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生きるというプロセス

生きるということは
「失う」ことを理解するプロセス
と捉えることができるように思う。


誰に教えられなくとも
人生は有限なのであって、
生まれた瞬間から
自分に与えられた時間を
千切っては捨て千切っては捨てて
残りどれくらいあるかもわからず
その作業を続けている。

そうやって歳を重ねていくと、
初めのうちは世界が広がり
見えるものが多くなってくる。

得られるものが新鮮であるうちはそれでいいのだが
人は時間が経つと環境に慣れてしまうもので
得られることは当然と思い
失うものばかりに気をとられるようになる。


失うということ。


もともと自分に備わっていると思っているもの
自分の身の周りにいる人
身の周りにあるもの
それを自分のものになったと
思い込んでいるのだろうか。

努力したからか
タイミングを掴んだからなのか
ただそこにあったのか。
いずれにしても自分に縁がなければ
そこにはないものだ。


世の中には説明できないことのほうが多い。
説明できないけれど、自分の周りには
結果として
自分の生活を成り立たせる人やものがあって
それによって時間を過ごせている。

今まで自分の生活を成り立たせてくれたものが
自分の元を去る時もやってくる。
そうなったとき
「なぜ手元からなくなるのか」
と思う。
あるいは
そうなってしまう未来を予想して慄く。


会者定離。
昔からの道理だ。
今もそのまま当てはまる。
事実は、事実と見るのが正しい。

であれば、失ってしまう前に
失ってしまうであろうことに対して
その価値を認めて姿勢を正さなければ
申し訳が立たない気がする。


失って初めてわかること。
時間は前にしか進まない。
二度と戻らないことに対する愛着。
それは理屈ではない。
一人では生きてこられなかった。
身の周りの人やものごとがそこにあった
という事実をそのまま認めると
この世界に自分が生かされてきた気もする。


自分の過去を形作ってきた人やものごと。
遠回りさせられ
足を引っ掛けられ
落とし穴に突き落とされ
あるいは梯子を外され
礫を投げつけられたこともあった。

それでも今生きている。
嫌なことも呑み込んで乗り越えて耐え続けて
傷痕は爛れたままだったり
既に癒えたり
いろいろとあるけれども
よく今まで歩いてきたものだ。

失うことを通して
これまでの軌跡を振り返るきっかけができる。
そして
これから失うであろうことへ
目を向けるきっかけにもなる。


そうすると、
生きるということは
失うことを通じて
今を実感することになるのだろう。


歳を取ったから少しずつ解ってくる。