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終点のカマキリ 第一話


・あらすじ
終点を目指す斎藤さんの肩に取り憑くカマキリ(第一話『終点のカマキリ』より)。自分をずっと見つめる向日葵の視線に怯える高橋さん(第二話『黄色の残像』より)。どこまでも追ってくる死の運命を並行世界の自分に引き受けてもらう田中さん(第三話『最後の田中さん』より)。そしてそれら四つの奇妙な怪談話を代々受け継ぐ家に生まれた殺人犯の鈴木さんと、その鈴木さんの話に耳を傾けるカウンセラーの『先生』。一見バラバラの四つの物語が繋がるとき、先生は怪異の真意に辿り着く。 


 斉藤さんにとって、ソレはさしたる問題ではなかった。
 ソレというのは、たとえば知らず知らずのうちに自分の肩にカマキリがとまっていて、それに気がつかないままに電車に乗り、しっかり終点まで旅をともにしてしまったことだとか、そのカマキリがいつまで経っても扉が開かない電車の車内でひそひそと耳元でしゃがれ声を披露していることだとか、そもそもカマキリが人語をこうも滑らかに話していることだとか。
 そんなことである。
 そんなことよりも斉藤さんが問題としていたことは、
「無駄ですぜ。いつまで待ってもその扉は開きはしやせん」
 ザラザラとした声でカマキリがご丁寧にも伝えたソレ。
 電車の扉が開かない。まさにソレだった。
 こんなにも時間をかけてわざわざ終点を目指したというのにも関わらず、肝心の扉が開かないばっかりに本来の目的地に辿り着くことはおろか、ホームにさえ降り立つことができないのである。
 これは紛うことなく、由々しき事態であった。
「何故ですか? 無賃乗車の君」
 しかし斉藤さんは冷静だった。
 仕方なく扉の前に突っ立っているのはやめて、座席に座りながら、カマキリが乗っている自身の肩を見やる。問題は解決されなければならない。なるべくならば前向きに。それが斉藤さんの基本的なスタンスでもあった。
 本来ならば人間の肩に乗り、改札をやり過ごす非道なカマキリなんぞ、話しかけるにも値しない俗物であるのだが、何やら訳知り顔な輩がここにはこのカマキリしか存在しないので、斉藤さんは何かしらの訳を尋ねるならば、このカマキリが一番早いだろうと判断したのである。
 それにこのカマキリは、なかなかに只者ではない雰囲気というか、妙な貫禄のようなものを供えている。少なくとも斉藤さんは、このカマキリに苦労した者特有のどこか物悲しい姿勢を感じ取ったのである。おそらく今年の冬は間違いなく越しているのではなかろうか。その体躯は枯れたススキ色をしていたので。
「何故も何も、あんたが終点まで降りなかっただけじゃあないですか。いくらでも、そのチャンスはあった次第ですのに」
 カマキリは斉藤さんの丁寧な質問に対して、やはり訳知り顔で歯をチキチキ言わせながら笑った。笑っているのだ。斉藤さんを。一丁前に。
 斉藤さんはそれでも冷静であった。
「いくらでも、だなんて。わたしは最初から終点で降りるつもりだったのです」
 答えて、斉藤さんは改めて思い当たった。そういえばこの電車で終点まで乗っていたのは斉藤さんだけだったようだ。あとはみんな、すっかり前の駅で次々と降りて行ってしまったのだろう。車内には斉藤さん以外、乗客は誰一人いなかった。
「本当にそのようなおつもりだったので? あぁ、それをもう少し早く知っていればなぁ。あんたの肩なんかに取り憑くんじゃあなかったなぁ」
 カマキリはさして困る様子でもなかったが、目論見を外した博打打ちのような、いかにも嘆かわしい声を上げた。
「因みに、あなたはどちらまで行こうと?」
「なに、終点以外ならどこでもよぅござんしたよ。カマキリに行き先なんぞありゃあしません。なんせ虫ですもの」
 ふむ。それもそうか。と、斉藤さんは一旦は納得したが、それにしたって電車の扉が開かないのはすこぶるよろしくない状況であった。
「まさか終点に辿り着けないだなんて、知らなかった」
 斉藤さんが思わず独りごちれば、
「辿り着いてはおりましょう」
