目に高いビルのペントハウスで、その日の夜はパーティーが開かれていた。この街に住むセレブや資本家、有名人や企業の社長が集まっている。
 東雲はここに住む、街を代表する一大資本家だった。口座の金額など下八桁はもはや気にしておらず、ブガッティやランボルギーニなどの車を乗るわけでもなく購入し、このペントハウスだって、この街で一番高いところにある家だからからというだけの理由で値段もロクに確認せず契約を結んだ。
 そんな、望めば大抵のものが手に入る彼の生活でも、決して手に入らないものがあった。友情と、愛情である。彼は孤独だった。その隙間を埋めるべく様々なものを購入したのだが、無駄だった。言うならば空腹をどうにかするために、たくさん息を吸っているようなものである。
 彼が恋人関係にあった女性は過去三人。中、高校生のときの二人と、資本を築いてからの一人。
 シャンパングラスを片手に、ベランダから街を見下ろしていた彼は、高校生の頃の彼女を思い出していた。とても友好な関係を築いていたのに、最後は彼女の浮気という形で締めくくられたものであった。
 大金持ちになってから寄ってくる女はみな金が目的だった。だれも東雲のことを愛していなかった。そのことを痛感したのが、最後に付き合った女だった。
 ことに恋愛事情においてはよい思い出がまるでない東雲は、巨万の富と引き換えに人間関係を失ったと自分に言い聞かせていた。これは仕方のない犠牲なのだと。そうやって無理やり自分を納得させようとしていたのだ。私と彼が出会ったのはそんな彼の開いたパーティーで、だった。
「孤独か?」
 和気藹々とした雰囲気のリビングを背に、ひとりベランダにいた東雲に声をかける。
「決して裏切らない友人はいますよ」
「ほう」
 東雲の隣に行き、私も同じように柵にもたれかかった。
「"お金"っていうんです」
 東雲は手に持ったシャンパングラスに入ったシャンパンをすべて飲み干すと、グラスを近くの植木鉢の端に置いた。
「裏切り者は使う者、ということか?」
「その通り」
 街の中心部に、かつ高所に位置するこのビルからの眺めは特殊なものだった。場所が変わるだけで同じ場所でもこんなにも風景が変わるとは。柊木にも見せてやりたい。
「寄ってくる人間はみな金、金、金…。君自身を求める者はそういない」
「ほんとそうですよ。彼らからしてみれば僕なんて喋る財布。誰も僕を知ろうとしない」
「そんな環境に置かれていれば人間不信になってしまうんじゃないのか?」
「まあ、ね」
 東雲がおもむろにため息を吐いた。なんとも厭世観や疲労感の感じるため息だった。
「でも、それは相手を期待してるからなっちゃうんですよ。ダメージが大きいから、というかね」
「ダメージが積み重なっていくと、いつか人間不信になってしまう。そういう認識でいいか?」
「ええ。…絶望は期待と現実の落差が大きいほど、より深い味わいを持つようになります。だから、最初から相手に期待しないんですよ。相手の考えが良いものなら、それが"まだマシ"なものであったとしてもとても嬉しく感じられるし、逆に酷い考え方なら『予想通り』って思えますし」
「なるほどな」
 三日月が空に浮かんでいる。雲は少なく、星はやはり見えなかった。
「ここから見える夜景、東雲はどう思う?」
「どうって…綺麗ですけど」
「教えてくれないか?ここから見える風景がどんなものか」
「なんでですか?いきなりそんなこと言われても…」
 東雲がこちらを振り返る。
「書くのが面倒なんだ。頼む」
「"書くのが"?…なんか、思っていたよりもおかしな人ですね」
 東雲は視線を戻し、夜景を眺め始めた。
「…街で二番目に高いこの部屋からは、美しい夜景が見えるがビルの光が美しいわけではない。街の夜景は街の外から眺めるべき、というのはあながち間違っていないことを知る、そんな風景だ。ビルのライトといえば、屋上にある点滅する赤いライトがよく目立つ。その赤いライトもある程度街の中心部から離れたビルには設置されておらず、赤いライトがある地域とない地域の境界線が、はっきり見て取れる。境界線のさらに向こうにある街は黄色く光っており、この辺りからようやく綺麗に見えてくる。しかしその光も遠くなるにつれだんだんと暗くなってゆき、やがて真っ暗な闇が街の終わりを示している果てで視線は止まる。車の走る道路は枝のように伸びており、移動するライトは夜中でも街が起きていることを教えてくれる」
 生暖かい風が吹く。東雲の髪が揺れた。
