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最後の田中さん 第三話

 田中さんには特別な友達がいる。
 どんなふうに特別なのかというと、その友達は存在している時と、存在していない時があるのである。
 かなり複雑だが、じつはこれが一番シルプルな表現だったりする。
 とりあえずその友達が存在している場合がどういった了見なのか、ということを説明してみよう。存在していないものの説明よりも、存在しているものを説明するほうが、はるかに易しいだろうから。
 まず、この友達は夏にしか会えない。彼らは夏休みの間の、とある一日だけを共に過ごす。
 ここまで聞くと、ああ、なるほど。夏休み中に田舎に遊びに行ったときに会える、現地のお友達だろうか? と発想がいくが、田中さんの場合は違う。 
 なぜなら彼女が夏休みに家族で出かけるのは決まった田舎ではなく、言ってしまえば日本各地であるからだ。夏休みに両親に連れられて旅行すると、田中さんは必ず一日だけ、一人でその地域を散策することにしていた。
 田中さんは年齢のわりに、分別があるかなり頭の良い子だったので、彼女の両親はそれを許していたのだった。そしてその散策の折に、彼女は偶然見つけてしまったのである。
 自分の住んでいる街とそっくりな、街並みを。
 最初は小学五年生の時だった。
 その街にたどり着いた時、田中さんはあたりをキョロキョロと見渡し、自分がいつの間にか入ってしまった路地に、違和感を覚えた。いや、覚えたのはむしろ違和感というよりも親しみや懐かしさだったのかもしれない。
 しかし、見知らぬはずの場所でふと何気なく入った路地から始まった街並みが、自分のご近所さんの様子に瓜二つだったのだから、やはりその感覚は『違和感』という他なかっただろう。
 最初は違和感。
 つぎに自分の近所とは違うところを探してみようという無意識の確認行動。
 そしていよいよどこまで歩いたとしても、そこがご近所の様子と全く一緒であることに気づいた田中さんが、最初に考えついたのは、
「もしかしたらこの街に自分の家にそっくりな家だってあるのでは?」
 という、大変子どもらしい思いつきだった。
 興が乗った彼女は、いつも学校帰りにやっているように、さも自分の家に帰るようにして、そのそっくりな道を歩いてみたわけである。この時点では、まださすがに半信半疑だった田中さんは、実際にそれをやろうとしても、どうせいつかは途中で違う道に繋がって、まったく別の場所に出るに違いないと思っていた。
 普通であれば、それが当然だろう。ここは本来、田中さんの家からは随分と離れた旅行先の住宅街なのだから。――しかし。
 田中さんの予想は外れ、奇跡が起きてしまったのである。彼女が最後の突き当たりを曲がったとき、それは確かにあったのだ。
 屋根の形、塀の造り、壁の色。
 田中さんには遠目から見てもわかった。それは、まさに慣れ親しんだ自分の家に酷似した家だということを。
 田中さんは賢さに加え、慎重な性分でもあったので、自分の家にそっくりな家を見つけた途端、何やら背筋がぞっとするような、言い知れぬ恐怖を感じた。そして表札もなにも確認しないまま、矢も盾もたまらず一目散に両親のいるホテルへと戻って行ったのだった。
 なんだか自分が見てはいけないものでも見たような、この世の中のバグでも見つけてしまったような、そんな気がしたのである。
 しかしその日の翌朝のことだった。
 ホテルのテレビでニュースを見ていた彼女の母親が、
「あら。この県、田舎っていっても東京ともうそんな変わんないのねぇ。ほら、見て。あんなにビルが建ってる」
 と、父親に話しかけていたのを見かけ、おや? と、思ったのである。中継の画面を見ると、確かにどこも似たり寄ったりだ。