 と、カマキリがすかさず茶々を入れる。
「そういう意味じゃあ、ないんです」
「おや、ならばどういう意味でしょう。辿り着くことが目的でしょうが。終点なんぞは」
「この電車は折り返しになるんですか?」
 斉藤さんは質問を変えた。おそらく時間が来ればそうなるであろう可能性の一つである。しかしカマキリは愉快そうに笑った。
「いえいえ、折り返すわけないじゃあないですか。ここはだって、終点ですよ?」
 おや。と、斉藤さんはそこで初めて少しばかり顎を引いた。
「では回送に? それともこのまま車庫行きかしらん」
「あんたも察しが悪いねぇ。回送にも車庫行きにもなりゃあしやせんよ。ここが、おしまいなんですもの」
 おしまい。
 カマキリの言葉に、斉藤さんは片眉をぴんと跳ね上げて、黙った。
「ふふ。なんだか死の気配がいたしやしたか?」
 もったいぶったカマキリの声にも、斉藤さんは返事をしなかった。
「そりゃあね、ちょっとはショックでしょうよ。でもあんたらなんか、ここまでになってやっと、ここでこのまんま死ぬかもしれない、だなんて呑気に構えてみせるもんだから、いい気なもんですよねぇ。あたしらなんてね、もう、しょっちゅうなんですからね。そんな心持ちはねぇ」
「なるほど。だから慣れてらっしゃるってわけですね」
「とんでもない! そんなんに慣れるやつの気が知れねぇ! ……どっちにしろ、身体が大きくて色々と手間がかかるあんたらの方が、こういう場合は先に死にやすいってだけで、あたしにゃまだまだその気配は来てませんぜ」
「おや。癇癪を起こしたわたしが踏み潰すかもしれないですよ?」
 いっそ斉藤さんの声は大変に優しかった。
「それは無いでしょう」
「言い切りますねぇ。無賃乗車の君」
「あんたは多少呑気だが、なかなかどうして冷静なお方だ。話し相手をむざむざ自分で殺すなんてことはしやしませんよ」
「ふーん」
 誰もいない車内で、斉藤さんの相槌はやけに大きく響いた。
「うふふ。では脚を一本、一本、憂さ晴らしに毟るのはどうでしょう? あなたはなるほど、虫ですもの。人ではないわけだしね。いったい虫の悲鳴とはいかがなもんでしょうね? 意外と鈴虫みたいに綺麗なお声で鳴くんですか?」
 今度はカマキリの方がすっかり黙り込んで、しきりにくるくると首を傾げた。
「ジョークですよ。ははは。カマキリも神妙なお顔をなさるんですねぇ」
「弱りやしたぜ。見かけによらず、あんたお人が悪い」
「さきほどからあなたが意地悪いことばかり言うからですよ。ささやかな意趣返しといえば可愛いもんじゃないですか」
 斉藤さんはひとしきりくすくすと笑うと、座席から立ち上がった。
「おや。お出かけですか?」
「ええ。他の車両も見ようかしらと思って。あと運転手さんはどうなさってるんでしょうかねぇ」
「他の車両に移るんなら、前のほうがよぅござんすよ」
「あら? それはまた何故でしょうか」
「この電車は車両ごとに時間が区切られてるからです。前の車両には、一瞬前、あたしに意地悪を仕掛けるあんたが居るはずですよ」
「おやまぁ、それというと……」
 斉藤さんは立ち止まって、車両を区切る扉から手を離した。
「過去のわたしに遭うってことですか?」
「いいえ、遭うって言うよりも、意識だけがそっくり前の車両のあなたの方へ移る、といった方がいいかしらん。だから、またあなたはあたしを意地悪にからかい、お笑いになって、しばらくしたら前の車両に移ろうとするでしょうねぇ」
「ははぁ。なるほど。過去の自分ありきのわたしってことですね。でもそれなら、おんなじことを繰り返しませんか?」
「どうでしょうねぇ。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。未来のあんたのことなんぞ、だぁれも分からないわけですから……」
「では後ろの車両には未来のわたしが居るんですか?」
「ええ。ええ。そうなりやす」
 斉藤さんは今までのカマキリの話を頭のなかでよくよく考えて、ふと妙なことに二点気がついた。
