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here I stand

もう、書かなくていいや、と思っていた。写真も撮るのをやめた。
誰かに伝えたいことがあるわけじゃない、それなら、言葉を紡ぐことも、景色を切り取ることも、自分の中だけのことにしよう と思ったのだった。

そもそも写真は、記事の見出しに使うために撮っていた。データが溜まるのを嫌ってアップロードした。
自分がいいな、と感じた景色を、更に好きなように切り取っただけの それ を、誰かが選び取って使ってくれることも何度かあった。そこには確かに嬉しさがあったけれど、選んでもらいたい、とは思えなかったし、共有や共感を得ることに殆ど喜びを感じない自分を再認識することにもなった。

それは例えば、ただ自分の納得のいくように生きていこうとする上で、たまたま行きあった誰かに、自分の一部分を そういうところ好きだよ、いいね、と言われるのに似ている。
誰かが好ましく感じてくれたなら私も嬉しく思う、だからといって、認められたいとか愛されたいとか自分をもっと知ってほしい、とは思わない ということだ。

私は、書くことは好きなのだ、と思う。そして書くときは、より伝わりやすい表現を模索する上で「読み手」を想定しているのも確かだ。
だからといって読んでくれる誰かを求めている訳ではなく、この「読み手」は客観的な視点に立つ自分自身に他ならない。
自分以外の「読み手」を必要としないのならば、このようなオープンな場所で書く必要もないのではないか。

そうして、この場所を離れた。

いま私がここでもう一度書き始めたのには、実は理由がない。
書け、と言ってくれる人はいた。でも一人のために書くのなら、この場所に戻る必要もなかった。

自分の「生きる」の中に「書く」を置いておこう、くらいのことかな。
一人カラオケみたいなことだな。
そういうことにしておくよ。