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千葉雅也さんのつぶやきについて

千葉雅也さんつぶやきをみて、脳が刺激された。
色々な思考が浮かんできた。
そのまま忘れてしまうのは嫌だと感じ、書き留めることにした。
書き留めると、それを誰かに読んでみてほしいという気持ちになった。
拙い、取り留めのない思考の軌跡だが、誰かに読んでもらえたら嬉しい。

下記に、千葉雅也さんのツイートを引用する。

@masayachiba
腐海を焼くのはダメで、もっと根本から考えないと。
というのは、ナウシカを観たならあらゆる領域で引き受けるべきことで、
環境問題の話に見えるが、政治やジェンダー・セクシュアリティ問題にも言える。
腐海とは、人間の「否定性」あるいは「無意識」のことである。
午前7:37 ・ 2021年8月13日・Twitter Web App

@masayachiba
ほんと今、「腐海を焼けばなんとかなる」と思ってる愚かな人々、
みたいなのがネットで毎日騒いでるわけよね。
午前7:39 ・ 2021年8月13日・Twitter Web App

この呟きについて、文章を記載する。
この呟きは、今の自分にとって重要な物に思える。
この呟きの上に様々な出来事が重なっていような気がした。

この呟きは交差点である。
様々な場所へと繋がっているように思うのだ。

交差点1

この世にあるものには、言葉が張り付いているように感じる。
本来はそうではないのかもしれない。

想像することしかできないが、
赤瀬川源平さんのカニ缶のように、全てがひっくりかえっているのかもしれない。本来は言葉が先にあるはずないだろう。

しかし、私たちの目に映る世界には、言葉が張り付いている。
この呟きの「腐海」という場所は、きっと全ての言葉が剥がれた場所だろう。あるいは、張り付いた言葉が腐りおち、剥がれかけているところだろう。

それは、とてもおぞましい光景であるに違いない。

例えばスーパーマーケットの棚に「腐った果物、かびが映え、黒い色に変色し、液体が垂れて、鼻を衝く臭いを醸しているもの」が混ざっていたら、私達はどう思うだろう。
その腐った果実はもちろんのこと、その隣にあるものや、周囲の商品にも手を付ける気分にはならないだろう。

現実の空間に腐海の一部が現れたら、そのような嫌悪感を私達に与えるのだと思う。

目の前に「ある」ということは、そのぐらい強い力を持っているが、「ある」の形は、そのようなあり方だけではないはずだ。

言葉もそこにあるのだが、そのあり方はとても独特だと感じられる。
こうして表示される言葉や、口から出た言葉が聞こえるとき、あたかも「スーパーに陳列された物」のようにあらわれるが、目の前にあるもの「そのものに張り付いている言葉」があるように思えるのだ。

そして腐海は、そのような張り付いた言葉たちがみんな剥がれ落ち、剥き出しになっているのだろう。そんな景色を想像する。

言葉と腐海の関係が、交差点の1だ。

交差点2

病気と腐海について。
筆者は今年、うつ病と診断された。

腐海には、瘴気が満ちていて危険だとされる。
腐海に存在するものからは、胞子が放出されていて、それを吸うことにより、様々な症状が現れる。

筆者のうつ病も、この胞子を体内に吸引してしまったことにより、引き起こされた一つの症状なのではないか。

僕に現れたその症状は、社会と結びつくための「動機」を腐らせた。
いままでのように、社会とかかわることは、もうできないように思われる。
社会の中で有用性を示し、有用性を価値として優劣が判断されるとしたら、きっと私という存在は、生きるに値しないと言われると思う。

この呟きは、社会と腐海、腐海に浸食されてしまった人との関係に繋がっている。

交差点3

数日前、母がコロナウイルスに感染した。

LINEアプリで母から直接連絡が送られてきた。
短いやり取りをし、家の玄関に置き配する指定をし、物資を送った。
荷物は無事に受け取られたと連絡がきた。

母がいま生きているか、これを書いている今、私にはわからない。
容態が急変し、死亡している可能性も0ではない。
母は一人で4畳半のアパートに住んでいる。

母の死の可能性は、僕の腐海の入り口の一つに思われる。

その入り口に、一歩、足を踏み入れてみる。
彼女は、よく生きた。と思う。
そんなことをあっけらかんと思う自分に気づく。
彼女が死んだとしても、私のスティグマは無傷らしい。

いつか、後悔と悲しみがこみ上げて、僕を飲み込むだろうか。
しかし、今はその時ではないみたいだ。

それはたぶん、私の隣にはパートナーがいるからだろう。
結婚したことで、母の持っていた権力は失効した。
権力は呪いといってもいいかもしれない。

この呪いも、腐海の産物だ。

私は結婚して、その相手とそれぞれの呪いを半分ずつ交換した。
交換したことにより、どんな機能が働いたのか、
今はまだ整理ができていない。

交差点4

無期懲役の服役者と社会。

先日、動画サイトにアップロードされていた、動画を見た。
報道番組の特集を切り抜いた動画だった。
内容は無期懲役の服役者を取材したものだ。
ここでは、その服役者たちが行った行為には言及しない。

その服役者たちは、塀で囲まれた空間で生活をしている。
昨今は、仮釈放を与えられることなく、一生を終えることもあるという。
そうなった場合、その人は残りの人生を、塀の中で過ごすということだ。
つまり、世界は塀の中だけであり、その外でることはない。

正確には、塀の外にも世界は存在しており、関与できないということにもならないのかもしれないが、ひとつの視点としては、世界は塀の中で完結しているということもできるのではないか。

私は世界を広いと感じるが、服役者にとっての世界は狭い、といっていいだろうか。
塀の中での生活にはルールがあり、看守がおり、自分の部屋があり、仕事があり、休み時間があり、食事の時間がある。
それらが構成する世界は、シンプルであるように思われる。

シンプルになった世界の居心地は、どのようなものだろうと想像する。
私は世界に満足していない。

呟きの交差点は、社会へと繋がっている。

交差点5

先日、家の前にある駐車場でねずみの死骸を発見した。

駐車場を通るたび、ねずみの姿は少しずつ変わっていった。
2日間くらいだろうか、家に籠っていて、ねずみの死骸を見ない日があった。
数日ぶりにねずみの死骸があった場所を見ると、アスファルトにネズミの皮が広がって張り付き、その皮の上に黄ばんだ小さな骨がいくつか散乱していた。

死体を発見したときにたかっていたハエたちが卵を植え付け、幼虫たちが、死体を食い尽くしたのだろうか。
それとも、数日の間に降った雨が、ネズミの死体を溶かしたのか。
詳しいことはわからない。

死の価値の多様性。

私からみたねずみの死と、ハエたちからみたねずみの死の間には、越えられない一線がある。
僕たちは人間の生を生きているから。

この呟きは、死の多様性に繋がっている。


千葉雅也さんのつぶやきに思いを巡らせてみた。
このつぶやきは、多くの人にとっての交差点になっているような気がする。

この記事を読んでくれた人がいたとして、時間を無駄にしたと思わせてしまったら申し訳ない。
もし一緒に腐海について考えを巡らしてもらえるようであれば、嬉しい。

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