名もなき文士の独り言 (要約:暇人の雑談) Ⅴ
私は一日の大半をこの世で過ごしていない。
高校に入学して早くも十一ヶ月が経った。入学式前には散った桜も、アイスと一緒に溶けてしまいそうに思えたあの地獄の酷暑も、つい先週のことのように思える。そしてこの前、2023年は終わりを迎えた。
しかし、そんな2023年を名残惜しく思えるかと言われれば、その限りではない。というよりかは、あと二年もこんな具合なのかと幻滅している。
私は人見知りであるとともに、無意識的に他人に対し高圧的な態度をとってしまう性格だ(勿論そうならないよう努力はしている)。そのうえ自分でも如何なものかと思うほど気が難しく、人をなかなか信用しようとしない。現に、もう二学期も終わろうとしているこの期になっても、未だ私は学校で一人称を「私」としている。高校生なのに、だ。
趣味も一般的な高校生とはズレており、私は彼らの話題にはまるで理解が及ばない。無論、彼らも同じく私の趣味に理解も共感もできず、同時に興味もない。話題もズレており、趣味もおかしい。私の聴くロックを彼らは聴かないし、私の見る映画を彼らは知らない。無愛想でつまらなく、共感のかけらもない、そんな生徒が私なのである。もちろん、そんな人間に寄ってきて、仲良くしようとする人間などいない。つまり、私には友人がいないのだ。
そんな調子であるから、私にとって学校はさほど面白い場所ではない。そこは行かなければいけない場所にすぎず、もし行く必要がないと言われれば直ぐにでも家で寛ぐだろう。
楽しみもなく、ただただ苦痛な高校への登校のために毎朝5時半に目を覚ます功績に対して賞状が欲しいほどだ。きっと卒業式で貰えることだろう。
しかしそもそも高校生活に対してさほど期待していなかったため、こんな退屈な学校生活をダラダラ過ごすことに苦痛はない。最悪、履歴書に学歴を書くことができればそれで良い。
そんな思考で毎日を過ごしていた私が手に入れたのは、ほぼ自動で一日を過ごすという特技である。いや、特技というよりかは、ある種の現実逃避であるが。
哲学的ゾンビのように、何かを考えているようで何も考えていない状態になるのだ。授業中も、ディスカッション中も、そこに私の心はない。登校してから学校を出るまで、いつだって私の心は音楽の中に浸っているのだ。
そう、このシステムの鍵を握るのは音楽である。私は音楽を聴くことが大好きだ。音楽を楽しんでいる間、私の心はこの世から切り離される。
それが、私が一日の大半をこの世で過ごしていない所以である。
登校時間。電車の中、私はイヤホンで許される限りの大音量で洋楽のロックを聴く。Audioslaveの"Show me how to live"やBlack Sabbathの"Paranoid"、Kasabianの"Club Foot"など、とにかくガツガツしたものがいい。音楽以外何も考えられないようなほどの音量でそれらを聴くのだ。
電車を降り、学校まで歩くだけとなればさらに音量を上げる。人通りも砂漠のサボテンほどになるため、音漏れなど気にする必要がない。携帯の最大音量まで上げると、この世から音が音楽以外消え去るように感じるほどになる。
そんなエッジを超えた方法で音楽を聴くと、ライブハウスは脳内にとどまらなくなる。エレキギターで脳みそを掻き混ぜられ、ベースギターに腹を殴られ、ドラムが鼓膜を叩き、エネルギッシュなボーカルが全身を震わせていく。そんな感覚だ。
私の通学路はただの道ではなく、大音量で音楽が流れるライブ会場になる。電車のホームはThe White Stripesの"The Hardest Button to Button"のMVのワンシーンのように見え、大きな交差点はAvril Lavigneの"Sk8er boi"のMVの撮影地のように思える。 まだオープンしていないスーパーマーケットの前で、車がまるで通らない道路の真ん中で、コンビニの駐車場で、別の高校のグラウンドで、様々な曲が演奏されているのだ。私の身体がある世界の断片は、音楽によって集められ、一つの画として私の心に認識されるのである。そこに私の望まない苦痛は存在しない。