「無賃乗車の君。ということはですよ、わたしたちがここにこうして存在して、時間を刻一刻と過ごす分だけ過去が増えてくわけですから、前の車両も増えてくってわけですか?」
 これが気になる一点目だった。
「さぁ。増えてんのかもしれませんし、あたしらの方が知らない間に後ろの車両に移ってんのかもしれやせん」
 カマキリは自分の頭を掻くようにして、鎌を擦り付けた。猫の顔洗いのようなその仕草に、斉藤さんはふと思いの外にのどかな気持ちになって、思わず微笑んだ。
 なるほど。このカマキリはたしかにちょっとばかし意地が悪いが、仕草はまるで普通のカマキリとおんなじで、そこがなんとも無邪気であった。案外こんな珍妙な状況下における話し相手としては、下手に喚き散らさない分、人間なんかよりもよほどもってこいの存在なのかもしれない。
「じゃあね、もう一つ気になることがあるのだけれども」
「なんでしょう」
「わたしがきっと前の車両に戻ったら、この今の車両であなたに話したことを忘れてしまうでしょうねぇ。というより、前に戻った時点でこの『今』が消滅するということになるんでしょう」
「はぁ」
「では、その時のあなたの意識や記憶はどうなるんですか?」
 カマキリはしばらく、針の先ほどの小さな点の目を更に小さくして、じぃっと斉藤さんを見詰めた。が、すぐにまたチキチキと歯を鳴らし、
「まあまあ、とりあえず前の車両に行かないんでしたら、お座りくださいなね。もう一度」
 と、席に座るよう勧めた。
 きっとカマキリも落ち着きたかったのだろう。言われたとおりに大人しく座席に戻った斉藤さんの目線に「ほら、座りましたよ。この通り」というように促され、カマキリはやっと重たい口を開いた。
「どうにも奇妙なことですが、あたしだけはあたしのまんまなんですよ」
「アラ!」
 斉藤さんは思わず声をあげたが、カマキリにしてみれば、それはなんとも他人事の無神経な「アラ!」だった。
「本当に、あんた、呑気だな」
 その声があんまりにもものすごく底低いもので、斉藤さんはカマキリがやっと気の毒になってしまった。その小さな体躯であまりにも激昂していたわけだから、ただでさえの越冬カマキリが、さらに弱ってしまうのではないかと心配になったのだ。
「まぁまぁ、カマキリさん、どうかお身体を冷たく保ちなさいな。死んでしまいますよ」
「……ええ、ええ、ああ、わかってます。わかってますよ。あたしもちぃとばかし大人気なかった。でもね」
 と、カマキリは堪らずといったように続けた。
「きっとあたしがこうなっちまったのも、あんたの所為なんですよぅ?」
 これには斉藤さんも、さすがに「アラ」もなにもなく、ただじっと黙って、カマキリの言い分に耳を傾けてやることに努めようと思った。何故なら、なにやらそれこそが、この物語の核心なような気がしたからだ。
「あんた、蜘蛛の糸って話はご存知ですかい?」
「ああ、有名なお話しじゃあないですか。お釈迦様が地獄に蜘蛛の糸をお垂らしになられて、カンダタに情けをかけてやろうってお試しなさる、あれでしょう?」
「まさしく。それで、ところでですが、あんた、いつかカマキリを助けたことは?」
 斉藤さんはカマキリをしげしげとしばらく見詰めて、「オヤ? じゃ、あなた、もしかしてあの自転車のサドルに居た、あのカマキリですか?」と言いたげな合点顔をしたわけだが、カマキリはそれよか先に、ピシャリと「ええぃ。違うっ!」と怒鳴った。
「違いますよ。違いますがねぇ、カマキリの恩はカマキリで返そうってのが、きっとああいう手合いのやり口なんでしょうよ。あたしは、たまたまあんたの肩に取り憑いただけの別個体なんですがねぇ」
「ははぁ。それはわたしの徳というより、どちらかといえば無賃乗車をしたあなたの業も手伝っているのでは?」
「あたしが他のカマキリより業が深いと仰るんで? だからこんな目に遭うんだと?」
 斉藤さんは一生懸命のカマキリを見て、なんだか確かに立場が逆なようだなぁ、と考えた。普通こんな状況におかれて泣き喚くのは人間である自分の役目だろうに、と。
「まぁ、でもね、カマキリさん。あなたには記憶がおありなら話は早いんじゃあないですか?」
