卒業文集のプラス・マイナス
卒業を迎える6年生を担当できることは、ありがたいことだと思う。それまでに多くの教員が関わり、長い時間を過ごしてきた最後を締めくくる1年を一緒に過ごすことに対して、教員になったばかりの頃に憧れたのを今でも覚えている。
順風満帆な学年ばかりではない。それまでに荒れを経験したり、教員の不適切な指導などで、心が傷ついていたり、誤学習を多くしてきたりしている場合もある。あるいはそのような学年ほど、多くのドラマが生まれるのかもしれない。
6年生には、卒業を迎えるにあたって、通過儀礼ともいえる過程がある。「小学校最後の〇〇」や修学旅行、学校のリーダーとしての活動など。そのうちの1つに卒業文集がある学校もある。
卒業アルバムに入れる写真を撮ったり、構成や行事の写真を選定したり、委員会・クラブ活動の写真撮影について段取りをしたりと、本当に担任の業務なのかと、卒業アルバムの作成に対しても思うところはあるが、6年担任を4月に引き受けた時に何も言わなかったのであれば、この時期にその賛否について訴えるのは違うようにも思う。
私自身が、小学校の卒業アルバムを繰り返し読んだ記憶もなく、今の子ども達にとってどれほどの価値のあるものなのかを肌で感じることができない。同僚の先生が、自分の子どもが中学生になって、友達が遊びに来た時に見せあっていたことがあり、そんな時にも見られる意識で文章を書かせたいと話されていて、そういう考えもあるのだと感じた。
せっかく卒業文集を時間を割いて作成するのであれば、その価値についても考えて取り組みたいと考えた。その歴史をさかのぼれば、目的や必要性にたどり着けるのかもしれないが、今回は私の考えるよいところとよくないところを言語化したい。
よいところとしては、
①小学校生活を振り返り、思い出深い記憶を言葉にすることができる。
②卒業に向けての意識を高め、残りの学校生活をより豊かなものにしようとする気持ちをもつことができる。
③一生残る、多くの人の目に触れる文章を書く経験をすることができる。
などが考えられる。
③については、どれほど子ども達が理解できているのかよく伝えておく必要があると感じた。いつもの作文程度に考えてテーマや書き方を決めていては、指導者と子どもとの間にずれができてくる。
よくないところとしては、
A テーマ設定から下書き、清書、見直しなど時間がかかる。
B 子どもの書く力が比べられてしまう。
C 学校に登校しにくい子や行事に参加できなかった子にとって課題のハードルが高い。
ここでのBについて、よさの③とも関わって、6年間で育ててきた書く力を発揮しながら書いてほしいところであるが、書く力に差があるのは当然のことでもある。その中で、希望者ではなく全員一律に同じ設定で書くようになっていて、アルバムの後ろの方にまとめて載せられるので、どうしても比べられてしまうのではないだろうか。そして、Cについて不登校といわれる子ども達にとっては、卒業文集のハードルは高いものだと思うし、その子どもや関わる大人に大きな負荷をかけることにつながる。
ABCの課題をクリアしながら、①②③のよさを広げていくことが、卒業文集の価値を高めていく。課題の方にばかり目を向けていては、6年生の担任ができる喜びを感じにくくなっていくと思う。この6年生だけの特別な取組を、ため息まじりにするのではなく、子ども達と楽しみながらできるといいなと思う。