PIERROT
アンバーはサーカスの団員だった。そのサーカスはとにかく大規模なことで有名で、団員は総勢1000人ほど、街にやってきたら丸一週間は留まり毎日公演をする。団員もこれほどの数なので、七回ある公演はどれも内容が違うという。
サーカスには7人のリーダー演者がいて、彼らが一日のテーマとしてその日の公演の采配をとる。アンバーはその演者の一人、"ピエロ"の下で活動をしていた。
彼は他の団員と同じように,中央で派手に演技をするメインの道化たちを取り囲む役割を担っていた。演技に合わせ大袈裟なリアクションを取り、飾り程度の道化として踊る。最初こそ野心に満ちていた彼の心も、時間の長いメイクをするたびに何処かへ去っていってしまった。
「なぁ、ダイヤ」
「なんだ?」
ダイヤは彼の同期で、今はすっかりメインの道化として成功した親友であった。
「"ピエロ"さんみたいになるには、どうすればいいと思う?」
「そりゃあ、努力一択だろう」
「努力?」
「もちろん。"ピエロ"さんがなんでリーダーに抜擢されたと思う?…できる技が多いからさ。玉乗りひとつをとっても、"ピエロ"さんはその上でいろんなことができる。中には俺たちですら難しい技だってある。それは"ピエロ"さんがすごく努力したからに他ならない。思うだけの夢は夢じゃない、ただの願望だよ」
アンバーは親友の言葉を反芻しながら、しばらくの日々を過ごした。
アンバーはそれ以降,様々な技を習得しようと努力したが,どれもうまくいかなかった。失敗、失敗,失敗…。それでも彼は自分自身を奮い立たせ努力を続けたが、ついにそれらが身を結ぶことはなかった。そうしてやがて,彼の心からは野心がすっかりと消えてしまい、やる気も失せ、ただただ空虚な願いだけが最後に残った。
そんなある日のことだった。アンバーは団長の発表した目的地にとても驚いていた。というのも、しばらく後に訪れる街というのが、彼の故郷だったからだ。とは言え,彼の扱いが酷かった親は、彼が家出してからすぐに死んでしまったようであるし,学校に通わせてもらえなかった彼を知る人間はそういない。今の自分を見ても,誰も何とも思わないであろうと彼は考えていたが、ふと、ある女性が彼の脳裏をよぎった。それは彼が長らく思慕の念を抱いていた女性で、彼はどうしても活躍する自分を見てほしいと思ったのである。
こうして彼は、再び猛特訓を始めた。親友のダイヤにもコツを教えてもらいながら,度重なる失敗にもめげずに直向きに努力をした。できる技が増えてゆき,他の団員を驚かせるようになった頃、ついに彼はメインの道化として昇格した。彼の故郷の、一つ前の公演のときだった。
ついに公演日。彼は生まれて初めて,中央ステージで技を披露した。もはやどれが誰であるかわからないほどの観客の前で、彼はとても誇らしげに演技をしていた。動きも多く、複雑な技をこなしながら,彼は観客の一人一人を確認していく。彼女は,彼女はどこにいるのか…。上に高く放り投げた黄金の輪っかが,落ちてきて彼の目の前を通り過ぎた時、その輪の向こうに、彼女の姿を彼は見た。
しかし。その一瞬の中で,彼が感じたのは喜びではなく、何とも言えぬ空虚感であった。時間ー…、それが生み出した決して埋められない心の距離が、二人の間にはあった。そして彼は,それを感じ取ったのであった。
(彼女は僕を見ていない…)
彼は深い絶望を感じ、しばらくの間寝込んでしまった。団員が優しかったことと,まだ彼が替えのきく団員に過ぎなかったことから,次の公演は休ませてもらうことになった。
だが、この公演の日、ダイヤが大怪我を負ってしまった。というのも、本来その公演では彼とアンバーがコンビの技を披露する予定だったのだが、当のアンバーがあの様子であるから、とても難易度の高く危険性もある技をたった一人で埋め合わせのため披露することになってしまったのだ。
アンバーは、ついに道化としてステージに立てなくなった親友の世話をしていた。最初のうちはダイヤが大泣きし、つられてアンバーも泣き出すということが続いたが、しばらくの後に二人とも落ち着き、談笑ができるほどにはなっていた。
「アンバー」
「どうした?」
「次の"ピエロ"になってくれ。俺はもうなれないが、お前がなってくれたら俺がなったのと同じくらい嬉しいよ」
「…あぁ、わかったよ」
アンバーはダイヤに微笑みかけた。
ダイヤは5公演先の彼の故郷で家に帰らされる。その一つ前の公演が,再びアンバーの故郷で催される予定であった。そうしてアンバーの目標は、3公演先までに"ピエロ"になることに定まった。