 (もしかしたら、昨日のアレは自分で思っていたよりもそんなに珍しいことではなかったのかもしれない。怖がらずに表札ぐらい確認しておけば面白かったのに。)
 と、その夏、田中さんにはそんな印象が残った。


 次の年、ささいな行き違いで田中さんは両親と旅行先で喧嘩をしてしまった。思えば、あの時にもう少しだけ冷静に話し合っていればと、田中さんは当時を思い返すが、今となってはもう詮無いことである。
 とにかくその時の田中さんは、それ以上の話し合いではなく、少し距離をとることを選択したのである。そして両親もまた、田中さんが落ち着くために、一人でホテルを出て行くのを止めることはしなかった。
 くさくさとした気持ちで田中さんがしばらく辺りを散策していると、ふと再び『あの違和感』が田中さんを襲った。キョロキョロと辺りを見回すと、そこがご近所の街並みに酷似していることに気がついたのである。
 気持ちが荒れていた田中さんは、衝動のままに、「できれば、もう自分の家に帰ってしまいたい」と考えた。そして再び自分の家によく似た、けれどもおそらくは別人の住む家の前まで辿り着いてしまったのである。
「見れば見るほどそっくりだわ」
 屋根の色や壁の色にはじまり、駐車場に停まっている車や、小さな花壇に植えられている植物まで同じで、田中さんは思わず、じっと見入ってしまっていた。
 そうだ、表札は? と、面白半分に確認しようとしたところ、急に後ろから肩を軽く叩かれた。
「どうしたの? 帰らないの? 家の鍵、中に忘れちゃった?」
 びっくりして振り返ると、そこには大層綺麗な顔をした、自分と同い年くらいの男の子が立っていた。
「え、えっと」
 田中さんが状況に追いつけず、まごついていると、男の子はにっこりと微笑んで、
「あー。やっぱり。鍵、忘れちゃったんだねぇ。じゃあ、田中さんのお母さんが帰ってくるまで、遊んでようよ」
 と、すんなり田中さんの手を引いたのである。
 連れてこられるままに神社で遊んでいるうちに、田中さんは色々と工夫をこらして、男の子から情報を聞き出すことに成功した。
 そうしてわかったことは、この男の子はどうやら田中さんのことを毎日学校で会う、自分のクラスメイトだと思っていること。どうやらそのクラスメイトも『田中』という名前の女の子だということ。そして、その子もやはりあの家に住んでいる、ということだった。
 あまりにも奇妙で出来すぎた話しに、田中さんは気味悪がっていいのか、面白がればいいのかわからず、とにかくその男の子が思い込んでいる通りに話を合わせて、自分が『別のところからやってきた他人の空似の田中さん』であることは伏せておくことにした。
 そうして賢い田中さんは奇妙な相似を頭のなかで組み立てて、一つの仮説をたてた。
 (もしかしたら、これがドッペルゲンガーってやつなんじゃないかしら?)
 と。
 ドッペルゲンガー。この世のなかのどこかに、ただのそっくりさんではなく、まさしく自分と同じ人間が存在しているいう都市伝説である。だとすれば、今は自分自身が『他所から来た別の田中さん』なので、ここで暮らしている田中さんのドッペルゲンガーは、自分だということになる。
  (なんだか面白い。まるでお化け屋敷の脅かし役みたいね。)
 田中さんは内心そんなようなことを思いながら、だんだんと悪戯をしかける子供のような気持ちになってきて、とりあえず今はこの場を楽しもうと考えた。実際、男の子とはとても気が合って、何を話しても、どんな遊びをしていても、時間を忘れるほど楽しかったのだ。
 こうして田中さんに、夏休みのとある一日だけ会える、『特別な友達』が存在するようになった。


 田中さん達はみんなそっくりで、しかも年齢も同じだったが、性格に微妙な違いがあり、交友関係もまた微妙に違うようだった。毎年違う田中さんを演じながら、時には普段会っている友達とは違うタイプの友達に混ざって遊ぶというのはなかなかに刺激的だったのだが、ある一点だけ、妙なことがあった。それは最初の『別の田中さん』の家の前で会った、あの男の子だ。