「なんですって?」
「わたしにただわき目もふらず、前の車両に走れと言い続ければよろしいのでは? そうすれば、時間が車両ごとに巻き戻っていって、おそらく終点に着く前の時点の車両に、いつかは戻れるんじゃあないでしょうか?」
 つまり物理的に過去に戻る術があり、カマキリが何故かその影響を受けず、どのような時間軸においても唯一の存在で居られるのなら、斉藤さんの脚を利用して、まだ終点に着く前の過去まで戻ればよろしい。
 と、そういうわけだ。
 しかし、カマキリはやれやれとばかりにため息をついた。(斉藤さんはカマキリのため息というものを初めて見た。)
「そうでしょうね。理屈ではね。そうかもしれません。でもね、あんた、一体どんくらい走ると思ってんです?」
「まぁ、今ならまだなんとかなるでしょう」
「いいえ」
 カマキリは頑なに首を横に振った。
「何故です? 何かまずいことでも?」
「つまりね、あたしは、もう、こうして人間の言葉を喋れるぐらいなんですから。もう普通のカマキリじゃあないんですよ」
 カマキリの説明は不親切だったが、斉藤さんには伝わった。そしておそらく、それはこれ以上なく正しい理解であった。
「つまり……、あなたはそれほど長いこと、わたしの話し相手をしてるってことですか?」
「はぁ、まぁ、そうなります。あたしだって、最初っから喋れたわけじゃあ、ございやせんもの」
「ははぁ」
 斉藤さんはそこで初めてカマキリに、それはそれは深く同情した。
 しかし。しかしだ。
 斉藤さんは一点ここでまた新たな疑問にぶつかった。
 曰く、カマキリの主観では人語を解すほどの長い歳月を自身と共にいるとのことで、その『繰り返し』の記憶が無いのは、おそらく斉藤さん自らがあの手この手を試し、前の車両に行き来するなぞして、膨大な『過去』と『今』を消耗したからだとする。
 ならば何故、斉藤さんは一番初めに『終点に辿り着いたばかりの車両』に座っていたのだろうか。
「うーん。でもあなた、まだ何か隠していらっしゃいますよね?」
 斉藤さんは後ろ手におやつを隠す子どもを伺うようにカマキリをねめつけて微笑んだ。カマキリはキチキチと歯を鳴らし(しかし、どうやら今度は笑ってるわけではなさそうだ)、両の鎌を顎の下にきちんと揃えて、じぃっと斉藤さんを伺う。
「……やはり展開が少しずつ変わってきている」
「なんですって?」
「いえいえ、今までならそんな言葉があんたの口から出てきたことなかったもんで」
「はぁ。うーん。もしかしたら前の車両に戻ると、過ごした時間は巻き戻っても、なんらかの経験のようなものが身体にはとどまるのかもしれませんね。人間の記憶はなにも脳だけに貯まるだけではない、と聞いたことがありますし」
「なるほど。こちとらどんどん人間くさくなって、反対にあんたはどんどん呑気な……まるであたしらとおんなじようなイヤに悟ったような物の見方をなさるようになってきたんで、ちぃとばかし不安だったんですよ」
「たしかに、わたしがあなたの立場でしたら、とっくのとうに発狂してるのかもしれませんね。もしかしたら、あなたはわたしの時間がもたらす負荷のようなものを引き取ってくれているのかしらん」
「カマキリを助けておいて、ほんとによぅござんしたねぇ」
 皮肉気に笑うカマキリの背中を、斉藤さんはそっと撫でた。
「で、無賃乗車の君。わたしが予想するに、あなたの隠し事はズバリ、後ろの車両にあるんじゃあないかと思うのですが、いかがですか?」
「なるほど。たしかに、そこまでの仮説に至る時間もだんだん短くなっている……人間ってのは面白ぅございますね」
 カマキリは無い肩をすくめた。
「因みに前のわたしはどうしたんですか?」
「万策尽きたのでいっそ将来の自分に託しましょうと言って、後ろの車両へ行きました」
「わたしがやりそうなことだなぁ」
 斉藤さんは頷き、自分の予想が当たっていたことを確信した。
「つまり、後ろの車両は未来に繋がっているわけではなく、ある種リセットの役割があるんですね?」
「……おっしゃるとおりでございます。何故かは知りませんが、後ろに行けば、あなたは終点に着いたばかりの車両に戻るんですよ」
