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ゲームをプレイしました: Baldur's Gate 3


どういう記事か

プレイしたゲームについて抱いた感情、思考を忘れないうちに形に残すために書くことにした記事である。
古今東西あらゆるゲームをプレイしてきたわけでもないし、好きなゲームのジャンルも一般受けするものが好きかといわれるとそうでもないので、レビューとか評論みたいなものではなく、あくまで個人の感想である。
あわよくば未プレイの人の購入判断の参考となれば御の字だが、あてになるかどうかは保証しない。一応ネタバレには配慮するが、完全にまっさらの状態でプレイしたい人はクリア後に読んだほうがいいかもしれない。
気力があれば今後シリーズ化して、新たにプレイしたゲームや過去にクリアしたゲームを振り返って感想文を書くかもしれない。その第一弾というか、試作品である。

こと本記事の対象となるBaldur’s Gate 3においては、GOTYに代表される賞を受賞しまくっている話題作ながら、日本人のイメージする”RPG”像とちょっと違うことや、原作となるD&Dの文脈やシステムへの理解が求められる点から、ある程度の予習をしたほうがよい(必須ではないが、ゲームに対する理解が促進され魅力を享受しやすくなる)と考えている。
そういった用途としてはこの記事は適さないと思うので、そういうのが読みたい人は「初心者向けガイド」的な記事を探して読んだほうがいいと思う。
下記のDoopeの特集記事シリーズなんかがおすすめだ。本ゲーム自体の魅力や初心者へのアドバイスはもちろん、なぜ欧米で大流行りしたのかの背景などについても細かく解説してくれている。

総評

ものっそい消化が難しいゲームである。今までプレイしてきたゲームの中で圧倒的に一番好きかと聞かれたら全然そんなことはない。気に入らない要素を挙げていくとそれなりの数になる。だがそのほとんどは「このゲームはそういうもん」で片づけられてしまう。
そういったスレ違いみたいな感想を排除して、気に入った要素、感銘を受けた要素、ほかのゲームと比べて優れている要素を並べていくと、そのスケールのデカさが凄まじいためにすべてのゲームを過去にした究極のRPGということになってしまう。
じゃあ俺が今までプレイしてきたあらゆるゲームより魅力的かというと全然そうは思わない。ならば逆に全くお勧めできないから買わないほうがいいかというとそれも全く違う、全人類プレイしてこの傑作を一人称で味わうべきだとも思う俺の中の逆張りアンチオタクと盲目信者オタクが永遠の流血戦争を繰り広げている。こいつを俺の中でどう整理をつけてこの先の人生を歩んでいけばいいんだ?

このゲームの異常さ

本ゲームはD&D第5版というTRPGを基にしたCRPGタイトルである。それが何を意味するのかは解説記事なんかを読んで理解してもらうとして、このゲームのすごいところはTRPG特有のライブ感、つまりプレイヤーの工夫やイマジネーションに応じて世界が広がっていく感じをコンピューターゲーム上で的確に再現しているところにある。

その真髄は、なんといっても物語を進めるうえで提示される選択肢の多様さ、そして一つ一つの選択に応じて登場人物や勢力、ゲーム内世界自体に影響を及ぼしながらゲーム内の物語が展開していく緻密な作り込みにある。
当然コンピューターゲームというのはプログラムでできているので、プレイヤーの選択に応じて自動的にコードを生成してゲーム内世界を動的に変容させていくなんて芸当はできないから、必然的にプレイヤーがとりうるすべての分岐に対して自然な物語が展開するよう、あらかじめ膨大なパターンのシナリオの構築とテキストの起こし、ボイスの収録、それぞれのパターンに対するありとあらゆる処理をカバーするプログラム的実装を行っておく必要があり、このゲームはあろうことかそれをやってのけてしまっていることになる。
俺はゲーム制作に関してはずぶの素人だが、それでもこのゲームを実現するにあたって必要となったであろう仕事の量とスケールを想像するだけで眩暈がする。いったいどんな黒魔術を使って作られたゲームなんだ?知力セービングスローどうぞ。
(一説によれば本ゲームのエンディングは約17,000通りあるそうだ。まあ、ほとんどは誤差の範疇に収まる細かい差異だろうが)

ここでいう「選択肢」というのも、単にこちらのミッションを選んだらエンディングAでもう一方ならBですよ、みたいな単純な分岐ではない(場合がほとんどだ)し、どっちを選ぼうが結局目の前の敵を殴るしかないみたいな見せかけの分岐でもない(場合がほとんどだ)。一つ一つの選択肢がプレイヤーキャラの立場や目的を形作り、それにより味方もできれば敵もできて、さらにはそれぞれが主人公の能力やビルドや今までの行いに応じて望む方向に進みやすくなったり却って不利になったりするし、極端な例でいくと進むマップ自体が根本的に変わったりする
例えるならWitcher 3の後半部分のような展開がゲーム全編にわたって展開され、その総量がWitcher 3の倍近くあるみたいなイメージだろうか。言い忘れていたがこのゲーム、サブクエをちゃんと回収しながら真面目にプレイしていくと一周100時間くらいかかる。ちょっとイカレている。

選択肢ってなんだ、自由度ってなんだ、ゲームの魅力ってなんだ

以上がこのゲームの凄いところであ(ると俺が勝手に思ってお)り、それと同時に俺の中で引っかかるところだ。凄まじい仕事がなされた凄まじいゲームであることはわかるが、それってこのゲームが魅力的であることに直結するのか?

