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悪くない人生仮説について

 始めに言っておくが、私は俗に言う「意識高い系」に分類される話をくどくど書き垂らすつもりはない。そういうものを求めている人が訪れていたのなら、ここで引き返した方が良いだろう。まだ89文字しか書いていないが、相当な長さになることを感じているためである。もっと有効なものに時間を費やした方が良い事もこの世にはある。まぁ、「悪くない人生仮説」などというそれっぽい題名を付けた私に非があるのだが…。

 さて、だ。数式を見ると吐き気に頭痛、悪寒に自我の崩壊を引き起こすほど理系科目(特に計算)を不得意とする私だが、今回はガラにも合わず理系的な話をさせてもらう。別に理系の知識を持ち合わせているわけでもない私の展開する以下の仮説は、素晴らしい現代科学で見事に論破されかねないものかもしれない。ゆえにこれら一連の文章はあくまで“エンタテイメント”として読んで頂こう。しかし同時に、私の展開する仮説は現代科学の不可能を可能にすることを示唆するものであり…。つまり、「現代科学ではこうとされている」だとか、「なんとか博士のうんたら理論を基礎とした、ほにゃほにゃ法則で〜」とかの話を展開されたとしても、私の答えは『知るかそんなこと』である。
 前置きが長くなってしまったな。これくらいで切り上げて本題に入ろう。

①悪くない人生仮説とは何なのか
 悪くない人生仮説は、現代科学に於ける不可能を可能としかねない仮説である。「人間が信じるように、世界はやがて変化する」。これが大まかな内容だ。
 さて、読者のうち一体何人ほどが「人間原理」を知っていることだろうか。「人間原理」を端的かつ大雑把に説明すると、この宇宙が存在するのは人間がいるためである、とする理論だ。この世界が人間に適しているのも、これに由来するとも言えるが、実際のところどこまで適応するかは論争の渦中である。
 理系知識に乏しい私は、自分のガタガタな仮説のヒビ修繕にこれを用いる。異論は心内にしまうこと。
 さてと。私の展開する仮説は、長年人間が夢見た「時間遡行」つまり過去へのタイムトラベルを可能とするものである。仮説の補助は「人間原理」を用い、異論はないものとする。これが「悪くない人生仮説」の概要である。

②悪くない人生仮説
 そもそも時間遡行とは何なのか。「時間」を「遡」って「行」く行為なのだから、本来一方通行の時間流を遡り過去に干渉することである。しかし私の展開する仮説では、このような考え方はしない。

 そもそも時間とは、人間の決めた規定のようなものとここでは定義する。「人間原理」を裏付けに使うと、人間が「時間は一方通行、過去に戻ることはできない」と思ったから世界はそうなっているのだ。時間の一方性に関しては既に現代物理学で証明されているかもしれないが、そんなこと知らん。
 話を戻して、時間が一方通行なのは人間がそうであるとしたからであると私の仮説では定義している。つまり、人間がその考えを否定することができれば時間流は一方通行にならないのではないのか。これを時間遡行に応用するのだ。
 元来、世界は不安定であった。しかし人間が知識の発達と共に世界を定義したことにより、世界はそうであるように変化した。逆を言えば今までの世界を否定する定義を行えば、世界もまた変化するのだ。鍵を持つ人間が錠を下ろすことができるのなら、錠を開けるのもその人間である。

 しかし、現時点で人間の数は約80億人以上存在している。故に人間一人の信念が世界を全部変える可能性は低い。やはりここも多数決と言おうか、世界が人類に生きやすくなっているという「人間原理」を裏付けに使っている以上、大勢の人間が信じるように、つまり生きやすいように世界は変化するとするほかないのだ。
 だが、人間一人でも簡単に変化させられる世界が存在する。それは自分だ。結論から言うと、自分の時間流を世界の時間流から一時的に独立進行させ、その上で変化を行うのが私の提唱する仮説における時間遡行の方法である。

 例えば、「アフリカ大陸とユーラシア大陸を南北入れ替えよ」という無理難題があったとする。では、読者はこれを現実世界で行うことは可能か不可能か?無論、不可能である。何故なら世界はそうあるからだ。
 しかし世界地図を印刷してアフリカ大陸とユーラシア大陸を切り抜き、上下を入れ替えることは可能か不可能か?勿論、可能である。なぜなら変化が行われるのは印刷された世界地図、つまり印刷した人間の世界に限定されるからだ。もっと言えば、脳内でユーラシア大陸とアフリカ大陸の入れ替わった世界地図を思い浮かべることもできる。個人の世界は簡単に改変できる、この特性こそ時間遡行の鍵なのだ。