「だとしたらやはり話は簡単でしょう。わたしが後ろの車両に移ってリセットされたら、間髪入れずにあなたが前の車両に走るように叫べば良い。わたしは確か終点まで眠っておりましたから、耳元でいきなり号令すれば、さして何も考えずに飛び起きて、訳もわからずに走ると思いますよ。たぶんですがね」
「斉藤さん」
 カマキリは初めて斉藤さんの名前を呼んだ。
「なんでしょう」
 答えながらも斉藤さんは、あら。自分はこのカマキリにいつ名前を教えたのだろう? と、思った。
「試してみてもよぅござんすよ。しかしだね、あたしはまだあんたにお尋ねしなきゃあならないことがあるんでさぁ」
「なんでしょう」
「あんた、一人で終点に辿り着いて電車を降りたら、そこで何するつもりなんですか?」
 斉藤さんはカマキリをしげしげと見詰めて、どうやらこのカマキリが、斉藤さんの目的を何もかも知っているのだ、ということを察した。
「あたしはねぇ、別にこっから出たいだなんて一度も言っちゃあいませんよ」
「そうなんですか?」
 カマキリは元のように、また意地が悪いのに妙に気さくで無邪気な雰囲気に戻って、斉藤さんを茶化すようにのたまった。
「へぇ。せっかくこうして人語を解するほどにもなったんでさぁ。それにあんたがさっき時間の負荷と言ったが、リセットしちまった後に前の車両に移ったら、あたしはもしかしたらその負荷ってのが一気にやってきて、どうなるか知れねぇじゃあねぇですかい?」
 斉藤さんは、黙っている。やけに陽気なカマキリの声だけが、車両に響いているのだ。
「ふーん」
 斉藤さんは随分としばらくして、ぽつんとそう呟いたかと思うと、そっとカマキリを肩から自分の手の平の上に移した。その方が、カマキリと目線が合わせやすかったのである。
「ねぇ、君。やっぱりあの時、自転車のサドルに居たカマキリさんなんでしょう?」
 斉藤さんはカマキリの背中を人差し指で撫でながら、なるたけゆっくりと穏やかにそう尋ねた。そうでもしなければ、このカマキリはきっとお終いまで本当のことを言わないだろうと思ったからである。
「別に、そんなことどうでもいいでしょう。人間にしてみればカマキリなんてどれもおんなじに見えるんでしょうから」
「でもあなたは、わたしを覚えててくれたんですね」
「さぁて、どうでしょうか。覚えていただなんて、そんな大それたもんでもないでしょうからね。たかが虫の脳みそですよ?」
「ふふ。まぁ、いい。分かりました。君がどこのカマキリさんだなんてそんなことは詮索しません。で、何が心配なんですか? 無賃乗車の君」
「いえね、あんた、さっきの方法を試したとして終点前の駅に辿り着けたら、あたしだけ電車から放り出して、ご自分はこの電車にそのまま残るんじゃないですかい?」
 気遣わしげに手を揉み合わせる人間を真似ているかのように、鎌を揉み合わせるカマキリは、もはや両手を揉み合わせているというより、自分の鎌で自分の鎌を研いでるようにも見えるのだが、斉藤さんはニッコリと微笑んだ。やはりこのカマキリは、自分の事情をすっかり知っているらしいことが十分に分かったからだ。
「分かりませんよ。そんなこと。わたしはそもそもあなたのことも、この奇妙な状況のことも、すっかり忘れてるかもしれませんし。虫が肩にとまってるのを見たら、払い落とすんじゃないでしょうか?」
「いいえ」
 カマキリは、かぶりを振った。
「あんた、もうだんだんと分かってきてんでしょう? あたしを終点の一つ前の駅で放り出せば、きっとあんたは望み通り、今度こそ間違いなく終点に辿り着けるんでしょうよ」
「アラ! じゃ、やっぱり君がこの奇妙な状況の原因なんじゃあないですか」
 斉藤さんは思わずくすくすと笑った。しかしカマキリはじぃっとおし黙って、斉藤さんをいっそう恨めしげに見上げてくる。
「うーん。ねぇ、君、本気でわたしを説得できると思ってるんですか?  あなたは親兄弟、恋人、友達ですらない。今後もわたしの生活のなかに、何一つ介入しない……つまり、ちっぽけな虫なのに?」
「罰当たりめ」
