ロングツーリングの記憶−4 無計画の先の国道4号
文章でロングツーリングの心の風景を書く試み。ある年の5月連休、神奈川を出発した。4月末の夜明け前に走り出し、計画も何もないままただ走って、その日の昼前に仙台に至った。今回はそこからの続きです。
前回までのお話は、このマガジンで読めます。
* * *
今日の予定をどうしようか。
桜の散った仙台でひと休み。
しかし、自由だと言ったわりにわたしは今日の予定も決められない。頼りない自由であった。わたしのようなライダーは、一旦停まってしまうと調子が出ないのであろうか。
選択肢が無限にあるように思えて決められなかった。そんなにたくさん選択肢があると、良し悪しもわからず、そもそも何も決められない。
ここまで走ってきたならば、
まだまだ行くしかないでしょう。
そういうからっぽな言葉を力んで言う程度である。
これは「何も考えてません」というのを言い換えただけだ。空疎であり、能天気であり、阿呆であり、そういう言葉をひっくるめて一言で言えば若かったのであった。そうして若くて何も考えていない私は「まだまだ走る」ため距離を確認しようと思って仙台で初めて地図を広げた。
しばらく地図を眺めてしっくりこない顔で空の雲をみつめる。面白くなさそうな顔でまた地図を見る。それを何度か繰り返す。傍からみれば、道に迷っているようにしか思えない。
そうではない。
わたしは道に迷う以前の段階なのであった。
今日行くところを探しているのであった。
「あのう、わたしは今日、どこへ行けばいいのでしょうか」
そんな間の抜けたツーリングがあるものか。人に聞くのであればせめて「近くに景色のいいところとか、美味しいところとか・・・」くらいの平凡な日本語を発するべきである。それが、言うに事欠いて「あのう、わたしは今日・・・」では、まるでうすのろではないか。うすのろどっこいしょ。
こういうときに思う。
沈黙は金だ。
私は黙ったまま人に聞くことをせず、
その結果、要らぬ恥をかかずに済んだのであった。
しかし地図を見ても、道は私の行く方向を教えてくれない。国道、県道、海沿い、山沿い・・・。どこを走りたい、という気持ちもなく。
そうして視線が道から外れて海まで滑り、初めて気付いた。ああ、行く先がある、と思って電話をした。移動手段でもあり宿でもあるフェリーの予約。
これで八戸から苫小牧へ渡る。今日の行先をピン止めするような感じがする。4月末、どこまで冬期通行止めがなされているのか皆目検討がつかない。とりあえず桜の散った仙台を後にしてもっともっと走ろう。季節を巻き戻して桜を見よう。今日は八戸まで走ればいい。
高速を走らず国道4号を北へ。岩手山を左に見ながら走る。麓の方まで雪をまとった山に午後の陽射しの照り返しが美しい。斜面が滑らかなためか山頂から白くて大きな衣を干したように見える。風は山から吹き下ろしてくる途中で冷気がほどけたのかキリッとした冷たさのなかに暖かさを感じる。冬と春の入り交じったこの空気を感じたくて走っているのだ、と思う。
出発する前には予想もしなかった感動を味わうと、ああ、ここまで走ってきてよかったと思う。
バイクに乗ることで
バイクと一緒に走ることで
自分の五感が磨かれるように感じる。
気温を肌で感じ
聞こえてくる音に耳を澄ませ
見たことのない景色を探す。
走っているうちに日が落ちて一気に寒くなった。日に照らされてほぐれていた冷気は夜になるとその冷たさを保ったまま静かに沈殿していく。体感温度が明らかに下がってきた。結局今日は一日走りっぱなしだ。まだ八戸の出航までには時間がある。途中で温泉に浸かってから船に乗ることにしたのであった。
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