先日、地域の研究主任が集められ、教育委員会の指導主事から話を伺いました。何度も経験している先生は、何でこのような研修が行われるのか否定的な感情を持っておられるようでした。対称的に、若い先生方は、見通しのもてなさに困惑しながらも、熱意をもって進めようとしていて、好印象を受けました。その方々のように、やり始めたばかりでよくわからないけど、やるからには頑張っていきたいと考えておられる方に、1つの考えとして受け取ってもらえればうれしいです。 方向性を示す 校内研究をどのような
ぼやけた写真 1年で一番長い、80日ほどある2学期での学校生活をどのように彩っていくか。夏休みの充電を終えて、2学期の指導に気持ちを高めている先生も多くいらっしゃるのではないでしょうか。 2学期をよりよいものにするためには、見通しをもって指導をしていくことが大切だと、よく聞かれるのではないでしょうか。ベテランといわれる先生方にあって、若手の先生にないものの1つは経験です。もちろん私も含めて若手の先生の見通しはぼやけた写真のようなもので、細かいところまで見ることができない
今回の投稿で1年間投稿を続けることができたことになります。以前にも書きましたが、ここで書くことの目的は「これまで自分が勉強してきたこと、経験してきたことからつくってきた自分の考えを明確にするように言語化することで、自分の成長につなげていくため」です。自分の成長が自分や自分の周りの人たちの幸せ・喜び・楽しさにつながるとも考えていました。目標として、週に1回月曜日に、1000~2000文字でまとめて書くことと4カ月以上継続することを設定しました。 目標は達成できただけでなく1
校内ではなく学校外での研究会での指導案を作成してみて考えたことを書きます。 校内での指導案作成は、モチベーションが高い人も低い人も書いたり見たりするものです。それは望む望まないに関わらず基本全員参加の組織だからです。だから、一生懸命書いてもすべてに目を通さない人もいるだろうし、書くこと自体が目標になったり負担になったりするものにもなるため、その形を変えていく必要性を感じています。 ただ研究会となると、基本的な性質が変わります。それは、望んでその組織に所属していること
縁があって、2学期に公開授業をすることになりました。校内での研究授業することはありましたが、今回は外部の研究団体での授業です。自分が方向性を決めていくことのできる校内研究ではなく、違う学校の先生方とお話をさせていただきながら授業をつくっていくことに、いつもとは違った緊張感があります。 今年度、自治体の研究団体に読んでもらって、授業もさせてもらうことになって、校内研究とも比較しながら、取り入れられるところを探しています。勤務時間外でのことであり、夜の8時を過ぎても会議をさ
学校で働くことは、子どものため、自治体、ひいては日本のために働くことであり、その労働に対する対価として、税金から給料をもらっています。そこには、最低限のラインもこれだけやったら終わりというラインもはっきり引かれていません。時間で区切る文化もまだまだ定着しておらず、勤務時間以外でも24時間仕事のことを考えている人も多くいると思います。そのラインを引くのは自分であり、周りから見てもっと最低限のラインを上に引かないといけないと感じる人がいたとしても、それは同僚から言えるところでは
1学期の約70日間も終わりに近づき、保護者の方との個人懇談会を行っている時期だと思います。個人懇談会は、1学期の学級経営の保護者の言葉にならない評価をもらう時間でもあります。うまくいっていなければそのような態度や話が返ってきます。安定した学級経営ができていたりその子との関係が良好な場合は、そのような反応が返ってきます。鏡のようです。 個人的には、保護者の方とお話しする時間は、もちろん気を遣う場面は多いですが、好きな時間です。それは普段子ども達と接している中では気付けないこ
小学校では、校内研究の名のもとに代表となる教員が授業を公開します。その公開を誰がするのかと考えた時、経験年数が上がれば上がるほど、その回数は減っていく人が多いように思います。それは、校内研究が若手の指導力を伸ばそうとする装置として捉えられている側面もあるからでしょう。ベテランの先生がずっと公開授業を行えば、新しく教員になった先生が授業を見せる機会が減ってしまうのも事実です。だから、経験を積めば授業を見てもらって成長する機会を次の世代に渡していかないといけません。 本当に
