「チップ」および「高評価」についてわたしの思うこと

 noteは「だれもが創作をはじめ、続けられるようにする」ため、チップを他人へやれる仕様とし、チップをやることで対象記事を高く評価する権利を得る仕組みを運用し始めました。

 今回の変更を受け入れることは、創作物を(たとえば出版社が評価する、創作大賞に値する良質のものであっても)サービス対価に付随するチップをやる程度の存在である、とみなすnoteのスタンスへの支持へつながると考えています。この場合のサービスとは第三次産業に属するものを指します。
 それに、創作という言葉を掲げ、言葉を選び紡いでいく小説をバックアップする姿勢を取るnoteが、表に出る自らの言葉にこだわらないように見えるのはどうしたものかと思うばかりです。
 サポートという言葉は気軽に少額の金銭をやり取りするにあたって重たいし不釣り合いだ、などの意見はあってもおかしくないですが、「創作をサポートする」のがnoteのスタンスだとわたしは思っていたわけです。
 サポートに代わる言葉もまたnoteのスタンスを表すものと捉えると、彼らは「サポート」と「チップ」とを等価な概念とみなしていると理解しました。あるいは、「チップ」とは「サポート」を"アップデート"した概念かもしれません。

 現実世界(特に日本語を母国語とする文化圏)において、応援したい人にたとえば「サポートしたい」と思うことはあっても「チップをやりたい」という人は殆どいないでしょう。そうでありながら当人の姿が見えないオンラインの世界でそれが可能になる道理がどこにあるのか、わたしには不明です。
 どちらも人間どうしのやり取りであって、そこには金銭のやり取りの前に相手への敬意があるとわたしは考えています。お金にどのような色がつくかは、その敬意の程度やそこから発せられる言葉によると考えています。
 システムを構築・運用するにあたり、これを踏まえてユーザーが「しょうがないな」と思ってだまされるくらいの愛嬌やしたたかさ、言葉の選択があってもよいように思いますが、高望みし過ぎですかね。

 また、「オススメ」が「高評価」という言葉に変更されたのもわたしにとっては好ましくない変更でした。それを変更した日付以降のものが「高評価」指標となるならまだしも、過去に「オススメ」したものまでが「高評価」したことにすり替わっています。
 手前勝手な視野で他人を評価するのではなく「オススメ」するスタンスが好ましいと感じてnoteを選んだ過去の価値観が、今回の変更により強制的に上書きされたように感じます。
 noteは「オススメ」と「高評価」とを等価であるとみなしたため、過去のものまで書き換えたのだと理解しました。そんなことまで考えていないのかもしれませんけど。

 note公式アカウントからこの変更に関するオフィシャルな発表は無いようです(受信拒否設定の可能なメールにおいては、連絡があったようです)。オフィシャルな発表があれば、創作物と創作行為との境目が曖昧にみえるnote株式会社の「創作」への考え方が明らかになると思ったのですが、今はまだわからないままです。
 noteの目指すところが「ニューヨークのような街」であるなら、チップが当たり前なのかもしれませんね(ニューヨークに行ったことがないので単なる想像ですけど)。もしそうだというのなら、最初からチップ制度を備えていてもよいはずです。


 言葉にこだわりすぎる、という意見が出ていることも知っていますが、これについてわたしはまったく理解できないし理解する気もありません。言葉による創作を例にとれば、言葉へのこだわり抜きには進まないですし、自分の心のうちを(エッセイやものがたりなど形式を問わず)本気で外へ表出させるにあたって、いい加減な言葉での表現を自ら由とする人はいないからです。
 仮にいい加減な言葉でつづられた文章が投げかけられたとして、いったい誰の心が動きますか、ということです。それは語彙の豊かさや言い回しの辞書的な正確さとは異なる軸で語られるべきものです。