 彼だけは、どんなに場所が変わっても、必ずそっくりな子が田中さんの友達であったり、クラスメイトだったりするのである。つまり、田中さんもドッペルゲンガーだが、この男の子もドッペルゲンガーなわけだ。
 しかし、田中さんが本当の生活に戻ったとき、この男の子は存在しない。もしかしたら未来に会えるのかもしれないと田中さんは密かに考えてもいたのだが、結局中学生に上がっても、自分の住む街で男の子とそっくりな子に出会うことはなかった。
 そこで中学三年生になった夏休み、田中さんは思い切って彼に訊ねてみることにした。
「あの、変なこと聞いちゃうかもしれないんだけどね」
「なに?」
「もしかして、きみ……私とおんなじように、他所から来たドッペルゲンガーなんじゃない?」
 男の子はパチパチと瞬きして、大層びっくりしたように黙った。なので、田中さんは内心、
 (あ。しまった。違うのね。)
 と、思ったのだが、どうせこれは『別の田中さん』なので、少しくらい変に思われても構わない、と考えた。
「あ。ごめんなさいね。変なこと言って。最近、怖い本を読んでしまって……」
「ううん。ちょっと違うけど、そう遠からず、というわけでもなかったもんだから、驚いてしまってね」
「え?」
「田中さん、きみはね、ぼくに会うと絶対に死んでしまうんだよ」
「死ぬ……? なに? 聞き間違いかしら? 一体、どういうこと?」
「ドッペルゲンガーって、そういうもんだろ? 会うと、必ず死ぬ。もちろん知らなかっただろうがね、きみが元の街に帰ったあとに、ここに居るこの場所で言うところの『本物の田中さん』は、死ぬんだよ。なぜかっていうと、ぼくにきみが出会ったからさ」
「でも、あなた、こっちの田中さんのただのクラスメイトなんでしょう?」
「ああ。そんなのはね、嘘だよ」
 あっさりととんでもないことを言ってのける男の子に、田中さんは呆然とした。そしてその一瞬にして様々なことを考えたが、どうしたってよく分からなかった。
 ただ二つわかったことは、この男の子がおそらく人間ではないこと。そして田中さんが今まで数々の田中さんに成りすましてこの夏の一日を過ごしていたことを、とっくの昔から知っていた、ということだ。
「でも、どうしてなの? 死ぬんなら、なんにしても私でしょう? どうしてこっちの田中さんが死ななきゃいけないのよ」
「だって、あっちもこっちもどっちも、田中さんには変わりはないもの。みんな、きみなんだよ。田中さん」
 ここでまた田中さんの頭の中はぐちゃぐちゃになったが、しかし一方で、ある意味、今までの異常性に、ようやくそれらしい道筋がたったような気もした。
「えっと、つまり、よくわからないけど、ここも本物なんだわ。やっぱり本物のもう一つの世界なのね。つまりは、そういうことよ。そうでしょ? なら、私がもう旅行先で自分の家を探さないで、あなたに二度と出会わなければいいのよ」
「うん。まぁ、それでもぼくはいいんだけど、そうすると、きみはいつものきみの生活に戻った先で、ぼくに会うことになるよ?」
 それを聞いて、田中さんはぎょっとした。
「並行世界って知ってる? きみはつまり、毎年の夏に違う世界の自分自身に自分の『死ぬ運命』を引き受けてもらってるんだよ。もうきみとぼくは出会ってしまうご縁ができてしまった時点で、きみは別の世界の自分に、自分の死を引き受けてもらうほか、ぼくから逃げることができないってわけだ。どこまでもぼくはついて行くし、どうしたって出会うよ。そして、きみは、死ぬんだよ」
「どうして、こんなことするの?」
「ぼくだって、別に好き好んでこんなことしてるわけじゃないけど……。そういうもんだとしか言いようがないなぁ」
「最初から私を狙ってたの? どうして私なのよ」
