果たして、本当に死は救済なのか
こんばんは。眠らぬ子羊ことギガ糞です。
あまりにも眠れないのでTwitterを徘徊していたところ、
『死は救済である』
と、衝撃的なツイートを見つけました。
上坂すみれさんも思わずこの表情ですね…
⚠︎これは読み物です。あくまで僕の意見を長々と文章にしているだけなので、こういう意見もあるんだなぁくらいの気持ちで読んでいただけると幸いです。
1.メメント・モリから学ぶ『死』とは
さて、皆さんは、よく美術作品の題材になったりする、メメント・モリというコトバをご存知ですか?
この写真、学生時代に幾度となく見たと思います。人間は『死』と『生』が隣り合わせである。という風刺絵です。
このメメント・モリという言葉は、「自分は必ずいつか死ぬということを忘れるな。死を想え」という警句です。
つまり『今を楽しめ』と言い換えることができます。
すなわち、自分はいつか死ぬ。明日死ぬかもしれない。だから今を楽しもうというニュアンスの言葉なんですよね。(班長に唆されるカイジを彷彿とさせるフレーズですよね)
この班長のセリフのシーンで、
欲望の解放
というフレーズが出てきます。
そう。正しくこの “開放” が今回のテーマと結びついてくるのです。
2.“救済”と“開放”
みなさん。突然ですが、あなたが「死にたくなる」場面(自殺を考える場面)を想定してください。どんなものがありますか?
・パチンコで10万負けた
・財布落とした
・長年付き合っていた恋人と別れた
などなど、挙げ出したらキリが無いですが、人それぞれいろんな状況があると思います。冒頭に書いた“救済”と“開放”という言葉と一緒に解説していきます。
3.救済=解放=浄化 ?
ここでは『死』を、現実で起こった出来事に対し、逃避するという意味で自殺を選ぶというパターンに絞って考察します。
なぜ自殺したいと考えるのか。
それは心理学上すごく簡単な原理で、本当に死を渇望しているのではなく、単に嫌な記憶を消し去る為の手段として『死』という選択肢を取っているに過ぎないということです。
つまり、負の感情を浄化し、解放する為の行為が自殺である。と定義できるのではないでしょうか。自殺は人間に与えられた救済措置のような行為であると言えるのではないでしょうか。
しかし、それは本当の意味で救済されているのでしょうか。
4.本質的な“救済”とは
先程の3節で、死を望む人間が自ら命を断つことができる自殺という行為は人間が神に与えられた救済措置のようなものであると定義しましたが、それはあくまで、形式的なものであって、本質的に救済と呼べるのでしょうか。
つまり、死んで終わり。とはならないということです。
多分、みなさん今こんな感じになっていると思います。
簡単に言うと、残された人がいるということです。我々、少なからず今まで生きてきた中で(これからも)色んな人と関わり合って生活してきたと思います。家族、親戚を含む親族、学校の友達、バイト先の先輩…etc
もし逆に友人がくだらない理由で(そうでないかもしれないが)自殺したとして、それを自分はどう受け止めますか?
残された人間は“救済”されていますか?
5.最後に軽くまとめ
今までの論述から、サムネイルにしている『果たして、本当に死は救済なのか?』という問いに対してのアンサーは、
死は救済である
と言えるだろう。
しかし、そんなことで死なれちゃ困るのだ。
人間には自殺というサブウェポンが備わっているが、逆境を乗り越える為の力がメインウェポンとして備わっています。
どんなに辛く、受け止め難い現実も受け止めて強く生きなければなりません。
我々人間が神に与えられた使命は、与えられた身体で日々精一杯生きなければならない。ということなのかもしれません。
1節でまとめた、メメント・モリのように、毎日、その日を一日一日大事に生きていけばいいということなんですよね。
まぁそんなこんなで、今月スロットで5万近く負けてるしさっさと死んで楽になりてぇな
おわり