「柊木よりかはマシな表現だな。ここ二つほどでコツを掴んだかな?」
「二つ?なんです、それ」
「いや、なんでもない」
 しばらく私と東雲は夜景を眺めていた。
「君は夜と朝、どちらの方が好きなんんだ?」
「僕は夜ですね。"東雲"なんていう名前ですけど」
「本当だな。東雲なんていう名前だから、てっきり朝のほうが好きかと」
「どうせなら"望月"っていう名前にしたいですね」
「満月になるほど、満たされていないのに?」
「月の明かりは金貨の光、ですよ」
 お互い目を合わせないまま、二人して笑った。
「…今の生活はどうだ?」
「僕のですか?…そりゃあ楽しくないですよ。毎日何千万円、何億円っていうお金を動かして、たくさんのお金を稼いで…。なんのためにお金を稼いでいるのか、もう忘れてしまいました」
「やはりどれだけお金があっても、友情と愛情は買えないのか?」
「買おうと思えば買えるんじゃないんですか?…でも僕はそんなハリボテ、欲しくないですよ。ただ自分が惨めに思えてくるだけじゃないですか」
 東雲は大きく息を吸うと、大きなため息を吐いた。
「もし金で買えない何かを手に入れられるとしたら、何が欲しい?」
 東雲がこちらを一瞬だけ振り向き、再び眼前の夜景を眺め始めた。
「もう一度、高校の頃に付き合っていた彼女と会う権利が欲しいかな…」
「ふむ?」
「どうしたんですか?」
 東雲はこちらに振り返り、右手をポケットに突っ込んだ。
「いや、その女性との関係はその人の浮気という形で終わったんじゃなかったのか?」
「…なんでそのことを?」
 東雲は眉間に皺を寄せた。
「いや…君の高校時代の友人と話をしたことがあってね。そのときに聞いた話さ」
「…?」
 東雲は私がその件を知っていたということに対する疑念を晴らせないまま、再び柵に寄りかかり夜景に目をやった。
「…その通りですよ。最後は彼女が浮気して終わったんです。でも…」
「…でも?」
「…"浮気した"という話はあくまでも友人や彼女の友達から聞いただけなんです。相手が誰なのかも教えてくれませんでしたし、その後に関する彼女の噂も聞きませんでした」
「なぜなのか知りたいのか?」
 東雲はわずかに微笑んだ。
「ええ。もしかしたら、ってこともあるじゃないですか」
 東雲にとっての最後の愛情、純粋な恋は未だ彼の心に残っていたようだ。未練、とはまた違う。かつて住んでいた家を懐かしむようなものだった。『椿姫』にあるように、疑いがあるということはすなわち希望がまだあるということ。彼はかつての彼女への疑いなかに、わずかの希望を見出して生きていたのだ。
「なるほどな」
 東雲はわずかに微笑むと、近くにあったベンチに目をやった。
「あそこで、一緒に満月の下で話し合った記憶があるんですけど、何かの勘違いですよね。夢か何かですよ、きっと」
 私は柵を離れ、リビングの方へ向かった。柵に寄りかかり項垂れている主催者のことなど気に掛けていない金持ちたちの元へ歩いていく。
「またどこかで会おう」
 リビングに入る前に、振り返って東雲に言った。
「ええ、またどこかで」
 振り返った東雲は疲れた笑顔で手を振り、私を見送った。

柊木・荒川・東雲/「可惜夜と夢遊病」
 柊木と荒川、東雲はどこともつかない場所にいた。どこだろうか。どこにしよう。詳しく書いても書かなくても物語に影響はないから、書くつもりはない。
「どこだ、ここ?」
 柊木が言った。柊木は白いベンチの上に座っていることにしよう。荒川はいつものカウンター席の椅子に。東雲は…座り心地がいいオフィスチェアにしておこう。
「あなたは?」
 東雲は驚いたように椅子から立ち上がり、柊木に向かって言った。
「あ、僕は柊木っていいます。あなたは…?」
「わたくしは東雲といいます」
 カウンター席用の、少し背が高い椅子から降りた荒川が二人に近づいていく。
「どうも、荒川です…」
 遠慮がちに荒川は言った。
「ああ、どうも東雲です」
 東雲が挨拶をする。
「あの…柊木です。よろしくおねがいします」
 何ともいえない雰囲気が三人を包む。
「…ここがどこか分かる人いますか?」
 東雲が言った。
「いえ…全く」
「そもそもこの部屋おかしくないですか?なんていうか…?」
 荒川が辺りを見る。
「部屋の特徴がない…?」
 そりゃそうである。書いてないものはわからない。私が書いたの『"どこかわからない場所』とだけ。部屋でもなければ、広場でもない。床はあるかもしれないし、ないかもしれない。辺りは白い?緑かも。いや、黄色か?