学校の校内研では、2回目となる次の学年の公開授業が来週行われます。自分が出した授業に対して、自分ならこうするとか、もっとこうだった方がよかったのではないかという意見は、見る人がいる以上あって然るべきだと思うし、批判的な思考も必要でしょう。ただそれが、こうあるべきだとか、正解はこうだからこの授業は違うといった当てはめられ方に、ひどく違和感を感じる場面がありました。教員の世界には、指導主事や大学教授、文科省の調査官といったような、正解っぽいものをもっているような人がいます。
子どもの前に立ち続けること。多少体調が悪くても、子ども達との関係が上手くいっていなくても、学級が荒れていても、続けてきました。それは、人によっては私のエゴであり、体調が悪ければ、あるいは心身に不調をきたしていれば休んだ方がいいという考えも分かります。2年前と3年前には、感染症によって休むことを余儀なくされましたが、子どもで言う皆勤賞を目指しています。 そのためには常に健康でいなければなりません。朝食を抜いて空腹の時間を作ったり、子どもと一緒に寝て早寝早起きをしたり、たまー
先週公開授業を行いました。終えてしばらく経っても自分が授業をした意味を見出せずにいます。やる前の目的は、スタンダードと呼ばれる正解の方向性から抜け出して、新たな視点を提示することでした。私自身がお決まりの学習スタイルに疑問を感じ始めてから何年かが経ち、様々な指導方法があることを学んできました。その中から自分がいいなと思える指導方法や技術を取捨選択しながら、この何年かを過ごしています。 道徳においても、導入前段後段終末といった流れに乗せていくこともしますが、それがすべてにな
今週、校内での研究授業を行います。一担任であれば、去年もしたし今年は…と毎年のように授業をみなさんに見ていただける機会はもらいにくいでしょう。研究主任が授業を公開することを求める指導主事の方もおられて、研究主任をさせていただくようになってから、自分から授業をしたいと言わなくてもさせてもらえる状況をありがたく思います。 授業づくりをしながら、参観として見ていただく時間は45分です。その時間を子ども達とつくりながら、参観される先生方に、授業づくりや支援方法などの提案、校内研
日本人学校という選択肢があることを明確に認識したのは、今から8年くらい前のことでした。私と一緒に新任校に異動してきた先生の中に、日本人学校から来ましたという先生がいて、初めは、自分とは違う選択をしてきた人であり、自分とは違う考え方なのだろうと感じてしまっていました。でもその先生の日本人学校での話を聞くたびに、その認識が変わり、自分も行ってみたいと少しずつ考えるようになっていきました。 でもその年にすぐに受けるような余裕はなく、その思いを温めながら過ごしていて、結局その2
子どもの目を見て話す。ただそれだけのことなのですが、私はどれだけできているのでしょうか。20代のころはそこに問題意識もなく、授業中も何かトラブルがあった時の指導も子ども達の目を何となく見ていました。 私は人の目を見て話すことに恥ずかしさを感じる人もいます。話すときは努めて目を合わせるようにしますが、じっと見てくる人とは外すことが多くなると感じます。反対に、相手があまり目を見て話さなかったり、こっちに向けているようで違う方向に目線を飛ばす人には、逆に目をじっと見て話し て
新しい学校に勤務しても、しばらくすると、その学校を構成する子どもや教職員、管理職や職員の方々のこともだんだん分かってきて、その学校の実情というか上手くいっているところや上手くいっていないところが見えてきます。校内研究の担当になったら、その上手くいっていないところを可能な限り整えながら、目指す方向性を決めていくことになります。何度か担当をすることが続いていくと、この方向性を決めていくところに難しさを感じますが、そのバランスをとることがだんだんできるようになってきたのではないか
今年度は学年主任として働いています。学年主任の仕事は、何度か受けていますが、どの校務分掌よりも重さを感じます。私は単級で担任をスタートし、初めて組んだ学年主任は何かを言われて苦しんだことはないですが、何も教えてもらえなかったという感覚があります。私が担任をしていて苦しい時に助けてもらえなかったと感じたこともあります。そうやっていろいろな学年主任の先生と出会う中で、こうありたいという理想像のようなものが出来上がってきました。一番大きな責任はその学年の学級を、言葉はよくないけど