30分近い電車移動も、約25分の強制早朝ハイキングコースも、第三者となればなんとも思わないものだ。
学校に到着してもなお、ホームルームが始まり担任が教室にやってくるまで音楽を聴き続ける。しかしここで聴くのは、打って変わってゆっくりとした音楽だ。最近はジャスがお気に入りである。
ピアノの優しい音色、伸びやかなサックスの音色、そしてその後ろにいるウッドベースの音色、小気味のいいドラムのリズム。すこし財布の気が良い時は、自販機でコーヒーを買って共に味わうのも悪くはない。
朝の過ごし方は決まっているようで決まっていない。その日の気分で過ごすのだ。小テストがある日なら、数学を切ることができない私の鈍刀に鋼の焼き刃を付け足す。数独をしたい気分なら格子に数字を入れる。小説の続きが気になるのならば文字の中に世界を見る。何もしたくないのなら音楽を楽しみ、時間を流す。
イヤホンをつけると、教壇の上でジャズバンドが演奏をはじめ、教室はさながらジャズバーのように思えてくる。普段なら耳に障る、イヤホンの隙間から流れこんでくる教室の喧騒も、雰囲気を形成する一要素となる。本来ならLED蛍光灯で眩しいほどに明るい教室は少しずつ暗くなってゆき、真っ白な床は黒檀の木材でできたものに、少し窮屈な教室机は立派なテーブルへ、プラスチック容器に入ったコーヒーはカップに入ったものへと様変わりする。
ジャズバーと化した教室とともに、私は音楽の中に沈んでいくのである。
授業が始まると、当たり前ではあるが音楽を聴くことができない。だが、音楽は頭の中でも流すことができる。歌詞を思い出しながら音楽を脳内再生する。授業が退屈な時は、時計を眺めながら歌詞の意味を考えてみる。必要な返答さえできればペアワークなど十分、イエス/ノーで答えられる質問は生返事で事足りる。当てられたらその場で答えを考えれば良いし、分からなければそう言えばいい。音楽に溺れた私には、水上での会話はくぐもって聞こえるのである。
特に仲が良いわけでもない隣の人間は、一度瞬きをするとその姿が消える。前で退屈な授業をしている教師も、欠伸をすると朧げになって消える。ただ目を閉じて、登校時に聴いていたロックを思い出して脳内で再生するのだ。その途端、教室は美しい狂乱の様になるのである。
さっき姿を消した隣人の机が蹴り飛ばされ、ついで椅子が飛んでいく。ホワイトボードにエレキギターが叩きつけられ、大きなヒビが走る。暴徒と化した生徒は机を窓の外に投げ落とし、ドアを外して振り回す。どこからか取り出した水風船を投げ合う生徒を横目に、いつのまにか取り外していたLED蛍光灯でチャンバラを始める生徒。乱雑に集められた机の上で怒りを歌うボーカルと、鉄の弦と共に叫ぶギターとベース。荒れに荒れた教壇の上でバチを振り下ろすドラム。さっきまで教室を破壊して回っていた生徒はバンドのまわりに集まり、彼らの演奏に盛り上がるのだ。
もはや教室としての機能を失いカオスとなった教室は、休み時間を知らせるチャイムの音で秩序を取り戻す。さっきまで居なかった隣人はいつの間にか座っており、教師は教材をまとめて教室を去る準備をしている。窓は割れていないし、ドアも外れていない。委員長の号令に体が条件反射を起こし、教師に対して浅い礼をする。
50分の授業はこうして終わりを迎えるのである。
休み時間になれば再び世界はミュートされる。10分の休み時間では音楽は2、3曲しか聴くことができないが、聴くことができない状態に比べればずっといい。
休み時間はジャズの他にエレクトロスウィングやチップチューンなどを聴いている。YouTubeに落ちている一時間ほどのミックステープを数日かけて聴くのだ。しかし、流石に休み時間中ずーっとどこでもないとこを眺めていては気味悪がられてしまう。そのため大体は小説を読んで過ごしている。
そんなことを4回ほど繰り返すと、いつのまにか時間は12時を回っている。昼食の時間だ。
心ここに在らずの状態で弁当箱を取り出し、いつでも昼食をとることができるよう準備する。そしてトイレで手を洗い、教室に戻ると弁当の中身を確認する前に映画を再生するのだ。音楽に溺れたあとは、映画に埋まる。それが日常である。
