来週あたりにやる企画の雑考

時間としては15分ほど。。。。

皆さん初めまして、喫茶星時の樋口と言います。今日は宜しくお願いします。
お店の場所は柳ケ瀬商店街から少し離れたぜにやさんの近く、ビルの2階というちょっと分かりにくい場所で7年ほど喫茶店を営んでおります。分かりにくい場所にあるのですが今日いる参加者の方には何人か見え憶えのある方がいますね・・・有難いことです。

短い時間ではありますが自分としての喫茶店の考えがお伝え出来ればと思います。
喫茶店。とても馴染深く使われているものですし、今も皆さんこうして使っていらっしゃいます。ですがそれと同じくカフェという言葉も新しく生まれてからしっかりと市民権を得ているように思います。
カフェと喫茶店。この二つの違いは何でしょうか?ほぼほぼ同じと言っていい形態ではありますが自分もそうですし、皆さんも使い分けている様に思います。ここは喫茶店。ここはカフェ。という感じに。

法律的に喫茶営業許可と飲食営業許可という括りがあったのですがコロナ禍を経て改正。許可が統一されて喫茶店営業許可が無くなりました。名実共に二つを分けるものが無くなったんですね。それでも二つは今も分けて考えられています。

ここが個人的に最高に面白く、色んな人に聞いてしまいます。カフェと喫茶の違いは何ですか?って。こうして聞いてみるとカフェはオシャレ、喫茶店は懐かしさや木のぬくもりがあって落ち着く。という言葉が返ってくることがあります。漫画であったりドラマとかテレビの影響があるかもしれませんね。
でも実際はもっとそれぞれに幅がある様に思います。ステンレス製の椅子に布を巻いた椅子がある喫茶店であったり、丸みあるラインを活かした優しさあるカフェであったり。

自分自身これまで2000件ほどカフェ・喫茶というものを巡ってきたのですが、この2つを分ける決定打というものはその人なりの哲学に準じるのかなと考えています。なのでそれぞれに答えがあり、それが正解なのかなって。

話は長くなりましたが自分の中におけるカフェと喫茶の違い。それはカフェは非日常の体験を受ける場であった、喫茶店は日常の延長線上にある存在というものです。

今ではあまり見なくなりましたが、昔、自分の地元の喫茶店などは週末になると家族連れが、平日などは近所の畑仕事を終えてやってくる人達がそれこそ朝早く、着飾るなんてことはあまりせずラフな格好で入り、モーニングを食べながらその場にいた近所の人たちと話しをしたり流れているテレビをみたり、あるいは置いてある新聞を広げて読んでいたものです。

肩肘を張らない、日常のこの街で起こる内容を語る会話。それが喫茶店。もう一つそこにあるリビング。その様な存在が喫茶店だと思っています。

対してカフェというものは刺激的です。ここに来ることで日常の出来事が薄れ、自分の趣味・嗜好性が浮き出し、そこに来る人達は一定のベクトルに沿って似たような思考・前提を持っている。そういった意味ではとても心地よい存在だと思います。自分の苦手な部分がここでは極力意識しなくて良いから。日常の存在である喫茶店ではなかなか難しいですよね。周りは自分の情報を知っている人がたくさんいるので。話しを振られる時もその情報が前提となって縛られる時もあります。

どちらが良いというものでは無く、どちらも利用して使い分ける。それが出来ることがカフェ喫茶という言葉にも表れているのかなと思います。

では今の喫茶店というのはどういう存在か。喫茶と言う日常の延長線上に必要な要素は何か。

今の自分なりの喫茶店という存在は地域の福祉財産であり、階層や分断を越えた不特定多数と空気感として繋がる存在かなと思っています。
この間、別の企画に登壇した際に、本荘という地域で活動されている方のお話しも聞いたのですが、そこでは地域10か所の喫茶店と連携してご高齢の方が集まれる場、それぞれがそれぞれを確認する場として機能する様に動かれているようです。外に出ることでいざという時に助けを呼べる、避難できる状況を地域が自分達で作る。これはほんとに素晴らしいなと思うと同時に、それぞれの日常が喫茶店という場でリンクしているから可能なのかもと考えています。

空気感として不特定多数と繋がる。独立する前に働いていた場所ではモーニングを出しており、その時に来られてお客様の属性は本当に多様でした。寡黙な方や賑やかな方、裕福な方もそうでない方も等しく同じ場で同じご飯を食べています。同じ釜の飯を食べることで仲間意識が育つ。
今日はモーニングについてのテーマがありますが、まさにモーニングは地域の繋がりを強くする力を持つものだなと思います。
今は様々な状況で1人1人が離れてしまいやすい環境かなと思うのですが、朝食を食べるという人間としての習慣の中で色んな人たちがフラットに、絶妙なバランスで同じ場所にいて同じ行動をしている。ただ目に入るだけかもしれませんが、それが週何回も続くことで自然な安心感にも移ってきます。この人は誰でも無い人では無く、いつもの人だと。

歴史的に見ると喫茶というコーヒーを飲むような場所というのはお酒と同じで嗜好性の高い場を指していたように思います。気軽な存在は茶屋だったかもしれません。
それが時代を経て色んな理由はあれど多くの人が利用し広がっていった。誰かのためにあった喫茶店という存在は誰もの為の喫茶店になった。大衆化、市民権を昭和の時代で得た様に思います。その中でも岐阜愛知が他と比べて誰もが楽しめるようになった理由の1つとしてモーニングという文化はかかせないと考えています。

ではこの大衆的な存在としての喫茶店というものが醸成していく上で大切になる要素というのは何か。
自分の中では距離感が大きいのかなと思います。店とお客様の距離、お客様同士の距離、店主とお客様の距離。こちらもどれかが大切というものではなく、どれもが密接に繋がっていてバランスを保ちつつ、形作られていくものかなと考えます。

福祉の中で自助、共助、公助などなど言葉がありますがその共助に近いのかなと考えます。それぞれの存在が少しずつ歩み寄って、一緒にその場を作り上げていく。店主とお客様が単純にビジネスとしてだけ繋がっているのであればその場は脆く、近すぎれば経営として難しくなる場面も生まれるかもしれません。お客様同士も離れていてもその場にいることを受容してくれている。その距離感。そして何ものでもない店だから誰しもがいれる感覚。
離れすぎず近すぎない。あやとりの様に絡みながらも支え合う。だからこそ生まれる景色。

お客様がいて共に歩めることで。何ものでもない場所は1つ1つの意志が積まれ、その地域の大切な場所となり、同じ様で同じでない唯一の場所になっているのかなと。そんな喫茶店が自分は好きでそうあれたらと思っています。

こうして話していると自分の偏愛が浮き出ている様にも思いますね。1人で話し続けるとどんどん話題が逸れてしまうので難しいものです。時間としてもそれなりに経っているようですのでこの辺りで締めさせて頂ければと思います。聞いて頂きありがとうございました。


話すという体で書いていたけど、実際やる時ははもっと流動的でバタバタしているんじゃないかな。当日は上手く纏まっていると良いな。頑張ろう。

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樋口 尚敬/岐阜・喫茶星時
主に自分に向けた内容メインとなりますが、見てくださった方に何かしら響くものであればそれもまた良かったと思います。サポートして頂いた分は考えを深めるものに利用していきます。