「なんなんだ?これ…?」
 困惑する三人に答えを与えるべく、特徴を書いてあげよう。部屋は三人がいるには広く、しかし四人になると窮屈に感じる広さだ。床は無機質なコンクリートで、壁と天井は白色で塗られている。たった一つの裸電球が天井の中心に吊り下がっているだけだが、その割に部屋は明るい。柊木の座っていた白いベンチは壁に沿うように設置されており、荒川の椅子は柊木から見て左手の壁に。東雲のオフィスチェアは荒川から見て左斜め前の、部屋の隅にある。部屋の中央には赤く四角いカーペットが敷かれており、その上にはカーペットより一回り小さく丸い木製のテーブルが置いてある。色は明るい薄茶色で、机上には何も載っていない。
「…?」
 東雲が机に寄っていき、手をのせた。
「これ、さっきまでありましたっけ…?」
 荒川が恐る恐る机に近寄る。
「いえ…なかったはずです…。でも、突然現れたわけでもない…?」
 柊木は困惑し、辺りをキョロキョロと窺う。
「どうもお久しぶり、みなさん」
 私は部屋のどこともない場所から現れ、中央の机に近づいた。
「あれ、何であなたがここに?」
「アラカワさんじゃないですか」
 柊木と荒川がこちらを振り向く。一つ遅れて、東雲もこちらに目をやった。
「あなたは…あのパーティーのときの?」
「その通り。そして、この奇怪な部屋に呼んだのは私だ」
「アラカワさん、どういうことですか?」
 私は柊木の方に目をやった。
「…まず、柊木くん。キミは事故で失った彼女に会いたいと思っているね?」
「…?まぁ、はい…」
 続いて荒川の方を見る。
「荒川さんはかつての事実を、彼氏を引き留めていたという内容に書き換えたいと」
「はい…」
 そして東雲の方に視線を移した。
「東雲さんは高校時代の彼女との再会を…。いまのあなたを知らない状態でね」
「…ええ」
「私はいわば、皆さんにとって『神様』みたいなことをしている者だ」
 柊木が固唾を飲んだ。
「…事実を書き換えられるっていうことですか?アラカワさん」
「そう、その通り」
 すると突然、柊木が血相を変えて私のほうに近づいて来た。乱暴に私の胸ぐらを掴むと、鬼の形相で睨みつけた。
「お前が、お前が俺の彼女を殺したのか?彼女の人生を、お前が奪ったのか?…答えろ‼︎」
 柊木は顔を紅潮させ、目には涙を浮かべていた。歯を食いしばっている頬は痙攣している。
「残念だが、殺したのは私ではない。私は最初に決まった事実に肉付けをしていくだけだ。キミ『"彼女を失った少年』という設定から作られた」
「はぁ?」
 胸ぐらを掴まれたまま、荒川のほうに目をやる。
「荒川さんは"『彼氏と別れた女性』。東雲さんは『孤独な富豪』。それらの事実は最初に決まったもので、私はそれに様々な話を付け加えていっただけに過ぎない」
「でも、その設定を考えたのはお前だろ⁉︎」
「ひらめきは偶然だ。偶然は私の世界の『カミサマ』とやらが決める。だから私はどうやってもその事実から逃げられない。いうならば誰かから植物の種を貰って、私はそれを育てただけだ。それが月桂樹の種だったとして、それ以外の植物に育つようにする方法は私にはない」
 柊木は私の胸ぐらから手を離し、そっぽを向いた。
「よくわかんねぇけど、あんたでも無理だったってことだよな」
 東雲が私のほうに寄って来た。柊木の肩に手を置くと、彼はこちらの目を見た。
「でも、話を聞いている限り、あなたは私たちの願いを叶えようとしている気がするのですが?」
「そうだ。小説では"ありえない奇跡"を起こすことができる。私は君たちにそれを経験して欲しいんだ」
 荒川が怪訝な顔をしてこちらを見た。
「でも、なんで?」
「私には起こらないからだ」
 立ち尽くす柊木の横を通り、机に腰掛ける。