人との関わりがない一日などよくある事で、一見すると寂しいように思えるが、やりようによっては少しはマシになる。自分の機嫌を取るのはいつだって自分だ。文句を垂れても世界は変わらない。自分を取り巻く世界は簡単に改変ができないが、しかし自己の認識する世界は簡単に改変できる。認識の歪みこそが現実逃避の真髄だ。
音楽に溺れるより、小説の世界を覗くより、映画の世界を訪問することのほうが私にとっては簡単だ。それはやはり、先のどちらよりもずっと前から観てきたからだろう。私はジュラシック・パークとバック・トゥー・ザ・フューチャーで育ってきた。それ以外にも様々な映画と触れてきたが、今こうやって思い出すと一番・二番に名前が上がるのはその二作品である。私がかつて科学者を夢見たのもこれに由来する。
そんなわけで映画を観ることもまた私の楽しみの一つだ。なぜ毎日の昼休みにしか観ないのかというと、音楽も聴きたいが映画も観たい、どちらも一日中楽しむ方法はないのかと模索した結果こうなったのである。もちろん、ここで観ることができるのは冒頭二十分程度だけ。そのため家に帰ってから続きを見ることになるのだが、「映画は最初から最後までノンストップで見るべき」という意見は控えていただきたい。なぜかって?私だってこの日常を楽しむために努力をしているからだ。学校で映画を観るという楽しみ、現実逃避の一手段を奪おうというのか?
さて、昼食をダラダラ食べながら映画の世界を訪ねるのは、非常に楽しい。小さな画面はいつの間にか映画館のスクリーンに、そしてやがてIMAXや Dolby Cinema級の画面サイズになる。そして気付くと、私は映画の世界の中に居るのだ。手に汗握るドラマーの白熱したソロの観客として、相対性理論に翻弄される宇宙飛行士の同僚として、高価なヴィンテージ本を盗み出そうとした大学生たちの友人として。時には命を狙われ、時には美しい愛情を見守り、時には雄大な自然を感じる。こういった体験こそが映画の真価なのだと私は考えている。
昼休みの終わりを告げるチャイムが、私を現実世界に引きずり出す。私は次の授業の準備をし、再び音楽の世界に溺れていく。それの繰り返しである。しかし一貫して、私は私を取り巻く世界に長く滞在することはない。
五、六限目は気付けば終わっている。つい先程まで昼食を食べていたのに、今時計は三時を回っているのだ。
掃除があるなら、箒を忙しく振り回してほこりを集める。ちりとりで集めきれなかったものは、適当に誤魔化して。後ろに追いやられた机はさっさと前に引き摺って来、それらしく並べる。どうせ明日になれば整列も崩れるのだから、と。
さて、帰宅時だからといって上機嫌なわけではない。今日一日の疲労を引っ張って帰らなければならないからだ。片道1時間は伊達ではなく、道中電車を乗りかえる頃には鞄の重さが最初の倍になっている。さながら妖怪子泣き爺とでも言おうか、その指数関数的に重さが増えていく鞄はある種の拷問であるのだ。
帰宅は、真夏を除いて基本的に夕暮れ時あるいは夜の時間帯となる。この時間帯に似合う音楽はRosa WaltonとHallie Cogginsの「I really want to stay at your house」、Daft Punkの「Digital love」と「Infinity Repeating (2013 demo)」、などだ。夕暮れ時、茜色に染まった空を眺めながら聴くのはロックではない。そこまでハイテンポでなく、よく耳に残る音楽をこの時間帯に聴くのが私の最近の好みだ。
最寄駅を降りても、そこから自転車に乗って帰らなければならない。最後の15分を締めくくる自転車疾走は決して楽しいものではなく、絶えず悲鳴を上げる両足を馬車馬も失神するほどに働かせる必要がある。なのでここから再びロックの出番だ。
私は一日の大半をこの世で過ごしていない。私は常に音楽の中に閉じ籠り、外界と関わらないでいる。最初の頃は寂しく思えたが、今となっては何とも思わない。これが我が人生なのだ、そう認めただけのことだ。