「きみである特別な理由もないね。ただ、きみがちょっと世界の歪みの境界で迷子になってたから。時々いるんだよ。そういう人。で、ぼくはそういう人にこうして取り憑くってわけだな」
 黙り込んだ田中さんに、男の子は小首を傾げて微笑んだ。
「なにをそんな怯えてるんだい? あのね、ちょっと種明かししたら確かにきみにとっては気分の良くない話かもしれないけど、別に何も知らないままだったら、大した話しじゃないだろ? 今まで通りしてれば、きみはとりあえずは死なないで済むんだからさ」
 そんなことを言われても、田中さんはとてもそんな風には思えなかった。たとえそれが自分だとしても、誰かに自分の死を引き受けてもらい、しかもそれを毎年やるだなんて、考えるだけでもゾッとする。
 しかしショックで打ちのめされた田中さんが、その場でなにかうまい方法を考えられるはずもなく、その年はそこで大人しく両親の待つホテルへと戻るほかなかった。その後で、別の田中さんがおそらく死んでしまうのだということに、仕方なく目を瞑って……。



 男の子から衝撃の種明かしされたのち、田中さんは次の夏休みが来る前になんとかしなければと必死に考え始めた。
 田中さんはやはり賢い子だったので、必ず何か方法があるはずだ、とも思っていた。多くの怪異がそうであるように、一度出会ってしまった運命を帳消しにできそうな方法が。
 そうしてしばらく考えた末、田中さんは一番初めに男の子に出会ったばかりのことをふと思い出した。
「そういえば、あの神社……」
 何故今まで気づかなかったのだろうか。
 そっくりそのままご近所さんを生き写したかのようだった街並みのなかで、唯一自分の住む近所にはないものがあった。それが、男の子に連れられて行った、あの神社だったのである。
 (もしかしたら、あそこにもう一度行ければ何かわかるかもしれない。)
 次の夏休み、田中さんは旅行先で別の世界線の自分の家ではなく、まずはあの神社を探してみようと心に決めた。
 そうして次の夏休み。ひとまず探した神社はわりにすぐ見つかった。あの時は特に何も感じなかったが、改めてみるとそこは随分と古い神社のようだった。
「ヒマワリさま?」
 神社の謂れが彫られた石碑を、読めそうな箇所だけ読んでみると、どうやらこの神社の神使は珍しいことにカマキリであるとのことだった。多産、豊穣、無病息災……と、彫られたご利益を目で追っていくと、最後に気になる単語があった。
「不老長寿」
 思わずポツリと田中さんがその言葉を読み上げると、とんとん、と何者かに肩を叩かれた。ハッとして田中さんが振り返ると、そこには浅葱色の袴装束の男性が箒を片手に立っていた。
「おや。すみません。驚かせてしまいましたか」
「いえ」
 田中さんは、なんとなく頭のどこかで、この神社はあの怪異に関係しているのではなかろうかと思っていたので、こうして普通に務めている人が居るとは思っていなかったのだ。予想以上にびくついた田中さんに、声をかけた男性もまた軽く驚いたようだった。
「ここの宮司をしております、伊藤と申します。いや、若い方が来るのが珍しいなぁと思っていたら、ずいぶんと熱心に石碑を読んでらっしゃるので。夏休みの調べものか何かですか。それとも……何かお困り事でしょうか?」
 優しげな宮司の言葉に、彼女は無意識に詰めていた息をはいた。そして張り詰めていた緊張の糸がぷっつりと切れたように、田中さんはその場でポロポロと涙をこぼしたのである。
「じつは、信じてもらえないかもしれないんですが……」
 田中さんは泣きながらではあったが、今までのことを順を追って説明し始めた。話しながら、我ながらあまりにも非現実的な内容に、もしかしたら笑われてしまうかもしれないとも思ったが、宮司は存外真面目な面持ちで田中さんの話に最後まで耳を傾けた。
 やがて田中さんが全てを話し終えると、宮司は組んでいた腕をほどいて、「なるほど」とつぶやいた。
