あったあった
ここ数日、本棚を探していて、やっと見つけた。
情報は、受けとる側にその意志がなければ伝達は不可能である。この前提を無視した上で、その社会に情報を氾濫させ、取捨選択を各人の自由にまかせれば、人びとは違和感を感じない情報だけを抜き出してそれに耳を傾け、他は拒否するという結果になる。それは結局、その人の感触の確かさを一方的に裏付ける作用しかしないから、情報が氾濫すればするほど、逆に、人びとは自己の感触を絶対化していく。これは結局、各自はそれぞれ自分で感触し得る世界にだけ住み、感触し得ない世界とは断絶する結果となり、情報の氾濫が逆に情報の伝達を不可能にしていく。それでいて本人は、自分は多くの情報に通じ、社会のさまざまなことを知っているという錯覚は持っている。
引用が長くなったけれど、ちょくちょく立ち返る本に、山本七平の書いたものがある。
情報について「自己の感触と違うものほど価値がある」と山本はいう。文字や映像等によって伝達され、人間の判断をより高次に導くものを情報だとすれば、そこには取捨選択があって然るべきだし、時間をかけて情報を積み上げれば、人はさまざまな局面において間違わない判断をするようになる、つまり成長するはずである。しかし山本はそれとは異なる傾向があることを、すでに昭和50年代に刊行された本で指摘している。
一方で、下記のような文章を見つけた。
「エコーチェンバー」とは、SNS上で、自分と似たような価値観や考え方のユーザーをフォローすることで、同じようなニュースや情報ばかりが流通する閉じた情報環境のことをいいます。
「フィルターバブル」は、ユーザーの好みを学習したアルゴリズムによって、そのユーザーが好む情報ばかりがやってくるような環境をいいます。
SNS時代に気をつけたい、んだそうである。SNS時代っていつから始まったのであろうか。知っている人がいたら教えてください。
SNSがあろうがなかろうが、人間は自分に都合のいい情報を選択したがる習性があると知っておいた方がいい。たとえば、贔屓のスポーツチームが負ければ、そんな情報は知りたくないのである。なんや、今日も負けたんか! ええいくそう。
情報を得て成長するとはどういうことか。
その情報に触れた後で、自己が変容するということである。
「世の中は、自分の身体を含めてすべて分子や原子でできている」と学んでどうにも奇妙な気持ちになったことはないか。「貨幣の価値は相対的なもので、世の中は信用で成り立っている」と学んで、急に財布の紙幣が紙切れにしか見えなくなったことはないか。それを知る前にはもう戻れない。自己が変容したからである。情報により自分の思っていた「正しさ」が破壊され、更新されていく過程が成長であるとも言える。
情報は自己の感触と違うものほど価値がある、とはたとえばこのようなことであって、情報を得て成長するということはつまり、そういうことであるとわたしは思う。