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前回書いた記事、『雑用係のプロを目指す』の続編。 「私はプロの雑用係になります!」と上司に宣言した私。 「もっと良い言い方あるだろ……」と苦笑いしながらも、やる気を褒めてくれた上司は、私の希望に応え、多岐にわたる仕事を任せてくれるようになった。 私は今、「事業推進本部」という部署に属している。 立ち位置が特殊で、全部署の上に立ち、全社的にサポートを行う部署だ。 だからある意味、私の宣言を実現するのにぴったりなポジションでもある。
子供の頃から、「物知り博士」に憧れていた。 中でも、ある特定の分野についてなら何でも知っている、そんな学問を「狭く深く」追究した人を尊敬していて、いつしか自分もそのような人間になりたいと夢見ていたものだ。 そのせいか、私は知識に対して貪欲であるようになった。 学ぶのは本当に楽しい。 新しいことを身に付けた時のワクワク感がたまらなく好きで、時間さえあれば本を読み漁った。 多動の影響もあり、興味ある分野であれば何にでも手を出した。 そのおか
私は急な不安に襲われることがあるが、その中のほとんどがフラッシュバックによるものである。 過去の嫌な出来事が、ありありと思い浮かんできて、あたかも今起こっているかのような錯覚を起こす。 その苦しさのあまり、動悸に襲われたり、冷や汗が出たり、時には過呼吸になったりもする。 そして、辛い記憶が増えれば増える程、フラッシュバックも頻繁に起こる。 心を蝕むようなトラウマ。 辛い記憶がなく、楽しい思い出だけがあったのなら、もっと明るく暮らせたかもしれない。 そん
ある日のことだった。 急に身体が思うように動かせなくなった。 完全にコントロールが効かなくなったという程ではないが、明らかに脳の指令に対し、「NO!」と拒んでいた。 脳内では、まだやるべきこと、終わらせなければならないことを思い巡らしている。 あれこれと用事が残っている。だから作業開始せねばと考えていても、どうしても身体はそれを嫌がるのであった。 力がどんどん失っていくのを感じ、しまいには横になる以外、何もやりたくなくなった。 どんなことに対して
何度か、年上の方に「あんたたちは、本当に自分自身を強調したがるね」と言われたことがある。 何故そのように思うのかと尋ねたところ、所謂「今時の若いもん」は前の世代と違って、素直に相手の意見を受け入れず、反論したり、ずけずけと自分の考えを言ったりするそうだ。 そのようにしていると意識したことはないが、よくよく考えてみれば、確かに私達の代は、上の代より比較的自己主張が激しい。 しかも、この傾向は下の代にいけばいくほどどんどん強くなっているようで、私も、私の後輩達を見
「〇〇の恥にならぬよう頑張る」という言葉をよく聞くが、私の場合は「未来の自分の恥にならぬよう、今を一生懸命生きる」、だ。 未来の私が今の自分の姿を見て、「あの頃はよく頑張ったなぁ!」と言えるようにする為だ。 思えば、楽な日なんて、一日も無かった。 自分を追い込み過ぎて、死んでしまうのではないかでさえ感じた。 誰よりも努力し、誰よりも心を痛み、誰よりも涙を流し…… そんな風に生きてきた。 毎瞬毎瞬「自分はもうダメだ」と思った。 そう思いながら
ツイッターで、こんなものを書いたことがある: 私を傷つけた人達は、その傷による私の人生の不調の責任を一切負わない、いや、負えない。 そう考えると、自分が傷つかないようにするのが如何に大事かが見えてくる。 考え過ぎないこと、辛い思いを忘れること。 難しいかもしれないけど、自分を守るスキルは是非とも身につけておきたいものだ。 他人をコントロールすることは出来ない。 誰かが私達にひどくすることも、止めることは出来ない。 それでもーー 私達は傷
体調不良時は、喜怒哀楽をあまり感じなくなり、表情も乏しくなります。 ぼんやりすることが多く、いつもより疲れやすくなり、休む時間も増えます。 「どうしちゃったんだろう」、「早く元気になりたい」と思うことが多いですが、私はこの状態にも感謝するべきだと思っていますーー 全てに感謝出来る良いチャンスだからです。 体調を崩すと、自分がより愛らしく見えます。 はきはきとしている、たくさん頑張れる、元気に笑える、そんな自分をもっと大事にしようと思えるようになります。
限界まで自分を追い込んだ後の、次の日に来る筋肉痛は最高だ。 全員がそうではないが、筋トレが楽しくなってくると、筋肉痛に憧れる時期が来る。 それが嬉しくて仕方がないのは、如何に自分が努力したかを短期間で、しかも直に身体で感じることが出来るからだ。 この痛みは、誠実で嘘をつかない。 苦しみなんて出来れば避けて通りたいところだが、かえって求める理由は、それが自分の成長を保証しているからだ。 逆に言えば、成長を期待しているなら、それに伴って痛みが来ることを承
「経営の神様」ーー松下幸之助さんは、礼儀作法のことを「潤滑油」と呼んでいます。 長い歳月の中で定着された「礼儀」は、成り立ちや価値観が異なる者同士を結びつける役割を持ち、且つ、親しい仲の間でも程よい気遣いと距離感を保てる力を持っています。 それ故礼儀はより心地良いコミュニケーション人間関係を作ることにおいては不可欠ーー だったはずです。 実は、decoは「礼儀正し過ぎる人」がちょっと苦手なのです。 もちろん礼儀正しい事は悪くありません。 どんな人・事に
週末や連休ほど、時間の無駄遣いが増えている気がするのです。 本当は普段読めなかった本を読んだり、行きたかった場所に行って思い切り遊んだり、書きたかったブログネタを整理したりと、やりたいことはたくさんあるのに、いざ余裕が出来ると、ダラダラする時間も増えます。 「後5分」と言って、いつの間にか30分も二度寝してしまったり、 ソファに座ってスマホを出したら、1時間も時間が無くなり...... そしてこういった時間の無駄遣いをしている時、決まって思って
周りからよく除け者扱いされていた。 感覚のズレ、価値観の違いに突拍子もない発想… それらが私を孤立させ、甚だしくは「異常」とまでも言われた。 「演技」をした。 なるべく普通に見えるように、 なるべく目立たないように。 そうしていくうちに、とうとう疲れてしまったーー 私はこれを何年続けて いかなければならないだろうか? 十年? 二十年? …… 五十年? これから先もずっと「演技」をして生きていく、そんな自信がなかった。 「寂しい、みんな