「田中さん、おそらくそれは、ヒマワリさまの裏のお姿にお会いになったんだと思います」
「裏?」
「はい。ヒマワリさまは元々、この地域の長者様が村ぐるみで信仰していた土着の神様なのですが、その頃から、とりわけ長寿のご利益があると盛んにお祀りされていました。しかし、神様というものは、恵みの雨をもたらしてくださる面もあれば、嵐や洪水をおこされる面もございます。信仰が広まるにつれて、ヒマワリさまにも二つの面が生まれたのです」
「二つの面、ですか」
「ええ。一つは死ぬ運命の者に寿命を与え、その命を永らえさせてくださる面、そしてもう一つは、ヒマワリさまが寿命をお与えになることで、逆に与えられた者の寿命が限定されてしまい、本来持っていたはずの寿命が短くなってしまうという面です」
 宮司は首を傾げながら眉間に皺を寄せ、「要は、物の見方の違いなのですよ」と言った。
「物の見方、ですか」
「そうです。人の運命など、誰にもわからないのでね。たとえば今のあなたにしてみれば、ヒマワリさまは自分をどこまでも追いかけて、理不尽な死の運命を繰り返しもたらしてくる怪異なのかもしれません。しかし、もし小学六年生のあの日、ご両親と喧嘩をされてホテルを出ていってしまったのち、あなたが本当だったら交通事故か何かで死んでしまう運命だったとしたらどうでしょうか? 起こらなかったことについては誰にもわかりませんし、我々は知るよしもありません。しかし、見方によってはヒマワリさまがそうはならなかった別の運命に導いてくださった、とも言えるわけです。少なくとも、あなたはヒマワリさまがついていらっしゃる六十歳までは、人生において死に関する心配事の類とは無縁だと思いますよ。病気も、怪我も、あなたの寿命を脅かす全ての運命から、ヒマワリさまはあなたを回避させ、守ってくださっているのです」
「六十歳ですか?」
「ああ、そうです。そこなんですよね。問題は。田中さんは還暦はご存知ですか?」
「おじいちゃんおばあちゃんが六十歳を迎えたら、赤いちゃんちゃんこを着て、お祝いするアレですよね」
「ええ。ええ。その通りです。ヒマワリさまは古くからいらっしゃる神様ですので、『人間の長寿』という感覚が丁度、六十歳なのです。満六十歳、つまり生まれてから六一年目になると、丁度人は生まれた年の十二支と十干の組み合わせが一巡するわけです。赤ん坊のような気持ちになって、一区切りつけ、また人生を歩んでゆく……ヒマワリさま信仰では、この部分に、もう一度この世界に生まれてくるという思想が繋がってきます。もう一度生まれるためには、一度死ななければならない。だからヒマワリさまがもたらす寿命は、六十までなのですよ」
 田中さんは愕然としながらも、あの男の子が「今まで通りしてれば、きみはとりあえずは死なないで済む」と言っていた「とりあえず」という部分の意味を理解した。
 つまり田中さんはヒマワリさまのお力で、もしかしたら数多あったかもしれない並行世界の自分を、六十人分に限定されてしまっているのだ。十一歳の時にヒマワリさまに初めて関わってから、もう五年が経っている。自分を含めると、あと四十四人の田中さんしか、もう残されていないのである。
「そんな……六十歳で死なないようにするには、私はどうすれば良いんですか?」
 田中さんが尋ねると、宮司は再び腕を組んで、「うーん」と考えこんでいたが、ふと何か思いついたように、顔を上げた。
「そういえば、あなた、苗字が田中なんですよね」
「ええ?」
「……なんとかなるかもしれません。うまくいくかはわかりませんが。でもこれは、あなたが六十歳になった年、あなたが最後の田中さんにならないとできないことです。それでもやりますか?」
 それはつまり、全てを理解している上で、今までどおり残りの四十三人の田中さんを犠牲にし、最後の一人になるために目を瞑っていけるか? ということである。
