青森・棟方志功記念館
今年(令和5年)の8月下旬、青森市松原に在る棟方志功記念館を訪ねた。弘前から奥羽本線の電車に乗り、午後2時半ころ青森駅に着いた。この日は青森には珍しい猛暑日で、駅前のホテルに入って、とりあえずシャワーを浴びて暫時休憩。その後タクシーで記念館に行った。
棟方志功記念館は志功さんが自費で建てた記念館で、1975年(昭和50年)11月に開館した。その後、老朽化が進んだことやバリアフリーに対応出来ていないなどの理由で、来年3月31日に閉館になるという。
話は飛ぶが、転勤で富山に住んでいたころ、富山県西砺波郡福光町(現南砺市)に在った棟方志功さんの家に行ったことがある。
昭和20年5月、空襲で東京の自宅が全焼し、志功さんは富山に疎開した。翌年、福光町栄町に住居を構え、結果として6年8か月もそこに住んだ。家は、作家の谷崎潤一郎によって「愛染苑」と名付けられていた。
昔のことで記憶も曖昧だが、質素な平屋の家で、玄関上の軒下に「愛染苑」の額が掲げられていたことや、玄関前の茂みに灯篭?があったこと、家の板戸や便所の扉の裏側に絵が描かれていたことなどを微かに憶えている。
それはともかく、記念館の2階に上がり、受付でチケットを買って展示室に入る。
棟方志功さんは1903年(明治36年)、青森市の鍛冶屋の家に生まれたが、囲炉裏の煤が目に入るなどして、子供の頃から極度の近眼だった。そして、57歳の時、眼病を患い左目はほぼ失明した。
テレビなどで見る志功さんは、板に顔を押し付けるようにして、物凄い勢いで彫刻刀を使い、エネルギッシュで豪放磊落な印象を受けるが、ご家族の話では、普段は物静かで、読書とクラシック音楽を好んでいたそうだ。ただ、仕事をするときは、誰も仕事場には入れなかったという。
生涯、画家のゴッホを尊敬し、フランスのオーヴェール・シュル・オワーズのゴッホの墓を訪ねた時は、墓の拓本を取ったそうだ。1975年(昭和50年)9月、肝臓癌を患い東京の自宅で死去した。72歳。棟方志功記念館はその2か月後に開館した。
青森の三内霊園にある墓は、志功さんが亡くなる1年前に造った墓(生前墓)で、ネットで見るとゴッホの墓と同じような形をしている。