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映画『ジョーカー』 ネオリベラルへの反逆

どうも、犬井です。

遅まきながら、先日、映画『ジョーカー』を見ました。公開からすでに8ヶ月が経過しており、全く新鮮味はないですが、ネオリベ社会の俗悪さを徹底的に描き切った映画に、強烈なカタルシスを感じましたので、今回はこの作品の感想を記すことにしたいと思います。(なお、以下はネタバレを含みますので、映画をまだ見ていない方はご注意下さい。)

舞台は1970、80年代のニューヨークをモチーフ(=当時のNYは財政難の状況にあり、福祉の切り捨てを行なっていた)としたゴッサム・シティ。ここでは、一部の富裕層が都市を牛耳り、それ以外の庶民との格差は苛烈なものとなっています。

この映画である主人公アーサーは、緊張が高まると笑いが止まらなくなるという病気を患っており、ピエロとしてのわずかの収入で、介護が必要な母と細々と暮らす青年です。彼の置かれている状況は悲惨なものですが、彼はそのことを社会のせいにはせず、愚直に生きる心優しさを持っています。この映画は、そんな彼が、世の中の理不尽な報いを通して、狂気に突き抜けていく過程を描いたものです。

この映画が見るものに問いかけるのは、冒頭にアーサーが発言する、「狂っているのは僕か、世界か」という問いでしょう。しかし、この映画は、我々がアーサーに同情するように作られています。つまり、アーサーを狂わせた世界の方が狂っていると思わせる演出がなされているのです。

例えば、精神病を抑えるための薬が、市の緊縮財政によって、その配給が打ち切られてしまいます。また、アーサーは不運が重なりクビを切られ、同僚たちに嘲笑されます。加えて、コメディアンとして尊敬していた人にもテレビの中でバカにされます。そして、大好きであった母親は実の母親でないことがわかり、加えて、彼の精神病の原因が、母親の夫の虐待によるものだということが判明します。

極めつけは、電車でエリートサラリーマンたちと会するシーンです。乗り込んできたサラリーマンたちが、乗客の女性を侮辱する行動をとり、それがきっかけでアーサーの笑う病気が引き起こされてしまいます。そんな彼は、サラリーマンたちに暴行を受けてしまうのですが、ここでアーサーは持っていた銃で彼らに反撃をします。殺人のシーンではあるのですが、ほとんどの人が、このシーンで「よくぞやった!!」と思うように描かれています。

こうして、仕事から、尊敬していた人から、行政から、母親から裏切られ、心優しい青年として生きてきた彼を支えていたものを全て失い、アーサーは殺人も厭わない「ジョーカー」としての道を進むことになります。

しかし、アーサーが殺人という罪を犯しても、彼への同情の念がなくなることはありません。というのは、彼が殺人を犯すのは、今まで彼を侮辱してきた人間に限っており、無差別に殺人を犯すわけではないからです。守るものも失うものもなくなり、徹底的な復讐を誓った彼には、ある種の美しさすら感じられます。

そして、彼に魅せられた市民たちは、「平和で安全な市民」の仮面を捨て、ピエロの仮面を被り、富裕層への反発を、暴力的なデモという形で表現していくこととなります。この結末には、今世界中で起きている、ポピュリズム運動__フランスでの黄色いベスト運動や、香港での覆面デモ__を重ねずに見ることはできません。それはつまり、「ジョーカー」の社会__格差は拡大し、行政は財政を縮小させ、個人を支えるものが失われた社会__が、現実で生じており、その社会に対し、「暴力」という形で反逆する段階にまで至っているということでしょう。

ただ、これだけははっきりと申し上げておかなければならないのは、「ジョーカー」を見て、カタルシスを感じると言えども、「ジョーカー」の至った結末が正しいとは言えないということです。同情はするし、痛快でもある。しかし、「暴力」以外の可能性を模索すべきではないかと思うのです。そして、そのためのヒントが、この映画の中に隠されています。

一つ目のヒントは、アーサーが、自分の父親かもしれないと考える男を前にして発言した次の言葉です。

「別にあなたに会って困らそうという気はない。パパのハグが欲しいだけなんだよ」

アーサーが望んだのは、自分を肯定してくれる、愛してくれる「家族」の存在でした。きっと、そうした家族の存在が、社会がいくら理不尽であろうとも、「正気」であろうとする自分を支えてくれるのではないでしょうか。そして、自分を支えてくれる家族を守るために、家族の周りの人間関係を守り、その人間関係を守るために、人間関係を築く地域共同体を守る、というように、守るべきものが拡大していき、社会を「破壊」するのではなく、社会を「守る」という気持ちが芽生えてくるのだと思います。

二つ目のヒントは、映画のラストシーンです。取調室の中で急に笑い出し、「ジョークを...思いついて」と言うアーサーに、刑事が「聞かせて」とそのジョークの内容を問います。そして、アーサーは次のように述べるのです。

「理解できないさ」

と。彼の思いついたジョークは、仕事から、尊敬していた人から、行政から、母親から裏切られたアーサーにしかその真意は分からないでしょう。しかし、アーサーの心境を理解しようとすること、そして、アーサーがその心境を抱くに至った社会を是正しようとすることに、努めることはできます。つまり、アーサーのような人間を、とりわけ政治に関わる人間は慮り、自己責任だと切り捨てるネオリベ社会ではなく、彼を取り巻く社会、共同体、家族、そして彼自身を守る社会をつくっていくのです。少なくとも、私はこのような意図が、最後のシーンに込められているのではないかと感じました。

では。

#映画 #ジョーカー #新自由主義   #エッセイ

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