そもそも、俺個人の経験としてTRPGのプレイ経験が全くないうえに、見下ろし系のRPGもほぼプレイしたことがない。このゲームが気に入る気に入らないというより、ゲームジャンルというか、ゲームシステムそのものに対するとっかかりが俺にとってはまず難しい。
かろうじてターン制でユニットを動かしながら戦うゲームはやったことがあるが、あれもストラテジーゲームだし……
したがって、TRPG感の再現がすごい!だから傑作!と言われても、TRPGの魅力自体がピンときてないわけで……となってしまう。俺は良識ある善良な大人なので、それは個人的な文化資本の問題だからと大人しくしているのだが、同じ理由で合わないだの過大評価だの言いたくなる気持ちも分からんでもない。

また、先ほど述べた異様なまでの選択肢の広さについても、誤解を恐れず端的に言ってしまえば「選択肢が広いのはわかったけど、それの何が面白いの?」という感想がどうしても湧いてくる。
このゲームのシナリオが面白くないというつもりはない。普通にめっちゃ面白い。だが、俺が今までプレイしてきたゲームの中で一番シナリオが面白いと思っているNieR: Automataよりもストーリーが面白いかと言われたら全然そんなことはない分岐が多くてエンディングの数が膨大だからってそれがそのままシナリオの魅力にはならない。Detroit: Become Humanだってものすごい勢いでシナリオが分岐していくゲームだったが、あれがそれだけの理由で史上最高のゲームと呼ばれていた覚えはない。

また、D&Dの世界観に忠実に沿って作られているシナリオであるため、考察の余地はフロムゲーなんかと比べるとだいぶ見劣りする。
この敵はなんとかいう神の手下だと言われたら、その神についての情報は調べればD&Dの設定としてすべて出揃っているので、その敵の目的や動機や価値観などに想像力を働かせる余地は基本的にほとんどない。ゲームのシナリオにそういう要素を求めるのは少数派かもしれないが。

また、「選択肢の広さ」がそのまま「自由度の高さ」に翻訳できるかというとちょっと違うと思う。正確に言うと、「自由度」のベクトルが俺が最近やってきた「自由度の高いゲーム」と違う。

Baldur’s Gate 3のシナリオ分岐の凄さは前述の通りで、自分の価値観や判断次第で自分と世界の関係が多様に変化していくという意味での「自由度」は高い。一方で、このゲームのマップはオープンワールドではないし、各フィールドの中で行けるところと行けないところはかなりはっきり分かれている。ストーリー後半のフィールドに到達すると初期のマップに戻ることもできなくなったりもする。
戦闘もターン制で、いろいろな行動がとれるとはいっても、各ターンでできることの分量は決まっているし、すべてのアクションが行動⇒判定⇒結果処理の順を追って展開されていく。ジャンルの特性といえばそれまでなのだが、アクションRPG系のタイトルと比べるとテンポが悪く感じられる。

この「自由度のベクトルの違い」が、同様に「自由度の高さ」という言葉で評価されたゼルダの伝説BotW/TotKやELDEN RINGといったタイトルとの比較を難しくしている。
上に挙げたようなゲームにおける「自由度」というのは、どこへでも行ける、何でもできる、何をしてもいい、という感覚を(たとえ錯覚でも)与えてくるようなフィールドや世界観やシステムの設計にある。一方で、シナリオとして提供される基本の目的自体は「魔王を倒して姫を救え」「ルーンを集めて王になれ」だけであり、そこから逃れるすべはない。

「制約のある世界の中で、どういう選択肢をとって何者になるかはお前次第」という自由度と、「決められた目的に向かって、どこに行って何をしてどうやってたどり着くかはお前次第」という自由度、そのどちらを魅力的と感じるかは、結局は好みの問題なのだろう。
俺は後者が好きだ。

お前だけのBaldur’s Gate 3を見つけろ

もう一つこのゲームが話題となり圧倒的な高評価を集めた理由として、D&DをベースにしたCRPGという、ともすれば前時代的ともいえるようなシステムのゲームだって、情熱と愛情をもって高い完成度まで仕上げていけば、いいゲームだというだけで成功できるんだという、閉塞感ある現代ゲーム業界へのアンチテーゼ的なロマンがあったんだろうと認識している。

大手ゲーム会社の新作に従量課金要素がこれでもかと詰め込まれているのが当たり前の光景になっていたり、ギャンブルじみた集金装置と化しているゲームとは名ばかりの携帯アプリが蔓延っていたりと、拝金主義が横行するゲーム市場にみな辟易している中、Baldur's Gate 3のような純粋で愛と情熱にあふれたゲームが評価されて成功するって素晴らしい、意地悪な言い方をすればこういうゲームが評価されて成功する世界であってほしい、という願いが特に欧米のゲーマーコミュニティの中での本ゲームの圧倒的歓声の背後にある気がする。