「今から君たちはとある夜、時刻は9時30分ちょうどにそれぞれのベッドの上で目が醒める。そのあと、恋人との思い出の場所に行くといい。そこには彼らが待っている」
「本当なのか?」
 東雲が訊ねた。
「本当さ。ただし、再会は午前5時45分まで。その時刻に日が昇り始める。夢のような時間はそれまでだ」
 柊木がこちらを振り返り、近づいてきた。
「なんでさ?事実を書き換えられるならそのままにしてくれよ!そのまま彼女と一緒にしてくれよ‼︎」
 吠えるように訴える柊木を東雲が落ち着かせた。
「残念ながら、この物語はもうすぐ終わる。物語が終わるということは、この世界から私がいなくなるということだ。私がいない世界に"ありえない奇跡"は起きない。でも…」
「でも、なんですか?」
「この物語が何度も読み続けられる限り、奇跡は何度も起こる。君たちが記憶を保持したままにするのは難しいが」
「じゃあ、この会話も何度か繰り返されたものかもしれないっていうことなの?」
「読者のみぞ知る、といった具合だな」
 私は机から下りると、荒川の椅子のある壁に近づいた。
「それじゃ、おはよう。良い夜を」

 柊木は目を醒ました。時計は9時30分ちょうど。布団から飛び起き、半袖のTシャツの上に紺色のパーカーを羽織るとスニーカーを片手に自室の窓から外に飛び出た。素早くスニーカーを履くと、走り出した。フェンスを飛び越え、車道を渡り、ギリギリで自転車を避け、何度か転びそうになりながら、ただひたすらに走った。彼女との思い出の場所、それは桜公園の桜の木の下だった。
「咲…」
 桜公園にたどり着いた柊木は、自らの目を疑った。四月でまだ肌寒い夜空の下、満月の光に照らされた満開の桜のすぐそばに彼女は立っていた。
「…久しぶり」
 長らく会っていなかったためにぎこちない挨拶ではあったが、しかしその言葉の中には柊木を想う純粋な愛情が含まれていた。柊木もそれを感じ取り、そのあまりの嬉しさに涙を溢した。
「どこ行く?」
 柊木は彼女の手を取り、歩き出した。砂を踏みしめる足音も、耳元を吹いていく優しい春風も、遠くで鳴り響くサイレンも、彼女の声を聞く柊木の耳には届かなかった。
「いい場所があるんだ。一緒に行こう」
 柊木とその彼女は手を繋いだまま、人気の少ない下町の通りを街の中心部に向かって歩き出した。途中で通りを外れると、コンビニに入りカフェラテを二つ購入した。
「どんなとこなの?」
 柊木の横で彼女が訊ねる。柊木は彼女の微笑みを見、何ともいえない幸福感を感じると、再び前を向いた。
「君のことを月に喩えてた場所」
 なにそれヘンなの、と彼女が笑いながら応えた。
「夜ってのは人をキザにさせるんだよ。それが正しい思考なんだ」
 柊木はあの廃ビルに向かっていた。和気藹々と話す彼らの横を一台のタクシーが通っていく。その中に荒川は彼氏とともにいた。
「本当に、夢を追わなくてもよかったの?」
 荒川と彼氏の思い出の場所は、最後に別れた空港だった。最後の別れというものが、皮肉にも強く思い出として残ることがある。荒川の場合がそうだ。
「ああ。僕は君と居たいから」
 荒川にとっておおよそ一年ぶりに見る彼氏の顔は、別れたあの日とまるで変わっていなかった。いや、同じだった。
「いいお店あるんだ、一緒に呑みに行こうよ」
「どこ?」
「マーガレットっていう、バー」
 荒川とその彼氏はたわいもない事を話し合い、荒川はその会話の中に幸せを感じた。あの時引き留めていれば、この会話もいつものことだったのかもしれない。
 しばらくして、タクシーはとあるビルの前に止まった。荒川はタクシーの代金を払い、彼氏とともに外に出た。
「このビルの中にあるの」
 荒川は彼氏の腕を引き、ビルの中に入っていった。
