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写真、記憶、テンパリング  その1

写真撮影が、嫌いだった。
自分の容姿を愛していなかったし、どんな顔をしてどんなポーズを取ればいいのかわからなかった。
何より、写真を撮るメリットが微塵も感じられなかった。

イベントの度に行われる写真撮影、あれ何なんだろう?

人の親になって、みるみる成長するものの瞬間の姿を記録する、という目的ができて幾許か写真を撮ったこともあったが、その頻度はすぐに疎らになった。目の前のその人を見つめるので精一杯だった。
親族にあとで見せる必要があって、運動会や学芸会の動画を撮った時は、慣れていないせいなのだろうけれど、撮ることに必死すぎて「今そこにいるその人を自分が見る」ことができなかったことを悔やんだし、そうまでして撮った動画も下手くそ過ぎて後からじっくり鑑賞するに値しなかった。
同じ頃に子どもを持った、写真を撮りまくる夫婦がいた。膨大なそれらを十全に整理し、管理し、鑑賞していたのには驚嘆した。彼らにとってはもちろん、写真撮影は時間と労力をかけるだけの価値がある行為だった、ということだ。

そう、記録 とか 共有 あるいは展示する ということ、なんだろう。いまや撮ること、管理したり見たり見せたりすることがあまりにも簡単になったゆえに、写真の撮影はますます日常的な、誰もが参加する行為になっている。

かくいう私も、noteの記事のトップに置く画像をあつめようと、端末を手に、これは と思う景色を切り取ってみることもあった。
見返してみれば、その時の情景がなるほど、蘇ってくる気もする。写真が記憶を補強する、記録になることは理解した。
そして、記録としての写真を自分は必要としないことが、改めてはっきりした。
これは記憶というものをどう捉えるか、という話でもあるが、これについてはまた別に述べたい。

共有、あるいは展示 という部分には、そもそも全く感興が湧かないので論外としよう。

最後に、他者の撮った写真を見る という行為について。
目の前の写真を入り口にして、その奥に広がる情景の中に自分を置く。そこに感じられる景色の広がりや誰かの物語に、想像の触手で触れることで、擬似的に知覚し、体感するのだ。ただ二次元に捉えられた色と形を見ている訳では、ない。

写真に限らず、音楽しかり、著作物しかり、どんなジャンルであれ、人のものした作品は、送り手と受け手がお互いに感性を揮いあって呼び起こされる体験の入り口だと言えよう。
その一方で、情感を伴わず、機械的に撮った写真の無味乾燥さったらない。

なんて大袈裟な言い回しを振り翳すまでもなく、集合写真って誰にとっても全く必要ないものだよね?