 そもそも、自分の過ごす時間は世界の時間流に内包される…つまり世界の時間の流れに従っているのか、その問いが根本に存在する。実際どちらなのかは誰にも分からないし、もしかするとどちらも正しいのかもしれない。つまり信じ方ひとつで変化しうる、と言ったところだ。

 ここで読者のみなさんには少々想像力を発揮してもらおう。ただただ文章を読むだけなのも興がないのでね。
 …あなたは今、川を流れている小舟からの映像を見ている。カメラの視界では水を確認できず、首は左右90度しか動かせない。右を見ると似たような船が同じ速さで移動している。左にも一隻。さらによく見ると、奥に無数の船が見える。どれも同じ速度で、全隻頭を揃えて流れている。右も同様である。
 さて、このような状況の時、あなたが最初に思い浮かべるであろう仮説は「幅の広い川を横一列に船が流れている」だろう。しかし、水面の様子が確認できていない以上、可能性としてはそれぞれ独立した川を下っているかもしれない。これが今現在私が思いつく中でもっとも分かりやすい、仮説の例えである。
 上記の例え話…「再羅月の小舟」とでも言おうか…は、世界の不安定さと個人の世界の可変性を逆手に取った活用法を端的に述べたものである。この手法を用いて行うことができるのが、世界の時間流から自身の時間流を独立進行させるという行為である。

 それでは続いて、肝心の時間遡行について話そう。世界の時間流から自身の時間流を独立進行させたのち、さらに改変を行う。自分がいる時間世界を、過去のものと断定するのである。何故「断定」という語句を用いたのかは、後述する。
 世界は認識の変化に依存する。そして人間原理をもちいた場合の世界の最小単位である個人の世界は、非現実的な改変も簡単なものとなる。自分の属する時間世界を過去のものだと断定し、自分の周りの世界を構築するのだ。自分は過去に存在していると、そう認識することができれば世界は改変され、対象は一時的に構築された影響性のある模倣時間世界に存在できる。
 これが時間遡行のプロセスである。

 しかしここで勘違いをしてはいけない。というのも、どれだけタイムトラベラーが過去の世界で何らかの行動を起こしても、未来は決して変わることがないということだ。
 歴史はあくまで不可変であり、その規定は決して破られない。これは人間原理を用いたための弊害ではない。理由を詳しく説明したいのだが、どうも言葉にするのが難儀なもので…。ただ、簡単になら説明することができる。この説明は私の述べたいことが9割9分補えるものなので、安心してもらおう。…しかし、文士気取りの人間が説明を文字にできないとはな。失笑ものだ。
 説明すると、この世界は漫画のようなものだ。第6巻を描いているときの作者と、第30巻を描いているときの作者、未来に存在するのは後者である。タイムトラベラーは、ここでは第20巻に登場する"人物A"としよう。それまで主人公と人物A含む七人組で仲良く話を進めていたが、あるとき人物Aがメインの話に切り替わる。そして、人物Aは主人公から聞いた第6巻の出来事を回想するのだ。
 人物Aが回想するのと同時に、第6巻のいくつかのページには人物Aの落書きがコマ割りの外側に存在し始める。いや、最初からそこに存在していた。
 例えば落書き人物Aが変顔をしたところで、第6巻に登場する人物は笑わない。何故なら既に起こった事象は絶対に変化しないからだ。既に描き上げられたものが、20巻での人物Aの行動によって全て改変される…そのような事態は起こらないだろう。人物Aが思いつきで飛び蹴りを通行人にしたところで、本来存在しないシーンが既に出版され流通した漫画に突如描き込まれることが無いことは、読者の皆さんの想像には難しくないはずだ。現実世界もそうである。未来人が過去を改変することはない。
 しかし、過去に関係することは可能だ。何故ならそれは既に起こった事、最初からそうなるとして起こった事態だからである。例えるなら伏線、というところであろうか。
 先ほどの人物Aの通行人飛び蹴りを再び話に出そう。飛び蹴りを受けた通行人が主人公に助けられた、という話が第6巻にあったとしよう。そしてその後、通行人は先の7人組の一人になる。これが歴史、漫画のシナリオだ。そして人物Aの影響性のある回想で、ページの端の落書きに過ぎなかった人物Aが思いつきで飛び蹴りを通行人にした場合、それは偶然ではなく必然なのだ。つまり、人物Aがここで飛び蹴りをすることは最初から決まっていたこと…その後の歴史に繋がるものとして既に組み込まれていた事実になるのだ。これがタイムトラベラーの過去への影響性についての説明だ。
 端的にまとめると、①タイムトラベラーは自分の意思で過去に影響を与えることはできない、②タイムトラベラーが過去を模った仮想時間世界で行う全ての影響性のある行動は、既に歴史(シナリオ)に組み込まれた事実であり、そこに自由意志は存在しない。

