人生に文学を|上橋菜穂子
「人生に文学を」オープン講座 in 立教大学 2019年4月20日(土)第15講 上橋菜穂子さん「物語の魅力の底にあるもの」
作家生活30周年を振り返る、というもの。
ものがたりを"分析"して、それにより個人の主張を展開することについて、上橋はこう言っている。
「分析」ということについて。
他人の書いたものを分析するのはおそれおおいことだな、という感覚は常にあります。他人の文章を分析するとは、平べったく言い換えると「こういうことを考えて、こんな表現を使って、結局言いたいことはこれこれなんだな」と"決めつける"ことですよね。
人の考えから生み出されたほんの一端がことばになって、文章という体裁を取るんだと思うんですね。その文章が生まれた背景も知らず、その末端の葉っぱだけちょいと切り取って「どうせこういうことだろう」と値踏みして分かった気になるのは、文章を書いた側からしたら「何をわかった気になってエラソーに」と思っても不思議じゃないだろうと、そう思うわけです。
その一方で、とある人の文章あるいは発言をきっかけに「自分はこう受け取りました」あるいは「どこまで行っても、他人の思考にたどり着くことはできないのだから、自分の解釈をあえて言い切ってしまう」やり方は、あってもよいのだと思うのです。もちろんね、それは自分の責任において。これは「わたしはこう思う」を違う表現にしただけのことなんですけどね。
文学やものがたりにおける分析(というのが存在するかどうか、実は知らずに言うんですが)、それがあるとして、その分析というのは、分析した者が「わたしはこう考えました」と他人に理解してもらう程度の思考の筋道を説明して、それを軸にした個人の感想をひもづける、というところから出られないな、と思うんですね。いまさら当たり前のことしか言ってないんですが。
そういうある種の分析といったものがどの程度の説得力を持つか、と考えると、分析する当事者が「わかりきったことだ」と対象を軽んじるか、個人の主張を補強するため他人の文章をその意図と無関係に利用するのか、人間や言葉や思考の不完全性を実感したうえで本質に迫ってみたいと思うか、その違いによるんじゃないかと、わたしなんかは思うわけです。