子どもの幸せと大人のエゴ

私は常々、子どもの幸せとはなんだろうと考える。親から見た子どもへの祈りは大抵、幸せに生きてほしい。不自由なく、元気に生きてほしいというのが主なものだろうと思う。それは、確かに親目線からみた子どもの幸せのひとつの形であり、そのように生きられたら最後は幸せだったな。と思いながら、そう育ててくれた親に感謝することだろう。

しかしそれは、あくまで無数にある子どもの幸せの中で親目線の中での一番の幸せだと思う。子ども自信が望み、最後にはそんな幸せの形を本当に願っていたのか、ひとつの幸せの形をめざし、そこに向かわせるのは親の、大人のエゴなだけではないのか。

子どもと言っても世界には何億人といるし、親だって子ども以上にたくさんいるのでそれぞれをひとくくりにして考える時点で、的はずれなものに、みんながそれぞれ私は違うよ、という感想しか、出てこないかもしれないが、一人一人みんな違うといってしまったら考えられなくなってしまうので、あくまで子どもと大人単一的なものとして考えていきたい。

じゃあ、実際にこれがただの大人のエゴだったとして、子どもに何か不自由があるのか、大人が子どもに道を示して、大人が考えた子どもが幸せになるための方向性を示すのが悪いことなのか、ダメなのか、そう言われると、ダメというわけではないと思う。

例えエゴでも、それは大人による大人のためのエゴではなく、あくまで子どものためのエゴであるのなら、それは立派で尊いものであると思う。

子どもの本当の気持ちはきっと親がわかることは必ずないのだろうし、いや親と子どもにかかわらず、自分以外の人はみんな自分ではないのだから、すべてをわかり合えることはないのだろうなと思っている。でも、そんななかでもお互いを尊重した考えで、わかりあおうとする姿勢が大切で、その気持ち自体が何事にもかえがたい愛情ではないのかと私は思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?