救急車に乗ったこと
昨日、たまたまそういうことを書いた。
ほんとうに、ひょいと書いた。
芋づる式に記憶が出てきたので、メモしておく。
医療従事者に感謝します、というのは、空念仏ではない。わたしは本気である。
でも、本気で感謝して、貴重な時間をわたしごときが消費し、先方にありがた迷惑だと拒絶されるのは避けたい。だからというわけではないけれど、noteの片隅で、感謝します。そして、わたしのみた救急救命士の姿を書き留めて、わたしの居るのがnoteの片隅ではあるけれども、知ってもらいたいのであった。
* * *
わたしは、特定の救命救急士、救命救急医に感謝している。
この職業は、人に寄り添うだけでなく、高い技術と胆力を併せ持たないと、つとまらない。
自分が無力で、生きるという崖から落ちそうなときに、正気を繋ぎ止めてもらえる気がしたのであった。
この世、というものが乖離するときは、自分の周りに薄いベールが張り巡らされて、別の世界に来たようになる。周りの音がワンテンポ遅く聞こえるような気がする。
そういうときに、救命救急士、救命救急医は、手を握って、心をこの世界に繋ぎ止めてくれる存在だった。実際に脈を看る、というようなことだけでなく、心理的に、手を握ってくれる存在であった。
救急車のなかの会話、どんなだったか。
「本当にまずいときは、こうなるのだけれどそうなっていないから、いまは安心していいですよ
「よくないときは、血圧が急に高くなったりするんです。ほら、いま大丈夫です
「会話、いま、できてますよね。さっきも聞きましたけど、朝は何を食べましたか?
「顔色、大丈夫ですね。ぼんやりしてませんか? 気分が急に変わったら言ってくださいね。
それは、患者を安心させるだけでなく、3人ひと組でやってきた救急隊の2人に現状を共有するものでもあったのだろう。
「いま」が急変しないか、みていてくれる。早く病院で診てもらいたい、という焦りをほぐすように、(患者に変化が無いか見逃さない意図もあって)丁寧に目線を合わせ、寄り添う。
いま思い返すと、これは完全なるSCIENCEである。起こっている事象を正確に把握して、自分の頭で何ができるかを考え、今ある道具で最善を尽くす。
起こっている事象を正確に把握するには、冷静な観察眼が要る。自分の頭で考えるには、知識、経験だけではない。洞察力、本質を見抜く力が要る。見えないところで何か起こっていないかまで思いを巡らせ判断する必要がある。そうして、何をするか、あるいはしないのかを決める。それを遂行する手先の器用さ、段取りの正確さが求められる。そして何より、「ここまではわかるけれども、ここから先はわからない」とはっきり伝えてくれる。自らの限界を知る、ということ。
そこには、職業の垣根の部分もあるだろうけれど。
わたしからみた彼らは、文系、理系といった歪んだ切り口を軽く飛び越えた、本物の科学者集団であった。
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