第一次予備校(終)
閉鎖する校舎
色々と秋頃はバタバタしていました。冬を迎えてクリスマスは終わり、アルバイトと冬期講習にいそしむ毎日を送っています。3学期は、3月初めに行われる学年末テストぐらいしか大きな行事はありません。ですので、予備校に行くとしても日常的の英語と国語、そしてレベルアップテストの自習です。
しかしながら、2月になると不穏の空気が流れてきました。丁度、校舎の掲示板に張り紙が貼られています。
YとB君がそれを眺めていました。
「事情により、○○県の2校舎は閉鎖することになりました。転校手続きするものは、早めに事務課までご連絡してください。」
(ふーむ。これは、何があったんだろうか。)
以前いた早稲田大学卒のK先生は、2年生になった頃に寿退社されました。私とYの担当は新しく入られたSという副塾長が新しい先生になったのです。
S先生に聞いてみると、どうもお茶を濁すような話なんですよねぇ。
S先生「いやね、校舎が古いもんだからね。うんうん。」
Y「うわ、超嫌だ。絶対嘘でしょ。」
とりあえずかなり遠方にある他県でしたし、行くことすら無いので、この話は暫く忘却の彼方に行きました。
丁度、2月末になると学年末テスト期間として、テスト対策の授業と個別補習が始まります。私とYは、いつも通りに夕方から予備校へと向かいました。すると、おかしい様子が見えてきました。校舎が全部シャッター街のように閉まっているのです。
(おかしいなぁ、何で閉まっているんだ。今日授業だよな。)
すると、校舎の裏から何人か歩いてきた人がいました。
一度、ジュースがある自販機で話したことがある浪人生のMさんとTさんです。
Mさん「あ、智聖君。今来たのかい?」
Tさん「俺ら、30分前からいるんだけど、閉まってるんだよね。」
Y「え、マジですか。先生たちはどこに行ったんだろう。」
寒空の下で、モゾモゾしていた私達にある大人が近づいてきました。くたくたのトレンチコート。中にはスーツこそ着ていますが、内偵している刑事にも見える風貌でした。
A「あの、私ジャーナリストのAと言います。週刊○○の取材で来ました。」
名刺を差し出します。初めて貰う名刺でした。
A「実は、1月からこちらの塾が不渡りを起こしてしまって、オーナーが連絡取れてないと一報があったのです。」
「それで、関係者にタレコミと言いますか、裏付けするために今日来たんですよねー。」
(これがマスコミか。凄い早いな。けど、ヤバい方向に向かっているのか。)
浪人生の先輩たちはAさんから、インタビューを受けていました。我々も、簡単ですが、不審な動きが無かったか。確認を取ってきました。
Y「あ、そういえばあの遠い校舎を閉鎖する張り紙見た!」
(おいおい、言っちまったよ笑)
お喋り好き女子のYは、口が軽いのです。Aさんは、一心不乱にメモを取っています。するとどうでしょう。遠くから見慣れた車が来ました。それは塾の車です。目の前に止まりました。出てきたのは、現役生を取りまとめる教務課長であり、英語を教えてくれるF先生でした。
F先生「あ、お前たち、気付いたか。その方はどなたで?」
先程のマスコミ関係者であるA氏は、再び名刺を渡しました。所謂、スクープを使って脅かすとか大手の新聞に売るタイプではなく、社会正義を告圧するタイプであるので、信頼性を感じたところでした。
F先生「実は、こうゆうことがあってな・・・・。」
経営困難の様子
さすがに2月の寒空ですので、外で話すのが厳しくなってきました。近くの大きな喫茶店があったので、集まる人だけで話すことになりました。
F先生が言うには、不渡りや閉鎖することになった校舎の件など、全く上層部から通達が無かったそうです。先生も、朝から出勤するはずが、建物に入れないようにシャッター街になっているため困り果ててたようです。
F先生「今日何回電話しても出ないんだよ。携帯も出ない。」
さらには、塾長と副塾長Sが1月から出張と称してなかなか出勤してこなかったとか。つまりは、この頃から塾のオーナーにかかわらず距離をおいて無関係を装ってきたと聞いています。
この塾は、法人としては株式会社と学校法人を分けて経営をされてたと聞いています。詳しくはよくわかりませんが、税金対策や助成金を使って赤字を埋めるためにしていた手法とジャーナリストのAさんが説明してくれました。
A氏「赤字は、随分前から出ている様子。経営困難ですよ。」
私が入ったのは、2年前の夏。しかしながら、3年前から赤字が垂れ流しの始末。どうやら平成不況もあり、少子化の流れもあり大手予備校の強い宣伝効果もあって、生徒の数が減ってきたようでした。
確かに今まで校舎の1階から6階まで使えてたのが、2年生になったら1階から4階までしか使えないようになってました。使わない階を踏まえて賃料交渉を。そして半額にしたようです。
とは言え、付け焼き刃は当然効きません。あらゆる融資の返済や費用の請求書が溜まってきました。これを知っているのは、事務方のトップとナンバーワンとナンバー2しか知らないようです。