 正直、田中さんは一瞬くじけそうになった。いっそあの男の子が田中さんの世界にやって来るのを待ち、他の田中さんに託したい。そんな風にさえ、考えた。しかし田中さんは、自分のその迷いを振り払うようにして、首を横に振り、宮司を見据えた。もう、涙は乾いていた。
「やります。方法を、教えてください」

 夏が来た。
 田中さんにとって、それは待ちに待った最後の夏だった。両親も他界し、家を相続した田中さんは、この日のためか、または今まで自分が見殺しにしてきた田中さん達への罪悪感からか、一人でひっそりと暮らしている。
 皮肉な話しだが、毎年一人でも続けてきた旅行先で会うあの男の子だけが、田中さんの唯一の昔ながらの話し相手だった。
 しかし、それも今日で終わる。今年ばかりは田中さんはどこにも行かず、この街で過ごすのだ。六十歳の誕生日を迎えた田中さんは、あの神社へと向かった。
「田中さん、いいですか? 自ら種明かしをされたということは、おそらくヒマワリさまは、あなたが諦めない限り、今のところはあなたを最後の田中さんに定めているのでしょう。となると、最後の年までこの神社はあなたの世界には存在しないはずです」
「それは……どういう仕組みなのですか?」
「我々もそれを意識できないので、うまくご説明できないのですが、この神社はどうやら並行世界にいくつも存在するわけではなく、とある焦点が当たった世界にしか存在しないのです」
「世界間を移動している、ということですか?」
「物理的な移動ではないですが、まぁ、そういうことにしておきましょう。どちらかと言うと大切なのは物の見方……視点のことですね。そして観測と認識です。並行世界の田中さんは、その一人一人があなたのあったかもしれなかった可能性の姿として考えてみてください。そしてヒマワリさまと出会うことによって、その可能性の姿は抹消されていく、というふうに認識してみてください。つまり、だんだんと可能性の枝葉があなたに集約していくと、そういうイメージです。なので、あなたの世界でこの神社を観測できるのは、あなただけなのです。あなたがヒマワリさまに会い、別の田中さんが亡くなってしまうと、この神社はまた別の田中さんがいる世界線に移ってしまう。だから、あなたが再びこの神社に行くには、ヒマワリさまに会う前の、まさしくこういったタイミングがベストになります」
「伊藤さんの記憶はどうなるんですか?」
「継続はされません。それはもう一人のわたしです。または同じ苗字の親族かもしれません。しかしヒマワリさまについての話しを疑うことはないはずです。今のわたしがそうであるように」
 宮司は田中さんに念押しするように、言った。
「いいですか。ここからが肝心です。あなたが六十歳を迎えた夏、ヒマワリさまが来られる前に、こちらに来てください。そして御神体である鏡を持ち出すのです」
 持ち出すという言葉に、田中さんはギョッとした。
「盗むってことですか?」
「いいえ。ヒマワリさまは迷った人間を六十歳まで見届けると、御神体の鏡に戻られると言われています。なので、あなたがヒマワリさまと出会う前に、合わせ鏡をするのです」
「合わせ鏡?」
「ご自宅の玄関のドアに、なるべく大きな鏡を貼ってください。そしてヒマワリさまがやってきたら、あなたが御神体の鏡を持って、ヒマワリさまを玄関の鏡と御神体で挟むように合わせ鏡にするのです。その際、あなたの姿と、ご自宅の表札も鏡に写り込むようにしてください」
「そうすると、どうなるんですか?」
「鏡のなかに写りこんだ無数の世界に、ヒマワリさまはまだあなたの並行世界が残っていると勘違いされて、どちらかの鏡のなかへお入りになってくださるかもしれません。なんにせよ一度鏡のなかに入ってくだされば、次の者が見つかるまでヒマワリさまは鏡から出られないのです」
「私の姿はともかく、何故表札まで写さないとだめなんですか?」