再び血の滲む努力を積み重ね、今ある技では飽き足らず,新たな技を編み出しては賞賛された。それでも満足せず,努力、努力、努力,努力を繰り返し,失敗、失敗、失敗、失敗に頭を抱え,しかし前を向きなおり諦めることをしなかった。
ついに第三公演を終え、次がついにアンバーの故郷になった。昇進発表のある公演最終日のミーティング中、彼はずっと願っていたが、ついにその話が出ることはなかった。あの人に活躍する姿を見せることはまだ先になってしまいそうだな、そう思い肩を落とす彼の耳に、"ピエロ"の声が聞こえてきた。
「団長,私はアンバーを次の"ピエロ"に昇格することを推薦します。私はもう随分歳をとってしまいましたし,今では彼の持つ技の方が私よりも素晴らしい。"ピエロ"の座を渡しても、私はなにも悔いはございません」
鶴の一声とはまさしくこの事で、"ピエロ"のその発言には異を唱える者がおらず、かくしてアンバーは新しい"ピエロ"として君臨することとなった。
このことをダイヤに報告すると、彼は泣いて喜んだ。アンバーとダイヤは、夜通し思い出を語り合った。
アンバーの故郷、公演四日目「ピエロの部」当日。明かりが消えたテント内にパッとスポットライトが点き、アンバーを照らし出した。軽快な音楽に合わせて様々な技を披露し、途中から参加してくるメインの道化たちと協力技を披露する。そんな作業の合間にも、彼はあの人を探し,その姿を見つけ出していた。こうして長い長い公演の最後、彼の初めての演技は観客からの凄まじい拍手によって認められた。
公演が終わると,その日のリーダーはサインのため正面口に向かうことになっていた。アンバーはあの人に気づいてもらえるよう、派手な道化のメイクを落とし,衣装はそのままで向かった。
彼が登場すると歓声が上がり、彼の元にサインをもらおうと観客が集まってきた。一人一人丁寧に相手をしながら、彼女の姿を探す。しかしこれほどの人数、観客席のようになっているわけでもない場所で彼女を見つけ出すことは難しく,またサインを求める観客が思いの外多かったため、彼はしばらく探すことを中断していた。
次々と差し出されるサイン用紙にサインをし,必要に応じて写真も撮る。彼が疲れを感じ始めた頃、彼の耳に素晴らしい声が聞こえてきた。彼女のもので間違いない。
その声がした方を見ると,やはり彼女の姿があった。
「あの!」
彼が話を切り出そうとした時、その声を遮るように彼女が叫んだ。
「"ピエロ"さ〜ん!サインして〜!」
彼が街を出たのはたったの一年半前だ。彼と彼女は随分と交流があったので、彼の顔を覚えていないはずがなかった。
しかし蓋を開けてみれば,もう彼女は「アンバー」としての彼を忘れており、「ピエロ」としての有名性にしか彼への価値を見出していなかった。
彼はひどく落胆した。
親友を見送ることとなる公演も,アンバーなりには最善を尽くしたのだが,しかし以前のような気持ちで挑むことはできていなかった。
アンバーは人見知りだったため,このサーカスで彼をよく知る人間はダイヤしかいない。しかしダイヤも何処かへ行ってしまった。憧れのあの人も,「アンバー」としての自分をもう忘れ去ってしまっているようである。もう彼の近くに、「アンバー」という彼を知るものはもういない。
「やあ"ピエロ"さん!」
「"ピエロ"さん、お疲れ様です!」
「"ピエロ"さん、あの技、凄かったですね!」
「"ピエロ"さん」「"ピエロ"さん」「"ピエロ"さん」「"ピエロ"さん」「"ピエロ"さん」「"ピエロ"さん」「"ピエロ"さん」「"ピエロ"さん」「"ピエロ"さん」「"ピエロ"さん」
僕はピエロじゃない。
「"ピエロ"さん!」「"ピエロ"さん?」「"ピエロ"さ〜ん」「"ピエロ"さん」「"ピエロ"さん?」「"ピエロ"さん!」「"ピエロ"さん」「"ピエロ"さん!」「"ピエロ"さん」
違う、僕はアンバーなんだ。
ピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロ
違う!
ピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロ
誰か、誰か!僕はピエロじゃない!アンバーなんだ!誰か、認めてくれ!アンバーとしての自分を!アンバーらしくしていいって!認めてよ!
ピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロピエロ
僕はピエロじゃない!
公演四日目「ピエロの部」当日。明かりが消えたテント内にパッとスポットライトが点き、"ピエロ"を照らし出した。