 仮想時間世界での全ての行動が既定事実なのは、未来が未知数な一方で過去は既知数だからである。それ以上の説明も、それ以下の説明もない。悪くない人生仮説が示唆する世界の可変性は未来のあやふやさに依存する、そのため「悪くない人生仮説を用いて世界を変えられるなら、過去も同様にできるのではないのか」というのはナンセンスな質問である。いくら過去に時間遡行をしようと、時間遡行前の人間と時間遡行後の同一人物の間には時間的な(今までのニュアンスとは僅かに違うが)前後がある。時間遡行前の人間にとって時間遡行後の同一人物は未来の存在。誰も明日のこと、ひいては1秒先のことを完全に把握することが不可能な時点で、未来は未知数なのだ。この未知数こそが、悪くない人生仮説の重要な点である。

 さて、ここで話を戻して何故私は「断定」という言葉を使ったのかという話題に切り替えよう。
 世界改変を行う場合、なんとなく「こうなっていれば良いな」と思うだけでは難しい。世界が今の物理法則に従って機能しているのは、それが日常として定着している…つまりそうであると断定しているためである。誰が今現在過ごしているこの時間を「過去」といえるだろうか。今は今としか言えないだろう。それが日常、それが常識であり、そして我々が断定している事実だからだ。今までの当たり前を完全に否定し、ましては今自分が属する時間世界をも否定・変換するためには「断定」という行為が必要不可欠であり、同時に非常に困難な行為でもある。ここでの断定はもはや自己催眠に近く、従来の常識をあたかも非常識かのように、それも何の迷いもなくそう言える状態こそ、時間遡行を行う人間の条件だ。
 そのため私は、時間遡行を可能とするタイムマシンはこのような自己催眠を助長、あるいは自己催眠をせずとも仮想時間世界の構築を可能とする補助装置であるとした。もしかすると、脳内に埋め込める程度のものになるかもしれない。

③結論
 悪くない人生仮説が可能性を示唆する時間遡行は、この仮説によって可能になる事象の一つに過ぎない。つまり、この他にも様々な『不可能』に対処することが可能なのである。
 そしてこの仮説から言いたいことは、ただ一つである。世界は望むように変化する、という事実だ。少なくとも私はそうなった。長い時間が必要だったが、私の望んだことの幾つかは現実に起こった。先ほど書いたような「断定」は必要ない。ただ望むだけなのだ。それだけで案外世界は改変される。
 私が特別な人間でないことくらい知っている。この地球上に何十億といる人間の、その中のまだ歴史にすら名を残せていない大多数の人間の一人に過ぎないことなど、よく理解している。だからこそ、この悪くない人生仮説は有効なのだ。誰か特別な者が扱える超能力ではない。万人が扱うことのできる、何の変哲もない力なのだ。
 悪くない人生仮説が、なぜこのような名をしているのか疑問に思った人がいたのなら、これが答えだ。悪くない人生は、望めばいつの間にかやって来るというわけだ。別に「さぁ、前向いて!人生山あり谷ありさ!ハハハッ!」という愚言を弄するつもりは無い。なにより、私自身がそういった無責任に他人の事実を無視して無理やり前を向かせようとする発言が嫌いであるため、そういう旨の発言をするつもりは毛頭無い。ただの戯言だと思うのであれば無視すればいい。結局こういうオチにするつもりだったのか、と勝手に落胆している読者がいるのであれば結構だ。読み取り方は十人十色、こちらかて「こう読んでくれ」などと注文をつける気がある訳では無い。
 
 こんなにもどうしようもないー科学的根拠もない、悪く言えば根性論でしかないー文章を、ここまで読んだ読者がもしいるのであれば、ありがとう。いつかここにある内容が実際に時間遡行へ応用が可能であると証明されたのなら、もしかするとそれも私の望みが仮説の裏付けによって引き起こした事象の一つかもしれない。
 それまでこの仮説は、このインターネットの大海の中に漂っているだろう。偉大な科学者が浜で拾うか、あるいはどこかの疲れた漁師が吊り上げるまで…この仮説が意味をなすことはない。必要な人間の手の中にあって初めて、この仮説はその真価を発揮するのであるからだ。
 最後に。ここまで読んだ物好きな読者へ。気障なことをツラツラ書き並べるつもりは無いが、だがやはり望むという行為が世界に与える効果というものは思いの外絶大で、そのためこの力を侮ることなかれ。世界を良くも悪くも改変しうるのは、人間の望みなのだから。

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