「おや、ふふ。なんとでも」
「だからあたしはあんたが信用ならんのです。あんたはきっとあたしだけ助けて、終点に行っちまう」
「なるほど。だからまたリセットして、意地の悪いカマキリさんとして時間稼ぎするしかないんですねぇ。ふーん。難儀な性格してらっしゃるなぁ。カマキリのくせに」
「なんだってまた、そんなに終点にこだわるんですか?」
「ああ。その駅のすぐ近くにね、なかなかに名所になっている、非常に眺めがいい谷があるらしいんですよ。調べて写真を見たら、どうしても行きたくなりましてね」
「まぁ、確かに、ここは狭いですしね」
「そうですねえ。こうして誰もいなくて貸し切りみたいですと、ちょっとは風情もありますが、やっぱり電車は会社やら学校やら色々思い出すのがいけません。いつだってわたしを行きたくもない目的地まで運ぶ装置みたいなもんですからね。ちょっとばかしありすぎるんですよねぇ。記憶がねぇ」
 カマキリも斉藤さんが言うところの意味がわかるのか、「ははぁ」とため息をもらす。
「よぅござんす。ここまでくりゃあ、ようは根比べってやつですよ。その内あんたの身長も追い越すようなオオカマキリの妖怪にだってなれるかもしれやせん。そうしたら問答無用。あたしがリセットして、あんたを抱えてどこまでも走ってやりますよ」
 その言葉のなにかが琴線に触れたのか、斉藤さんはふと首を傾げて、
「ねぇ、無賃乗車の君」
 と、呼びかけました。
「なんです」
「あなたの必死な説得に免じて、今回は考え直してあげても良いですよ」
「おや。なにを企んでなさるんで?」
「その代わり、終点の前の駅に着いたら、あなたを食べても良いですか?」
「はっ?」
「たとえこの事態から助かったとしても、結局はわたしに食べられるってわかっていても、わたしを助けたいって、あなたは思ってくれます?」
「あたしにとっての終点をあんたにしろってことですかい?」
「それかオオカマキリの妖怪になったら、いっそわたしのこと食べてくれませんか?」
「嫌ですよ。人肉なんて、気持ち悪い」
「じゃ、わたしに食べられてくださいな」
「なんだって急にそんな突飛な考えが浮かんだんですかい?」
「あなたはわたしの親兄弟でも恋人でも友達でもないですが、もしもそれだけ命を懸けてくださるんなら、わたしも少しは考え直してみようかしら、と。いま、ふと思いました。もう少し、生きてもいいですよ。あの世界で。あなたの命に免じて」 
「……ふむ。よぅござんすよ」
「えっ。良いんですか? ほんとに?」
「もう、なんだか、考えるのをよしました。どうせカマキリのオスなんぞ、最期はメスに食い殺されてお終いか、ハリガネ虫に操られて溺死か、そんなとこでしょうから。今更あんたに食われようが、大差ないでしょう」
 斉藤さんは正直言ってハリガネ虫と同列にされるのはかなり嫌だったが、カマキリがわりにキッパリ腹を決めたようだったので、その信念のようなものには敬意を評することにした。
「じゃあ、わかりました。戻ります。肩へどうぞ」
 カマキリは斉藤さんの腕を伝って、再び上手に肩へと戻った。
 しかし斉藤さんが向かったのは後ろの車両ではなく、前の車両だった。それに気がついたカマキリは驚き、「ちょいと! 逆ですよ!」と、斉藤さんを引き止めようとした。
 しかし斉藤さんは冷静だった。冷静だったので足も止めない。
「これは一つの可能性なんですが」
 歩きながら、斉藤さんは呟いた。
「もしかしてね、ほんとは未来も過去もないんじゃないですか? あなたは最終的にわたしが後ろの車両に行くよう誘導していましたが、おそらくそれは、あなたの記憶がそのままの状態でリセットされる条件がそれであり、それのみが、あなたが知っている確実な条件だというだけで……」
 斉藤さんは前の車両の扉で立ち止まる。
「きっと、わたしはあなたを連れて、一度も前の車両には行っていないんじゃないんですか?」
「いいえ」
「ほんとですか? でも、まぁ、だとしても止める理由なんてないんですよね。だってあなたにとってはほんの一瞬前のわたしに戻るだけなんですから。むしろ先程、変なことを言い出したわたしを、あなたの弁舌でうまいこと帳消しにできるかもしれない。ね? あなたが止める理由がないですよね」
