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討論的コミュニケーションスタイルの孤独
僕は決して陽キャでは無いんだけど陰キャでも無い。
強いていうなら偉そう。
コミュニケーションはとても好き。
人と話すの大好き。
だけどスタイルが討論なのだ。
つまり陽キャからも陰キャからも引かれる。
そう言う種類の孤独を抱えていたわけだが同じような孤独を抱えてる人はそこそこいるらしい。
この仲間がいると言うことに気がついて救われた部分があるので、僕もポエム的文章を残しておこうと思う。
一般的に討論はコミュニケーションではないのだ
討論の始まりとしては反論や疑問から始まる。
ただし反論や疑問は一般的にはストレスなのだ。
敵意の表れとさえ思われる。
ここはしっかり認識した方がいい。
敵認定されてしまうと討論にはならずただただ嫌われるのだ。
悲しいかな。
ただただ厄介な人間だと思われる。
討論好き的には反論とか疑問がくると小躍りするけどね。
それはかなりの異常者なのである。
討論をするには関係性や背景がいる
討論自体は一般的にはストレスなので、その討論をすることに意味があると思ってもらえるかが重要になる。
つまりこの人建設的な人なの?と言うことである。
討論的なコミュニケーションスタイルを取る人が建設的だと認めてもらうには実行力を身につけるしか無い。
こいつ口だけじゃねーんだなって思わせられる説得力がないとただの嫌なやつになる。
討論好き的には討論自体がクリエイティブなんだけどね。
一般的にはそうは思ってもらえない。
信頼関係を積み重ねていくしかない。
話を聞いてもらえない時は信頼がないからなんだと素直に認めた方がいい。
建設的だと思ってもらうためのアプローチにはいろいろな形がある。各々のスタイルを見つけていく必要がある。
個人的にはエンジニアになったことが転機だった。
言葉だけじゃなくてプロダクトを作るという形で伝えられるようになったから。
口だけで説得するのって無理ゲーなんですよ。
ソクラテスレベルじゃないと。
ソクラテスなら
錯覚資産的なものがあって、この人の言っている話なら聞いておこう的なことがあると思う。
これはあるんだよ悔しいけど。
「俺が言っていることが正しいのに!」
わかるよその気持ち。
でも人は話の内容をただ論理的に受け取っているわけではない。
悲しいかな誰が言ったかが大事なのだ。
何者かになるというのは一つの処方箋にはなるんだ。
くだらないけどね。
討論的なコミュニケーションスタイルを自認する人は、誰が言ったかを極力排除して聞きましょう。
誰の意見も純粋に聞こう。
背景情報のなさで無碍にされて悲しかったでしょ。それを忘れないようにしよう。
まとめ
討論的なコミュニケーションスタイルの人が生きやすくなるには諦めずに実績を積み上げていくこと。
逆に積み上がって行った後は討論的素養が役に立つことも多いなと感じる。お仕事っていうのは提案と説得の連続なわけです。
ということは、どうしたら討論できるか話ができるかにこだわってきた人にとってはその生き様自体が仕事に適合するのです。
「わかってもらえないな、わかってほしいな」という思いを持ってきた孤独な時間。それは無駄になりません。
大器晩成だからがんばろ。