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わたしが考えるときに立ち返るところ
わたしがものごとを考えるときに立ち返るところは、ちびっ子広場です。ウソです。ヘッダー画像が内容と関係ないのはいつものことです。うへへ。わたしは自分の書き留めたものを人に読んでほしいのかそうでないのか、両方の気持ちがある。
いつもの話 + α
わたしがものごとを考えるときに立ち返るところ
・古今和歌集
日本語、というものを考えるときにここに軸を置くと、考えが正される気がする。それはわたしがそう思っているだけの話ではあるけれども。自分の使っている母国語は、会ったこともないたくさんの過去の日本人によって1000年以上前から大切にされてきたのだ、と知るだけでも、その価値が想像される。時を隔ててなお届く当時の感性は、日本人として普遍的な美意識と言ってもよいと思う。
・責任という虚構
人は価値基準や判断基準というものを持っているけれども、それは各々の道徳観を源とする。各人のその源を辿ると、そこにあるからくりは確固たるものではなく虚構であった。それを「なるほど」とみるのは論理的であり、「まさか!」と驚くのは感情的である。まだ学生の頃、それまで手元にあるお金の価値は絶対的だと無邪気に信じていたのが、そうでないと気づいてしまった衝撃に似ている。
人はどこに重きを置いて行動を始めるのか、ことあるごとに立ち返る。この本に書いてあるいくつかの事例、考察を思い出し、読み返し、考える。
・「待つ」ということ
「待つ」ことの多面性。
自分の外側の世界は、自分で動かすことはできない。その点で「待つ」というのは自分さえも動かさない、という選択であって消極的、無力であるように思える。
心に刃をあてられてもそれに耐えることが「忍耐」で、言葉をかえて言えば「待つ」ことである。それができるのは「積極的に待つ」姿勢でもある。違う事例を挙げると「あの人は待っていてくれる」のはそのまま「あの人を信頼している」ということができる。
・演劇入門
わたしがいろいろなものを「舞台」に例えて考えるようになったきっかけは平田オリザ。舞台は演者だけ成り立たない。そこには観客がいて、ある種の双方向コミュニケーションの場である。舞台はある意味、俳優や演出家の自己満足を発表する場ではあるものの、その情報の受け手である観客との間で共鳴する体験がなければ失敗である。情報を発信するにあたっては常に受け手が存在することに気づかされる。
情報の送り手はいつでも演者であり、受け手はいつでも観客であり、その場その場で役柄が変わる。
・伝わるデザインの基本
書面など静的なコミュニケーションにおいても、"ノンバーバルなもの"を活用する、と捉えるといろいろな媒体の見え方が変わる。具体的には色づかい、図表、レイアウト、フォントなど。どうすればわたしの言いたいことを相手に誤解なくわかってもらえるか。あらたなよい議論を呼ぶことができるか。
この本は、それがちょっとしたコツ、ちょっとした気づきの積み重ねであることを教えてくれる。日常に必要な「よいデザイン」は、特別な才能に依るものではなく学べば習得可能なことを教えてくれる。
今回挙げたものはどうやら
・人とはどういうものかを知る手がかりになるもの
・人が自分や他人をわかろうと思ったときの手がかりになるもの
ということができそうだ。