 二人を目的地に送ったタクシーは新たな客を乗せるべく、街の中心部に向かった。だんだんと周りのビルが高くなっていき、人通りも多くなっていく。そうして街の中心部にやってきたタクシーは大通りの交差点で信号に引っ掛かった。目の前の横断歩道を様々な人が歩いていく。その人混みの中に、東雲は彼女といた。
「今何してるの?」
 横にいる彼女が訊いた。
「お仕事」
「なにそれ。アンタがニートな訳ないじゃん」
 ははは、と二人は笑った。
「今日は何で会いに来たの?」
 東雲が思い出の場所に行き彼女と再会すると、彼女は「会いに来た、ここに来れば会えると思った」と話してくれた。問題は理由だった。
「高校の頃さ、アタシが浮気したって言って別れたじゃない?」
「うん」
「あの話をしに来たの。ケリをつけに来たっていうかさ」
 柊木は自分のペントハウスのあるビルに入っていった。
「なるほどね…。詳しくはゆっくり話そう」
 彼女はその豪勢なビルを目を丸くして観察した。
「ここに良いお店でもあるの?」
「まさか」
 ここの最上階に自分のペントハウスがあることを伝えれば、彼女は東雲が金持ちであることを知ってしまうだろう。金目的で近づいてきた女たちを思い出す。もし、金目的の女に豹変したら?そんな考えが東雲の頭をよぎる。が、最終的に東雲は、彼女を信じることにした。
「ここの最上階に僕のペントハウスがあるんだ。いまお金持ちになっててさ」
 遠慮がちに話す東雲を、驚いた眼差しで彼女は見上げた。
「ほんとに?すごいじゃない!さすが青徒!」
 喜び、驚いてくれた彼女の顔と言葉に、金目的で近づいてくる人間特有の欲の臭いと仰々しさはなかった。
 エレベーターに乗り込み、最上階を選択する。エレベーターのなかで、東雲とその彼女は思い出話に耽った。
「ここがそのペントハウス?」
 二人が到着した時、部屋には明かりがついていなかった。白く薄いカーテンが広い窓を覆っており、一つだけ空いた窓から風が吹き込んでカーテンを踊らせていた。穏やかで切ない春の月の光が差し込み、部屋は何とも形容し難い雰囲気に包まれていた。
「ベランダで待ってて」
 彼女にそう言い、東雲はキッチンに向かった。グラスを二つ手に取り、新しいシャンパンを片手にベランダへ向かう。カーテンの間を抜け、ベランダに出た。彼女は植木鉢の近くのベンチに腰掛けていた。
「あのね…」
 そう話し出した彼女の背後に広がる夜景のなか、ビルの屋上の赤いランプがなくなる境界線の近くのビルの上に、寄り添う男女の影があった。それが柊木たちだった。そこからすぐ右の方にある通りを辿って、とあるこぢんまりしたビルに入って二階にあがると、「バー・マーガレット」がある。そこに荒川たちはいた。

 夢と現実の区別がつかないと感じたことはあるだろうか。夢があまりにも現実味を帯びていて、かつ時間の流れがあった時、疑うまでそれが夢だと気付かない場合がある。だが、疑っても夢だと気付けない場合もある。原因は、その夢が夜の魔力に彩られた事実だからだ。夜の魔力とは、夢を事実に、事実を夢に置き換えられる力。彼らは夢をみているのと同時に、現実の事実の中で息をしているのである。
 しかしここで気を付けておかなければならないのは、夜の魔力は人々の思い込みによって発生するという点だ。思い込みで風邪や病気の類が回復したりするように、人間の意識とは非常に強力である。だが裏を返せば、すぐに揺らぐ人間の意識が土台である夜の魔力は同時にとても軟弱なものであるのだ。つまりその思い込みの根幹を成す何かが壊れたとき、それは夜の魔力の崩壊をも意味することとなる。