浪人生を統括する教務部長、現役生を統括する教務課長。本来は、広報や学校案内する係なんですが、これも2年生になると授業を兼任されました。つまり時間講師や常勤講師の人件費を浮かせるためです。
結局、どんぶり勘定をしていた上に無理やりなコストカットを急いでした割には、時すでに遅しです。キャッシュフローなど言っていられません。そうした現実を見るのが怖くて、彼らは逃走した様子でした。
虚飾学園の最後
ガラス細工で作られた学園は、確かに粉々に壊れるのが火を見るよりも明らかでした。表面処理はされていてもダイヤモンドのような核がどんどん崩れ去るのです。
3月上旬、学年末テストは終わりました。試験休みを挟んで進級の発表が始まります。中頃になると殆どの生徒達が最上級生としてふさわしい成績と単位を持って認められるのです。
丁度、この頃は量販店のアルバイトの送別会も終わって大変静かな時期だったことを覚えています。そう、嵐の前の静けさでした。3月下旬に近くなるに連れて通っていた予備校から連絡が来ました。担当は、事務主任のCさんでした。
「債務整理と返金について塾長がお話したいそうです。」
(今頃、弁護士同席で債務整理の説明会か。)
この頃、保護者同士で被害者の会など立ち上げられて刑事か民事か最終的に争う立場を表明。ただ、法律家に聞く所によると、以下のところがポイント。
1、債務超過が進んで私物化しているか。
2、横領して逃げたかどうか。
3、新しい契約書にサインをしているか。
4、クーイングオフが適用されるのか。
5、従業員と経営層における破綻による周知の有り無し。
当然、民法や商法などで争える民事と詐欺の疑いがある刑事や過大広告の注意喚起まで広がるような差が激しいレベルと言えます。
しかしながら、大多数の生徒は1年分、もしくは半年分納付しているのです。月謝制では無かったと記憶しています。2月に破綻したということあれば、前年度の4月から翌年の3月までの分にカウントになります。ですので、せいぜい1ヶ月か2ヶ月返金対象になる形でした。
争点となるのは、浪人生に決まりつつある2月、3月開講組です。当時は、前年度の推薦入試(既卒者向けの自己推薦など)、センター入試などで足切り食らったりして多浪を決めた受験生が多くいました。
大手の予備校に通っていても何となくしかわからない。通っているだけで満足してしまう受験生も多くいるはず。そんな人達の受け皿として、うちの予備校は確保していました。そこの隙間を狙って商売をやるには良いですが、2月にはもう債務超過していることは上層部は知っていたはず。なのに新しい生徒と新規契約をしていました。当然、年単位か半年単位での契約です。
しかしながら、詐欺として訴えるにしろ、儲け話としてお金を回収して逃げた話や人数と比べると故意か仕方なくなのかは判断が付きにくいようです。今風で言うと、クラウドファンディングなど主流ですけどリターンするサービスとしてのおもてなしですね。それをリターンをした、していないなどのトラブルの類と似て非なるものです。
説明会では、残りの学費の返金の件、近々で1年ないし半年単位での契約をした保護者と事案が分かれて処理を進める話でまとまりました。不動産の専有部分における修復や共有部の事故でもサブリース先と管理組合との協議と似ている雰囲気だと記憶しています。
後日、教務課長のF先生から送別会のお誘い合わせが来ました。ある女生徒のお家が居酒屋さんなのです。有志で集まり私のアルバイト先と同じように再び人との別れとなったのです。
F先生「色々とあってごめんな。ホントは皆と一緒に卒業したかった。」
「けれども、俺も来月から無職の身。仕事探さないと。」
F先生は、副塾長と同じ1年前に4月から働いてました。元々は、臨時講師などをしていくつか高校で教えてたそうです。常勤雇用が見込めない事で、民間の塾へ転職したばかりでした。
この時、今後の話も出ています。後にF先生が働く同じターミナル駅にあるBという予備校がありました。大手ではないですが、閉鎖するうちよりかは大きい組織です。そこを教務部長のコネで希望者の生徒と浪人生は、転入させる様子。
秋口に揉めたGとJ君、そしてとばっちりをくらったB君とC君は、その話を受け入れてそこに通うようです。私とYは、どうするべきか。親と相談していました。
B予備校は、自習中心。非常勤の大学生がチューターで教えるだけなので自己責任原則のようです。学費はその分、安めでした。
母親「F先生の所は、あんまり貴方向きじゃなさそうだから、Aという予備校行ってみたら。」
Yの母親も、うちの予備校に似たシステムを入れている所じゃないと不安を感じたそうです。
この頃はもう3年生への進級が決まり、アルバイトと予備校の送別会が終わると、もう3月下旬になっていました。ギリギリセーフとなる形で、Yの母親と私と母親で一緒に体験入学・説明会に行くこととなったのです。