ロングツーリングの記憶ー17 真人公園でのこと
文章でロングツーリングの心の風景を書く試み。終盤に入ってきました。
ある年の5月連休、神奈川を出発して、
宗谷岬を経て走り続けた私は、青森、秋田と走ってきたのでした。
ここまで2000キロ以上走ってきて、
自分と対話することにも慣れてきています。
これまでのロングツーリング履歴はこちらから。
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真人公園。
日本さくら名所100選のひとつ。
独りで走り続けていると
人の集まる場所に来てみたくなった。
朝、屋台の準備を始めようという時間。
人の生活のあるところ、という空気がある。
薄曇り。
公園のなかは
昨日の平滝沼公園とは違って人の気配が濃い。
平滝沼ももちろん人の手が入ってるのだけれど
普段訪れる人の数の違いだろうか。
この時期立ち寄っただけの私には想像するしかない。
昨日も結局は
自分をいじめるようにめちゃくちゃに走ってきた。
昼前からギラギラとして道に挑みかかるような気持ちで。
今日はどこまで。
さあ。
そろそろゆっくり流してもいいだろう。
そう思うのも何度目か。
大潟で桜を見たときの、あの衝撃は何だったのだろう。
それまで見たことの無いものを目の前にしたときの
なんだこれは、という驚き。
芸術は……
心地よくあってはならない。
岡本太郎の言葉。
心地よい風景は、芸術なのか。
枝が折れそうなほど花をつけた桜。
茎が見えないくらいいっぱいに咲いた菜の花。
なぜ息を合わせたように一斉に咲くのか。
命のエネルギーを感じ、自分の心が動かされる。
そういう体験をした。
私は猛烈に叫びたい。
この風景のなかで。
そういう衝動があった。
叫んでいたのは桜であり、菜の花であったのか。
それに共鳴した私が叫びたくなったのか。
なんだこれは、という驚き。
猛烈に叫びたいという衝動。
その感情はいつまでも続くことはない。
感動とは
対象に出会った一瞬に心のなかで弾けるものだ。
心はその余韻を引きずって何とか言葉で表現しようとする。
それが言葉にならないもどかしさがある。
そう、言葉って、もどかしい。
私は今日、美しい風景を見ました。
言葉にしてみるとその程度のことだ。
その程度の言葉のなかに私が詰まっている。
岡本太郎はこうも言った。
人生即芸術。
風景を見て心が動いた自分自身。
彼はその心の動きを自分なりに表現するところまでを含めて
人生即芸術という言葉で括ったのだ。
桜の咲く静かな公園は思索に向いているのかもしれない。
そういえば藤原正彦が言っていた。
偉大な数学者を輩出する土地には必ず美しい自然があると。
人の内面はそのような土壌で育まれるのか。
自分が身を委ねられる環境があって初めて
思考を遊ばせることができる。
バイクに乗って
美しさに触れること。
自分の内側を逍遙すること。
私は
他の手段で同じことができるだろうか、
と考える。
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ちょうどよい話題だったこともあり
拝啓 あんこぼーろ さんの企画に
違う切り口からチャレンジさせていただきました。
最後までご覧下さいましてありがとうございます。またお越しくださるとうれしく思います。