 崩壊とは美と恐怖の両面を併せ持つ現象だ。散りゆく桜が美しいと思える一方で、巨大なビルが倒れていくのは恐ろしい。だが、諸行無常という言葉があるように、この世の全てものはやがて無くなるか、変化するかどちらかの未来しかない。彼らの夢もまた、時が与える「終わり」という万物の着地点に真っ逆さまに落ちているのだった。
 彼らはそれぞれ、かけがえのない素晴らしい恋人たちとの会話を楽しんでいた。場所を変えたのは柊木ペアと荒川ペア。柊木たちは付き合っていた頃に乗ってみたいと二人で話していた街一番の観覧車に、荒川たちは酔いを醒まそうと外を散歩し歩き回った挙句、海岸沿いのベンチに辿り着き腰掛けていた。東雲ペアはペントハウスから出ることもなく、場所を変えることもなく、同じ場所で思い出に浸っていた。
 時刻はもう間も無く5時45分になろうとしていた。それぞれの終わりを、見ていこう。

 柊木は観覧車の窓から街の夜景を見下ろしながら、彼女と様々なことを話していた。街は一度も眠っていなかった。彼らも同じだった。
 しばらく風景ばかり眺めていた柊木だったが、ふと右側から光が差し込んできた。太陽が昇り始めたのだ。
「うわっ。眩しいな…」
 そう言いながら視線を彼女に戻した時、そこに彼女はもう居なかった。何一つ残さぬまま、彼女は消えてしまっていたのだった。
「あれ…?」
 …柊木は目を覚ました。いつも通りのベッド、いつも通りの天井。時計に目をやると午前2時半だった。起き上がり、財布を手に取るとコートを着てコッソリと家を抜け出していった。空には繊月が浮かんでいた。
「そういえばあの人、元気かな」
 柊木はうっすらと記憶のある変な夢を見た頭を抱えながら、行くあてもなく歩き出した。

 荒川は海の見えるベンチに、彼氏と一緒に腰掛けていた。しょっぱい匂いのする風が頬を撫でていく。
「でね、そのとき私ったら…」
 和気藹々と話す二人を、温かい光が包んだ。荒川を見つめる彼氏の顔がオレンジに照らされる。
「あ、朝日だ!私初めて見たか…」
 水平線を突き抜けて昇ってくる朝日に目をやり、再び嬉々として彼氏の方を向いた彼女の目に、その姿は映っていなかった。
「え…」
 …荒川は物音に気がついて目を覚ました。行きつけのバーのカウンターに突っ伏して眠ってしまっていたようだ。さっきまで何か夢を見ていた気がするが、酒のまわった頭では何も分からない。ちらほらいた他の客も、荒川が寝ている間に帰ってしまったようだった。手に持ったままだったグラスを持ち上げ、一口飲む。甘酸っぱく、どこか爽やかで、しかし物寂しい味わいのカクテルだった。
「…変な気分…」
 誰かがバーに入ってきた。特にその方に目をやることなく、荒川は呆けていた。

 東雲は彼女と二人で、シャンパンを飲みながら様々なことを話していた。近況、思い出、雑学や噂話など、話題は絶えなかった。
 ここに着いたときにキッチンから持ってきたシャンパンがなくなってしまった。東雲は他の飲み物を探すため、キッチンへと向かっていった。
 ベランダに背を向け、冷蔵庫の中を確認していると、背後から光が差し込んできた。探る手を止め、慌てて時計を見た。時刻は5時45分になっていた。咄嗟に走り出し、ベランダに飛び出たが、どこにも彼女の姿はなかった。
「嘘だろ…?」
 …東雲はケータイのアラームで目を覚ました。窓の向こうの空は夕暮れ時だった。
 起き上がり、あらかた片付いた部屋を見渡す。あと1時間ほどで、金持ちどものパーティーが始まる。
「片付け、終わらせるか」
 長い昼寝と、よく覚えていない夢のせいで頭痛がする。
 コップに水を注ぎ、一口飲んだ。
「…夢は着飾った現実…現実はドレスを脱いだ夢…」
 東雲は再び始まったこの世界が夢なのか現実なのかなど、全く気にしていなかった。

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