「まちがえる脳」から生まれた在宅医療のデザイン
櫻井芳雄先生の「まちがえる脳」という本が2023年に出版されている。
大変刺激的な本である。私が一番印象に残っているのは、コンピュータは間違わないように情報処理を行うものだが、脳はもともと間違えるような情報処理を行っているということ。このことを分かりやすく解説している。
脳内で信号を発生して伝達している細胞が「ニューロン」である。このニューロンが他のニューロンと接合している部分が「シナプス」である。
生物学で習ったはずなのだが、私は何となく、あるニューロンから別のニューロンに伝わっていくのが脳内の情報伝達だと思い込んでいた。
AからB,BからCのように順番に伝わっていくイメージである。
したがって、まちがえる脳やニューロン、という言葉を見た時は、AからBに正確に伝わるのが90%くらいで、BからCに伝わるのが90%くらい。だから、AからCに正確に伝わるのは81%くらいになる、といった伝言ゲームのようなことを考えていた。
ところが、何とAというニューロンが信号を発した場合、Aと接したBというニューロンにその信号が伝わるのは、せいぜい30回に1回程度だというのだ。「しかも伝わるタイミングはランダムだという。このような不確実な信号伝達では脳がよく間違えるのは当然といえる。」(前掲書 第1章より)
もちろん、私たちの脳が30回のうち29回間違えて伝達しているわけではない。信号を伝える際に、多くのニューロンが協力して同時に信号を送ることによって伝わる確率が上がっているらしいのだ。
この多くのニューロンが協力して同時に信号を送ることによって、伝わる確率が上がっている、というのは、まさに私が従事している在宅医療現場そのもののように思える。多数の関係者が同時にいろんなところから情報を発していることで、100%正確というよりも「90%以上は確か」といった情報が共有されていく。
また、この本の第2章では、脳が間違えるからこそ、アイディアが生まれるという論が語られる。また、脳はある部分が損傷しても別の部分がカバーすることも紹介されている。
これもまさに私たちの在宅医療や往診の仕事の特徴である。
私たちの情報伝達は1対1で正確に伝えていくものではない。曖昧である。コンピュータの情報伝達に比べて、はるかに正確さは劣っている。間違える。
しかし、間違えるからこそ、新しい発想やアイディアが生まれることがある。
1つの例を示す。私たちの診療所ではステロイドを使う時、デキサメタゾンをよく使う。これはこの薬が皮下注射や筋肉注射でも使用できるからだ。
在宅医療現場では、点滴ルートを確保するのが困難なことがある。そんな際、皮下や筋肉に注射できる薬剤は極めて有用である。
実は私自身は6年前までほとんどデキサメタゾンを使用したことがなかった。ステロイドといえば、ほとんどがメチルプレドニゾロン(商品名:ソル・メドロール等)かプレドニゾロンを使用していた。
ある時、私は薬品を卸の業者に発注するとき、プレドニンとデキサメタゾンを間違えて注文してしまった。
デキサメタゾンが間違えて来た。返品しようかと思ったが、病院勤務時代、デキサメタゾンを関節腔内に注射することによって関節炎を治療していた整形外科医がおり、治療成績が良かったことを思い出した。
調べてみるとこの薬、直接溶解もせずに関節腔内だけではなく、皮下や筋肉にも注射投与できる。
ある時、私は往診で呼吸困難の患者宅に訪れた。ゼーゼーと聴診器なしでも聞こえるくらいの喘鳴である。
気管支喘息の既往がある。エコーでは心肥大はあまり目立たず、胸水もない。下腿浮腫もない。心不全よりは喘息発作を疑った。ステロイドを投与することにした。
ところが、救急車(私の診療所ではバンタイプの軽自動車に警告灯とサイレンをつけて使っている)に、今日はソル・メドロールを積んでなかった。しかし、別の患者さんに使用するかもしれないと積んでいたデカドロン(商品名。一般名デキサメタゾン)が目に止まった。
使えるかもしれない、と皮下注射でデキサメタゾンを使用した。結果は良好で2時間後患者さんの喘鳴は著明に減った。
これが私の在宅医療現場でのデキサメタゾンとの出会いである。以後、私は何度もこの薬に助けられることになる。(このことについては項を改めたい。)
デキサメタゾンを往診現場で皮下注射で使うというのは、間違えて注文した、間違えて持ってきた、からこそ生まれた在宅医療現場のデザインだった。