「鏡は常に、今のこの瞬間と刻々とやってくる未来の、真実しか写さないからです」
 それは、もしかして先ほどの観測やら世界線やら可能性の話しに繋がってくるのだろうか? と田中さんが一瞬眉間に皺を寄せて黙り込むと、宮司は微笑んだ。
「田中さんは鏡に写り込んでも、左右対象の苗字ですから、それが鏡であるとヒマワリさまは気づかないかもしれません。現時点に、そして刻々とやって来る未来に、その表札があなたと共に存在し続けているようにヒマワリさまに見せるのが大事なのです。鏡は、ヒマワリさまが入りこんだ方をお返しください。大丈夫。きっとうまくいきますよ。ご武運を」
 当時の宮司の言葉を一つ一つ思い出しながら、田中さんは誰もいない本堂に手を合わせて、中にお祀りされている鏡を手にとった。
 田中さんが大体予想していたとおり、それは古い銅鏡のような姿をしていて、ちょうど普段使いのお盆くらいの大きさだったが、ズシリと重かった。風呂敷に包む際に鏡の面を伏せると、裏に向日葵のような、炎のような、精緻で複雑な模様が施されているのがわかった。事前に、大体このような形だろうか? と想像して、田中さんは鏡の写り込みを練習していたので、ひとまず安堵した。これなら練習どおりの場所に立てば、十分自分の姿も、表札も写ると思ったのである。
 あの男の子が家にやって来る。並行の、別の田中さんの世界にではなく、とうとう、正真正銘、最後の田中さんの世界へと、やってくるのである。
 急がなければ。
 田中さんは本堂にもう一度深々と礼をしてから、覚悟を決めて鏡を持ち出した。


 田中さんは曲がり角にギリギリまで隠れておいて、男の子が家の前までやってくるのを待った。
 そうしてとうとう、その時がやってきた。
 あの男の子が家の前に立とうとした時、その背後に駆け寄った田中さんが鏡を構えて、「こっちだよ」と呼びかけた。 
 こっちだよ。
 くるり、と無防備な子供のように振り返った綺麗な顔は、しかし、田中さんが持つ鏡ではなく、田中さんの瞳をまっすぐと見つめてしまった。
 しまった。出会ってしまった。
 田中さんは即座にそう思ったが、ヒマワリさまはポカンと口を開けて、田中さんの目をじっと見つめたまま、つぶやいた。
「きみの眼のなか、未来が見える」
 あ。眼球に写り込んだ合わせ鏡だ。
 田中さんがそう理解するのと同時に、ふわりとヒマワリさまは煙のように半透明になって、田中さんの瞳のなかへ飛び込んだ。
 それはなんとも不可思議な感覚だった。ぐらんぐらんの周囲の景色が歪み始め、田中さんは、自分のなかにたくさんの田中さんが重なって行くのを感じた。いままで少しずつ失われていった時間が、自分のなかに急に入ってくるような、そんな感じだ。田中さんは思わずといったようにぎゅっと眼を閉じ、その場にしゃがみこんだ。
 やがて足元がぐんにゃりと波打つような奇妙な感覚と、辺りを震わす蝉の気の狂ったような鳴き声が聞こえなくなり、急に静かになった。そーっと田中さんが目を開けてみると、そこは小学六年生の時、男の子に連れられて散策した、神社の前だった。
 田中さんは瞬きして、自分がすっかり小学生の頃の姿に戻っていることを確認した。いや、しかし、頭はまるで寝起きのようにぼんやりとして、夢でも見ていたかのような、そんな心持ちだった。
 家に、帰らなきゃ。そう思った。そのときに。
「まだそんなとこに、未来があったか。どうしてかしら。出会わなきゃ」
 そう言ったのは、あの男の子ではない。田中さんの口が一人でにそう、つぶやいたのだ。田中さんは何事もなかったかのようにゆらりと立ち上がると、ゆっくり、ゆっくりと歩き始めた。

第三話『最後の田中さん』了 第四話『カマキリの母親』へ続く
#創作大賞2024
#ホラー小説部門


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