小さいころからTRPGに親しんできて、Baldur's Gateの一作目二作目のようなタイトルとともにゲーマーとして育ってきたような人にとって、Baldur's Gate 3は夢のようなゲームであることだろう。自分が全くその通りの来歴に当てはまらないとしても、ゲーム文化の発展や醸成のされ方として共感しやすい土壌が、ひょっとしたら日本よりも欧米のほうが整っているのかもしれない。知らんけど。
そういう意味で、Baldur’s Gate 3の成功や魅力に心から共感できる日本人は多くないと思う。だが、誰かがBaldur's Gate 3で叶えられた願いが自分は別のもので叶えられるかもしれないんだとしたら、Baldur's Gate 3の魅力自体が理解できなくてもいいし、代わりに自分だけのBaldur's Gate 3を見つけられればそれでいいのかもしれない。

俺にとってのBaldur’s Gate 3はPlanet Zooである。

かつてZoo Tycoonというゲームがあった。動物園を作って運営するゲームで、展示スペースを作って動物を飼い、動物が過ごしやすい環境を作り、それらを観に来る客をもてなして金を稼ぎ、動物園を発展させていくゲームだ。
Zoo Tycoonと、その続編であるZoo Tycoon 2は、俺の幼少期の思い出を形作ってくれる思い出のゲームだ。俺にとってはマリカやスマブラに匹敵する。

だが、(当時は子供だったので詳しい事情はよく知らないが)開発スタジオが解散しただかなんだかで、正当な続編と呼べるZoo Tycoonは以後出ることがなくなってしまった。そうして昔の思い出のまま朽ちると思っていたゲームは、2019年に当時の開発者を含む人員で立ち上げられたFrontier Developmentsの手によって、突如Planet Zooというタイトルの精神的後継作がリリースされたことにより、実質的に復活した。Zoo Tycoonとともに過ごしていたガキの頃の俺に対するラブレターのようであった。
残念ながら一般的に大流行りするタイプのゲームではないから、Planet Zooがいろいろな賞を総なめにして大絶賛勝ちまくりモテまくりになる世界線に俺はいなかったが、Planet Zooが存在してくれる世界にいられただけで俺は十分に幸運である。

そういう体験をしたことがある身からいうと、Baldur's Gate 3が刺さらなくたっていい、自分の心の大切な一部になってくれるゲーム(に限らない任意のコンテンツ)に出会いさえすれば、それがお前にとってのお前だけのBaldur’s Gate 3だからそれでいいんじゃないかなと思う。
みんな自分だけのBaldur's Gate 3を見つけよう。そして、その商業的成功によって、俺たちが自分だけのBaldur’s Gate 3に出会う可能性をちょっとでも上げてくれたBaldur's Gate 3というゲームに感謝しよう
もちろん、Baldur’s Gate 3でそんな体験ができるならそれに越したことはないが。

まとめと余談

Baldur's Gate 3は歴史に残るとんでもないゲームだ。だがそれによって誰にでもおすすめできるゲームかというとそんなこともない。実際にプレイして気に入るかどうかは人それぞれだし、それでいいと思う。ただそれでもやる価値はある。でも一周100時間かかるんだよなあ。そんな感じである。
消化が難しいと冒頭で言ったのは、その辺のぐちゃぐちゃが俺の中でまだ処理途中だからである。そんでその処理を有耶無耶のままにしたくないというのがこの記事を書き始めた動機である。
今後数年でこのゲームの魅力が身にしみてわかってくるかもしれない。はたまたやっぱり大したことなかったわと事あるごとに記憶を掘り返してあることないこと叩いて自己満足に浸る変な奴になっているかもしれない。
未来はわからないけど、それは自分の選択次第。好きでも嫌いでも、世界は回っていく。そんな感じである。

このゲームの宣伝文句として究極のRPGだのいう文言を見た気がするが、確かにこのゲームが実現したスケールのでかさと技術的な完成度の高さは、他が簡単に真似できるようなものではないだろう。そういう意味で、このゲームは今現在人類が達成できる水準における究極のゲームの一例と言えるのかもしれない。

そう考えると、究極のゲームって何だろう。BotWみたいに世界のどこへでも行けるうえに、自分の選択によってストーリーやその世界自体がBaldur's Gate 3みたいに変化していくみたいなゲームがいずれ登場するのかもしれない。
そう書いてて思ったけどそれってWitcher 3のことかも。あれって出たの2015年とかだよな。あいつやべぇな。
もしくは、AIの技術が今後発展していけば、先ほど俺が不可能だと言った、プレイヤーの選択に応じてゲームのプログラムコード自体が特定のプロンプトの範囲内で動的に生成されていく、スーパーAIゲームエンジンみたいなのがこの先出てくるのかもしれない。そういう技術が発展していけばもうそのゲームの中では現実と見分けがつかないレベルの仮想世界が構築されていくことになり、いつしか現実と虚構が逆転して……って書いてて思ったけどそれってマトリックスのことかも。あの映画って出たの1999年とかだよな。あいつやべぇな。

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