怒られるうちが花
粗探しのように生徒の不足に目を付けては、叱りつける。
どこの大学院にも、必ずといって良いほど、こんな教授は一人ぐらいはいただろう。
私が通っていた大学院にも、そんな厳しさで有名な教授が一人いた。
その教授はブログを運営していたが、研究課題関連の記事だけでなく、何か院生に対する不満や、「いまどきの若者のけしからん」ところをもつらつらと記事の中で述べていた。
耳が痛くなるような内容が多く、出来ればその方のブログは読みたくないものだったが、何故か全院生には当教授のブログは毎日見るようにという課題が課されていた。
たまったものではない。
そんな院生達の気持ちを知ったのか、ある日、その教授のブログに、以下の内容が書かれた記事を見つけた:
「怒られるうちが花」
正直、最初これを見た時、あまり気持ちが良くなかった。
院生にいちゃもんをつける口実だろうとでさえ思った。
けど、社会に出て、会社で働くようになって、色々な人を観察する機会が増えるようになってから、改めて当時教授がブログに書かれたあの言葉の重さを感じたのである。
人は誰しも完璧ではないので、良いところがある反面、必ず欠点も存在する。
けど、その中でも、欠点の塊のような人間がいる。
思い通りにいかなければ癇癪を起す。
功労を何としても自分のものにしようとし、失敗をすれば今度は他人に押し付ける。
目上の人に対しては媚び、部下に対してはとにかく怒鳴り散らす。
乱暴な言葉をやすやすと口にし、物に対する扱いもぞんざいだ。
傍から見れば、一体どうやってそのような姿でやってこれたのだろうとびっくりするぐらいだ。
そしてそんな人に共通する一番恐ろしい欠点がある。
どんな指摘に対しても、
全く心にとめないところだ。
言い訳したり、逆切れしたり、責任転嫁したり。
これっぽちも自分自身を省みる態度が見えない。
これに呆れて、周りもとうとう指摘を諦めるが、そのようになると、その人はもう何も非難されなくなる。
本人はのうのうと過ごしていけるように見えるが、日に日に欠点は大きくなり、手に負えなくなっていく。
いつの間にか、皆からも敬遠されてしまうのだ。
「欠点の塊」とは、まさにこのように形成されたものなのだろう。
どんなにとんでもない欠点があったとしても、
「反省の気持ち」がある限り、
その人には改善の余地がある。
改善の余地があるということは、希望があるということだ。
一生懸命良くなろうと努力しているのなら、迷惑をかけっぱなしの人だったとしても、憎めない。
むしろ応援したくなる。
本人が気付いていない「改良ポイント」を勧めたくなる。
それが指摘であり、アドバイスであり、
時にはお叱りであるのだ。
だから叱られる限り、怒られる限り、まだまだ助かる、救える。
強くなれる。
教授が言っていた「怒られるうちが花」とは、こういうことだったのだろう。
ただ、それは決して叱られた言葉を鵜呑みにし、ただただ自分を責め、自己嫌悪に陥ることではない。
親身になって、愛情で叱ってくれる人もいるが、中にはただストレス発散の為だけに怒鳴ってくるような人もいる。
そこは冷静に対応せねばならない。
確かに自分が悪かったのか。
そうでなかったとしても、もしかしたらより改善出来たところはあっただろうか。
相手の問題であるのなら、どうトラブルを解決出来るだろうか。
……
本当の反省は、客観に自分を観察し、判断する力だと私は思う。
反省の力で、人はもっと素敵になれる。
「怒られるうちが花」、なのだ。
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