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「人々の雑踏」、心の荒廃も歩みを止めず

 誰も愛せず、また誰からも愛されぬのならば、私の生きる意味は一体どこにあるというのだろうか。今現在、世間一般で美しいとされる人間を見ても、かつての心の躍動が再び私を歓喜させることはない。いつからか、私は女というものを視界に入れることを拒むようになった。例え会話をするとなっても、女の方を見ることはない。どこか遠く、あるいは近くに目をやって会話するのだ。何故だ?喪失は実のところ、あの出来事の遥か前に経験したものだった。だが私は、確かにあの女への鼓動の速まりをおぼえた。だがどうだ、私はある時から急に女を忌避するようになった。忘却を恐れているのなら、私はかの女に心を掴まれることはなかっただろう。だが実際に発生した事実だ。 あの時の私はあの女を売女と呼んだか?梅毒の者と罵ることはあったか?否、そのようなことはなかった。寧ろ、そのような考えがその頭骨の中を蠢いて回ること自体が起こり得なかった。

 結局のところ、お前は純潔を愛したいだけなのだろう。穢れなく、純粋無垢なままの女への憧れがあるのだろう。だからお前は女への忌避の念があるのだ。齢16にもなる人間が、今まで誰とも恋人の関係に至らなかったことがある訳がない。また、この頃にもなれば50手前の中年男にその純潔を売る女も出てくる。加えて、狡猾になった阿婆擦れはお前のような男を良いように扱い、馬鹿にするものだ。お前は自分を守りたいだけだ。

 そんなことは分かっている。私が知りたいのは如何にしてその思考(罰)を償うべきか、またこの罰を生み出した罪を無かったことにできるのかということだけである。

 罪は無かったことにできない。人間の人格が時の積み重ねによって形成されうるものであることはお前も重々承知の上だろう。であるが故に、お前の罪という黒い層はどうやっても消すことはできない。その染みは上の層にまで影響し、お前の人格というものに多大なる影響を及ぼすだろう。だが、そういうものだ。お前の頭骨の中を侵食するその思考が消えて無くなることはない。それがお前だ。誰も愛せず、また誰からも愛されない。これがお前の人生だ。逃げられない。この罰はかの罪によって課されたものであるが、同時にこれは天罰、お前が生まれた時からその背に背負った星の定めでもあるのだ。この罪と罰はお前の辿る一連の運命に刻まれていた必然だったのだ。避けて通ることはできぬ。

 ならば私はどうすれば良い?この先の死に至る道を、伴侶なく孤独のまま進めというのか?

 荒廃した地に緑の息吹を与えるのは、必ず他方からの旅人だ。それを無意識のうちに拒むお前は、決してその荒れた心を肥やすことはできまい。荒んだ心には伴侶はおろか、友人すら根を張るまい。たとえひと時の友人が側を歩こうとも、気付けば再び孤独な旅路を行くことになるだろう。
 だが。

 だが、何だというのだ。

 人は孤独でない。先も言った通り、いくら荒んだ者であろうと、ふとした時に隣をともに行く人間と出会うことになる。たとえその者がいつか離れていくとしても、お前自身が真に孤独になることはそうそうないことだ。
 影に暗い過去を宿した旅人よ、お前はそういったすれ違う旅人に道を示す者となれ。
 過ちを犯した者は、決してその行いを無かったことにはできない。しかし、その行いを二度起こさないよう伝えることはできる。
 これに同じく、お前の辿った苦悩の道、その暗い過去はただただ過ぎ去ったものでない。お前はこの苦心の果てに、心の荒廃と引き換えに滅多に人間の得られない知見を得た。この知見を伝えよ。お前が幸せになることはない。だから己の幸せのために生きようとするな。他者の幸せのために生きろ。それもまた、お前の背負った星の定めだ。

 なぜ私は幸せになれぬ?それが定めなのだと言われたとて、簡単に頷けるものか。

 その通りだ。お前はまだ希望というものをその両腕の中にしっかと抱いている。それがいけないのだ。お前はいつかそれを捨てる時が来る。お前は悟るのだ。己の運命を、辿るべき孤独な道を、何者にも愛されぬまま死を迎えるだけの旅を、そして己が使命を。

 手放してたまるものか。この希望こそ、我が心を再び肥やす種となるべきものなのだ。

 好きに言うといい。その希望が、胸に抱かれているうちに。

 戯言だ。

 戯言ではない。真実だ。己が運命を受け入れろ、決して呪うな。そして前を向け。お前は強い。誰かの幸せのために己の不幸を語れば、いつしかそうして幸せになった者の背に幸せを見出すことになる。
 それまでの辛抱だ。
 孤独だろうと、愛されずとも、幸せは決して奪われない。
 それは人間に与えられた、捨てることのできない二つの宝、不幸と対になるものだ。希望は夢と共に現れ、いつか自らの意思で捨てることになるかもしれないが、幸と不幸は決して側を離れぬ。
 幸せを見失ったのなら、それは幸せが消えたことを意味しない。お前がただ、ふとした幸せに気付けないほどに幸福に肥えたか、あるいは不孝に眼球を塗り潰されたかのいずれかに過ぎない。
 ささやかな幸せを味わえ。幸せを見失ったなら、探そうとするな。青い鳥のように、幸せはそばに隠れている。

 ・・・。

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