 カマキリはとうとう再び、黙り込んだ。
「大体、前提として、進行方向の車両が過去に戻り、その後ろがリセットだなんて。なんだかバランスが悪いというか、気持ち悪いんですよねぇ。例えばわたしなら……」
 ぐっ、と斉藤さんは車両を繋ぐ引き戸に手をかけ、とうとうその扉を開け放つ。
「後ろの車両であなたの記憶を保持してリセットなら、前の車両でわたしの記憶を保持してリセット、という風にしたいところですよねぇ。その方がフェアでしょう?」
 また元のように『終点に辿り着いたばかりの車両』に戻った斉藤さんは、扉の前ではなく、いつのまにか先ほどと同じ座席に座っていた。ゆっくりと肩の上を見やると、そこには真っ白になった細いカマキリがちょこんと乗っていた。
「真っ白になっちゃいましたね。……って。ああ、もう喋れませんか」
 いや、しかし、斉藤さんはここで少し妙な気がした。
 斉藤さんの体感的には、ちょっと前に自身が目覚めた時、もうすでに電車は終点に着いた後だったような気がしたのだが、今回は走っていた電車が今丁度駅に止まったようだった。
 さらに、プシューという音とともに開いた扉に、斉藤さんは慌てて立ち上がった。ややもつれるような小走りで開いた扉の前に立ち、駅名を確認した斉藤さんは、「ああ、そうか。君はほんとに……」と肩の上のカマキリを見つめた。
 そこは終点の一つ前の駅であったのだ。
「そういえば、たしかあの奇妙な現象の原因はあなたでしたものね? わたしが思い直すことを確信できたら、この方法を教えてくれるつもりだったんですか?」
 ということは、最終的に後ろの車両を勧めたカマキリは、やはり最後まで斉藤さんのことを信用していなかったわけである。
「まぁ、いいや。今度は達者に暮らしてくださいね。もしかしたらそんなに生きられないかもしれませんが。とりあえずもうこんな恩返しなんて考えなくて良いですから」
 肩から手の平にカマキリを移らさせ、斉藤さんが小さく言い聞かせても、もはやカマキリはただのカマキリのように顔を洗っている。その仕草にやはりなんとものどかな気持ちになって、斉藤さんは微笑むと、カマキリを丁重に電車の外の白線の向こうへと降ろしてやった。
 さぁ、これでまた、終点を目指せる。
 斉藤さんが、そう思うか思わないかの瀬戸際。白線を超えた何者かの革靴が、カマキリを一瞬にして踏みつけた。
 斉藤さんは、この時ばかりは冷静さを欠いた。
 しかしその不届きな何者かの顔を確認する前に、ぐい、と力強く腕を引かれ、斉藤さんはあっさりと車外へと出された。そして背中の方であっけなく扉が閉まる音が響き、再び電車は何事もなかったかのように走り出し、行ってしまったのである。
 斉藤さんが目指したかった、終点へと。
「あなた!」
 斉藤さんは声を荒げ、詰まる声でなんとかそう叫んだが、その人物のザラザラとしたしゃがれた声に、息を呑んだ。
「一つあんたに言い忘れたことが。あたしの名前は、無賃乗車の君じゃあ、ございやせん」

第一話『終点のカマキリ』了 第二話『黄色の残像』へ続く
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第二話https://note.com/gifted_tubaki59/n/n982e947787e8?sub_rt=share_b
第三話
https://note.com/gifted_tubaki59/n/n44d196ab38bd?sub_rt=share_b
第四話https://note.com/gifted_tubaki59/n/nccd97e9e2afc?sub_rt=share_b
第五話
https://note.com/gifted_tubaki59/n/n673a482e2b78?sub_rt=share_b



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